第14話 世話の焼ける

 明朝、午前八時前。


「あー、悪い文月、ちょっと時間いいか?」

『どうされましたか? いつもならもう家を出られている時間かと思いますが』

「いや、諸事情あって今日は休むわ。後で学校にも連絡入れとく。……それで、一つ訊きたいことがあるんだけど」

『と、おっしゃいますと?』

「――お粥のレシピ、教えてくんない?」

『はい?』


********************


 午前五時半ちょうど、いつも通りに起床。軽く身だしなみを整え、たいようの腹にハーネスを巻きつけながら、昨晩より我が家に滞在中のおっちょこちょいが未だ睡眠中なのを確認。朝のジョギングは三日坊主未満かよと呆れるものの、ウェアもなにもないのだから致し方ないかと勝手に納得。

 午前六時過ぎ、いつもなら一時間程度続ける日課の散歩を早々に切り上げ、ちょっぴり不機嫌なたいようをなだめながら帰宅。文月がいない以上、洗濯や料理などの朝支度は俺がするしかない。帰るなり手早くシャワーを浴びて、上がった時刻がちょうど六時半。この時点でもまだ例のポンコツは就寝中。寝坊と言える時間ではないので、もう少しだけ寝かしておいてやるけれど。

 午前七時過ぎ。朝食の用意と洗濯物の処理が完了。ダイニングテーブルにトーストとベーコンエッグを二人分並べて、自分の分だけもしゃもしゃ咀嚼。朝のニュースを一通り確認しながら、食べ終わったのが七時二十分ごろ。――しかし、まだ文月の部屋のドアに開かれる気配はなし。


「遅刻するぞー」


 ノックしながら言うものの、リアクションはなし。昨日色々あって疲弊しているのはわかるが、いくらなんでも限界まで寝すぎ。身の繕いにかける時間はまずまちがいなく俺より長いだろう入江に、これ以上の余裕があるとは思えない。

 立て続けにコンコンコンコンとノックし続ける。本来なら押し入ってやりたいところなのだが、ここが文月の部屋であるという事実が強行策の妨げになる。共同生活を送るうえで個室だけは暗黙の不可侵領域と化していて、俺は隙間から中を覗いたことすらない。


「入江ーー」


 保護者期間は昨日から継続中らしい。抜けてはいるもののだらしない奴ではないから、大方目覚ましをかけ忘れたとか、そんな感じだろう。いや、それをだらしないと呼ぶのかもしれないが。

 すると、そのときだった。

 ガタっとなにかが落下する物音が部屋の内側から鳴り響く。大慌てで跳び起きたものと推測し、外開きの扉で攻撃されないようにと一歩後ろに下がって数秒。しかし彼女が姿を見せることはなく、かわりに再びガタっという落下音。

 朝っぱらからなんの遊びか知らないが、あまり長く付き合っていると俺までとばっちりで遅刻してしまう。それは御免被りたかったので、仕方なくその扉を開くことにした。彼女を放置すると未施錠の家を残すことになるので、こうするしかないのだ。


 内装は極めてシンプルで飾りっ気がない。文月らしいなと思うと同時に、勝手に入った罪悪感が薄めで助かる。本来は片付いた空間なのだろうが、ベッド近くのカーペットに散らばったスマホとチューブタイプのハンドクリームが異質なノイズになっている。物音の正体を拾い上げながら、俺はベッドサイドに立って。


「起きてんならさっさと立って顔洗え」

「……んぅ」


 まだ寝ぼけているようだったので布団をばたばたさせて冷たい空気を送り込み、それでも動く気配がないのを見て頬をぺちぺち叩く。――いつもなら、このあたりで「なにすんのよ!」と反撃が来るはずで。


「……いま、なんじ…………?」


 されど、返ってきたのはふにゃふにゃと力の抜けた言葉のみ。心なしか声は枯れ気味で、目元は妙に腫れぼったい。

 言いながら、亀の歩みのような緩慢さで起き上がろうとする入江を無理やり押さえつける。言動と行動が不一致だが、ここまでくればもうどういう事情があるかくらいわかる。


「寝っ転がったままでいいから、これから俺が質問することにあるかないかで答えてくれ。――頭痛は?」

「……ある」

「腹痛は?」

「……ある」

「全身の倦怠感は?」

「……ある」

「熱っぽさは?」

「……ある」

「はい、風邪と」


 簡易問診が終了。素人判断だから絶対の正解ではないが、インフルエンザや胃腸炎が猛威を振るう季節でもないし、シンプルな体調不良からの発熱だろう。触れてみた額からは確かに熱を感じて、検温するまでもない。

 

「だから寝とけって……」


 また上体を起こそうとする入江を押さえる。この状況で会話に作法を求めるほど偏屈な人間ではない。


「なんじ……?」

「七時半。どうせお前は今日休むんだから知ったところでなんにもならん」

「……じゃあ、まだぜんぜんだいじょうぶだ」

「さては皆勤賞至上主義者だな? そんなことしても他の連中にウィルスばらまくだけでなんにも偉くは――」

「……ちがくて」


 怠そうな回り切らない呂律で言い、入江は俺の胸を指さして。


「あおいはまにあうでしょ……?」

「…………はぁ」


 言うに事欠いてそれかよと、深い深いため息をつく。……確かに冷たくあしらってきたことは否定しないけれど、俺をそこまで見下げ果てた冷血人間だと思っているのだったら、それは今日の内に訂正してもらわないとならない。


「別に、ほっといて学校行ってもいいけどさ。帰ってきてお前が最悪死んでたら、こっちの後味地獄だぞ」


 乱れた布団をかけ直し、持ちっぱなしだったスマホとハンドクリームを置いて、近くにあった四つ足の椅子に腰かける。


「そりゃ若くて体力のあるお前が風邪で死ぬことなんかないのはわかりきってるけど、仮にもここは俺の家だし」

「……でも」

「デモもストもねーんだわ。助けを求める能力がさっぱりなのを明らかにしたのは昨日のお前だから、文句言うならそっちだ」

「うっ……」


 迷惑をかけまいとした挙句に余計な心配をかけさせるのだから世話ない。死ぬとまではいかなくとも、悪化したときに対応してやれる誰かが傍にいないことには、こいつはちょっと危なっかし過ぎる。


「熱測って明らかにヤバそうだったら病院連れてく。そうじゃなくても一日静養。俺も一度くらい学校サボってみたかったし、良い機会だな」


 周辺の内科の位置をざっと確認。タクシーを使うにしても、こいつをマンションの外へ連れ出すだけで一苦労しそうだ。そのときは背負えばいいかと覚悟を決めて、一つ質問を追加。


「食欲は?」

「ちょっとだけなら……」

「そしたら、どうするか……」


 この様子でベーコンエッグやトーストが食べられるとは思えない。胃の処理能力に負担をかけて、体調が悪化する可能性すら考えられる。

 こうなってくると、病人食の定番である粥がベターか。


「いいか、トイレ以外はそこで寝とけよ。立てないんだったら恥ずかしくても俺をこき使え」

「……どこいくの?」

「別にどこもいかねえよ。ちょっとしたら戻ってくるから、それまでゆっくり休んどけ」


 こういうときに限って、一番頼りになる文月が近くにいないのが痛い。ただ、ないものねだりに意味はないから、俺にできる範囲で看病ってやつをするしかないようだ。


「……あおい、かぁ」


 部屋を出て、一人呟く。――ずいぶん久々に呼ばれたものだと苦笑しながら。

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