第41話 当たって砕けるな
「すまないね、お待たせして。今日は妻が家を空けているものだから」
「どうかお構いなく」
どういうわけか玄関はすっかり整頓されていて、靴の一足たりとも外には出ていなかった。まあそれはいいかと思考を切り替え、瀟洒な細工のティーポットから、琥珀色の液体が注がれるのを眺める。文月とのかかわりの中でそれなりに紅茶を嗜んできた自負はあって、しかしそのせいで絶対この茶葉ヤバいやつだという直感に襲われた。来客用の、それもとびっきり特別な品物にちがいない。嗅覚や味覚が俺より洗練されているはずの入江の反応が、高級品であることを物語っている。
「もしかして、娘がなにか粗相を?」
そうだった。茶の一杯や二杯に気圧されている場合ではない。俺がここに来た目的を忘れるなかれ。
「まさか」
やや大げさに、問いを否定。駆け引きはとっくの昔に始まっているのだから、一瞬だって気は抜けない。俺は口に含んだ液体を飲み下し、喉に潤いをもたらしてから続ける。
「それどころか、いつもいつも世話になりっぱなしで。感謝してもしきれませんよ」
「だったらよかった。……しっかりしているように見えてお転婆だから、親としては心配でね」
親視点、子どもは小さいときの印象で固定されがちだ。一番危うく、それでいてかわいかったときの姿がより強く記憶として残るからなのだと思う。俺の親にもその傾向は見受けられて、未だにいちいち必要か疑わしくなるような確認やお小言をちょうだいする日々だ。それが親という生き物の生態で、さらにそれらをうざったがるのが子どもという生き物の生態。そう思って万事受け流している。しかしながら、大人と子供とでは時間の感じ方にどうしようもない差が生まれてしまうものだから、彼の言ったお転婆というワードは、ほのかな懐かしさを伴って俺の耳に届いた。
「自分としては、しっかりし過ぎていて心配になるくらいなんですけど」
「それだけ張り切っているってことじゃないかな、きっと」
今でこそ折り目正しいお手本通りの淑女たる文月だが、昔からずっとそうだったというわけじゃない。むしろその逆というか、俺たち三人の中で一番活動的なのが彼女だった。活動的であることとお淑やかであることは決して矛盾しないが、オブラートに包まず言ってしまえば、もう少し大雑把な性格をしていた。スカートより短パンが似合うような、ロングヘアよりショートヘアが似合うような、性別というものを感じさせない子どもだったと記憶している。
成長の過程で徐々にオミットされたそれらこそが、俺にとってもっとも親しみ深い文月美愛を形作る要素だったわけだが、それは今関係ない。
「でも、よくやってくれているのならよかった。新生活の方はどうだい。慣れてきた頃かな?」
「だんだんと。親のすねをかじってばかりですけど、自立心は少しずつ芽生えてきたように思います」
「それにしても、葵くんが外部進学を希望したのは意外だったな。エスカレータに乗りっぱなしの方が堅実だというのは理解のうえだろう?」
「そこはまあ、若さゆえの過ちというか、ちょっと遅めの反抗期というか。言い方はアレですが、実家の太さを考えたらどんな失敗もすぐに回収できるので、なにか新しい挑戦をと」
「計算ずくというわけだ」
「これで家になにか還元できたら鼻が高いんですが、今のところはなんとも言えませんね」
「挑む心意気こそが肝要だよ。歳をとってくると、なにかにつけて守りに入るようになりがちでね。若気の至り大いに結構。張り巡らされたセーフティネットは最大限有効活用するといい」
「痛み入ります」
円を描くようにティーカップを回し、熱を均一にならす。やって初めて今のが無作法だった可能性に思い至るわけだが、そんなことを逐一咎めてくる人でないことくらいは知っている。なにせ、産まれる前から俺を知っている相手だ。付き合いの長さで言えば親の次点に位置していると言って過言ではない。
「お口に合いましたか?」
おじさんは、先ほどからずっと地蔵状態の入江に話を振った。聞き耳を立てながらちびちび紅茶をすするだけだった彼女が、ここでようやく口を開く。
「美味しくいただいています」
「それならよかった」
最近学校でよく見るよそ行きスマイルだ。なんというか、世間の思うお嬢様っぽさをダイレクトに己の見た目へと反映させた、ウケが良さそうな笑み。入江の研究の賜物らしいが、俺から見ると不気味でしょうがない。
ただ、知らない相手には抜群に効く。おじさんはすんなり納得して口角を上げると、両手を腿の上で組んだ。
「感無量、とでも言うべきかな。お二人ともこんなに大きくなって」
ああ、そうか。子どもを小さい頃の姿で固定しがちなのは、なにも親に限った話じゃない。幼い時分の印象を強く刻まれている人間であれば、誰でもそうなり得る。俺はともかくとして、おじさんが入江をよく見ていたのは就学前。ならば、感慨もひとしおだろう。
「なんでも、入江さんも葵くんや娘と同じ学校に通っているとか」
「思うところがありまして」
それどころか家まで隣なのだが、言葉にするのはためらわれた。情報は小出しにして行きたい。
「友人と距離ができてしまうのは喜ばしくない。わかりますよ」
「あ、いや、その……」
見せかけの余裕を崩してあわあわし始めた入江の脚を、おじさんからは見えない角度で軽く蹴飛ばす。メッキを剥がすならせめて少しは粘った後でだ。彼女もそれは理解しているのか、「子どもじみた考えだとは承知しているのですが」と付け加えた。
「まさか。人とのつながりは最大の宝。それ以上に価値あるものなど存在しません」
「……そうでしょうか?」
不思議そうに聞き返す入江は、なぜか横目で俺をチラ見してくる。それはまるで『こいつとの関わりが本当に宝か?』とでも言いたげで、場所が場所でなければ戦争だった。俺が時、場所、場合を考慮できる人間でよかったと心底思う。それとも、今しがた蹴ったことへの反抗心か。
「私自身が生きた標本。幼少期の友人が、未だにビジネスパートナーですから」
茶化すように言って、おじさんはそのまま俺へと視線を移した。今のがウチの父親についてだというのは心得ていて、合わせるように俺も肩をすくめる。人付き合いを大切に温めることが後々いい方向に作用する。彼の経験をふまえた人生論だ。
「だから、長い付き合い、古い付き合いほど丁重に扱ってください。それはきっと、今後に関わってきますから。……ね?」
「…………」
ああ、ここだ。ようやく見つけた。探り探りでいまいち踏み込みどころを見つけあぐねていたが、タイミングというものが存在するのだとしたら、それはきっとここ以外にはない。絶好機。明け透けな隙。逃すわけにはいかない割り込みのチャンス。
はやる心を理性で抑えつけ、ゆっくり息を吸う。――そして。
「……そのお話と通ずるところがあるかもしれません」
「おや」
「本題、いいですか?」
向こうが「世間話もここまでにして」と切り出してくれるのを待つのは受け身が過ぎる。攻め込んだのは俺なのだから、先陣は常にこちらが切る覚悟でいるべきだ。さあ行け。当たって、そして砕けるな。
「誓約書という単語に、心当たりはおありで?」
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