第42話 さかさま
言った。とうとう言った。これでもう退路はない。引っ込みがつかない。腿を掴む手についつい力がこもり、爪が深く食い込む。我ながら心臓の小ささにあきれ果てるが、勢い任せでも一歩踏み込めただけで及第点。
しかし、現在地がようやくスタートラインだ。一呼吸置く余裕すらない。しっかりとおじさんの顔を見据えたまま、表情が崩れそうになるのを必死にこらえる。
「知っているとも。葵くんよりずっと長生きだからね」
「いえ――」
「――そしてもちろん、そんな一般的なことを聞いているわけではないのもわかっているつもりだよ」
目に見える形で主導権というものが存在するのだとしたら、今のやり取り一つで、それは向こうの手に渡ったのだろう。発言を途中で遮られるというのは、思っている以上に思考整理に差し障る。俺だってこういう話術や交渉術を知識としては持っているものの、まだ己のものとして昇華しきれていない。彼我にある明確な経験の差を一瞬で痛感し、ひよっこが出し抜こうと思うだけ浅はかだったのかと気勢が削がれかける。
だが、そこで。
「すいません、葵ったら昔からずっと前語りが冗長で」
「いえいえ」
身内disに見せかけた援護射撃が入江の方から飛んできた。そうだ。相手のペースに自分から巻き込まれに行ってどうする。つまらない反省会なら後でいくらでもできるのだから、今はとにかく段取りを遂行することだけ考えろ。……あと、意図はわかるが爪をそれ以上押し込むのはやめてくれ。話どころではなくなってしまうから。
「……なら、話は早いです。実はつい先日、父からとあることを聞き受けまして」
「と言うと?」
「聞き受けた、という表現は正しくないかもしれませんね。とあるものを見せてもらったと言った方が伝わりやすいでしょうか」
「……ほう」
できるだけもったいつけて、相手の出方をうかがう。しかしそこは年の功なのか、目に見えた変化はない。
「その節はウチの父がご迷惑をおかけしたようで」
「いつものことさ」
「まったくです」
立場的にも能力的にも、父親がすごい人間なのは知っている。だが、いつからかまるで威厳を感じなくなってしまった。この感覚も自分が社会に出る頃にはきっと薄れているんだろうなという淡い期待を抱いているが、本当に薄れてくれるのだろうか。今から少し不安だ。
「それについて、なにか?」
「はい。おじさん……いえ、文月さんは、今でもあの紙に書かれた条項の達成を望むのかお聞きしたくて」
「イエスと言ったら?」
「自分がこの家にお邪魔する時間が、いくらか長引くことになるかと」
両者笑顔なのに、雰囲気だけが異様にひりつく。小指の爪を押し込んでいたはずの入江の指がいつの間にか絡みつく形になっていて、そこにこもる熱だけが俺に現実感を与えてくれていた。
「私は構わないよ。むしろ、気になるのは二人の門限の方だ」
「それならご心配なく。自分もとばりも、もう時間に融通が利く身です」
「ならよかった。夕飯は大人数で食べた方が楽しいからね」
「……生憎ですが、先約があるので」
今晩は家でご馳走の予定なのだ。もちろんこのお宅でいただく方が予算面では充実するのだろうが、この数ヵ月で俺の舌はすっかり文月仕様に染まっている。しかも材料費を稼いだのが俺自身となれば、そこには金額に表せないだけの価値が生まれようというもの。……しかし今のやり取りだけで話がつくまで帰らせる気はないという思惑が見え隠れして、もし一人で来ていたら心が折れていたかもしれない。こればかりは、同行してくれた入江に感謝だ。
「……それはつまり、葵くんには美愛を迎える意思がないということでいいのかい」
「……はい」
「ふむ。回りくどくなるのもいやだから、率直に質問させてもらうよ。……パートナーとして、美愛にどんな不満があるのかな?」
正直、期待している面もあった。実はおじさんは古ぼけた約束のことなんか気にも留めていなくて、親父相手に話を蒸し返したのは単なる日頃の憂さ晴らしだと。少々慌てさせたところでネタ晴らしをする予定だったのだと。だが、今この瞬間にその望みは潰え、いよいよ戦いの幕が上がった。どうやら、彼は未だに本気らしい。……つまり、文月を俺の籍に入れてしまう気満々なのだ。改めて考えたらとんでもねえ話だなこれ。
「まさか。重ねて言いますが自分は日ごろから美愛さんのお世話になってばかりですし、感謝しかありません。当人はもちろんのこと、彼女を今の姿に導いてくださったご両親にも」
「そうなると、私としては容姿について言及せざるを得なくなるわけなんだが」
「それは無粋でしょう。贔屓目抜きに、あんな美人にはそうそうお目にかかれない。文月さんも、それは重々わかってらっしゃるはずだ」
「なら――」
「――第一に、つり合いの観点から話をさせていただきたい」
発言の中断。自分が煮え湯を飲まされたことを相手にも押し付けていく。練度に開きがあるというのなら、この場で吸収していけばいい。俺は優秀な父の子で、優秀な兄の弟なのだから、やってやれないはずはない。
「言った通り、美愛さんにはおよそ隙がない。完全無欠と言っても言い過ぎだとは思いません。気立て、器量、果ては細やかな仕草に至るまで、百点満点なら百二十点。ABC評価ならS判定。既存の評価軸に当てはめようと試みること自体おこがましい。――しかし、ここで自分はどうだろうかと振り返るわけです」
恥ずかしいことを口にしているが、事実であることにちがいはないから案外すんなり舌が回る。気分が高揚していくのを感じ、勢いのまま雪崩のように突き進む。
「両親からのもらいものである顔立ちにケチをつけるのは心が痛むのですが、とても美愛さんと横並びになって存在感を維持できるレベルとは言い難い。芸事についてはさっぱりですし、唯一熱を入れて取り組んでいる勉学も、突出しているかと言われればそうではなくて。唯一残る先祖が築き上げてきた家名すらも、三男坊では声を大にして自慢できません」
「それはどうだろうか」
気持ちよく語っていたところに、おじさんからの割り込みが入った。俺としては、意気揚々と自虐を行う男に娘を任せられるわけがないという結論に着地してもらいたかったのだけれど。
「確かに錬也くんの学業成績には目を見張るものがあったし、摩也くんがスポーツで残してきた結果は見事だった。それと比較して委縮してしまう気持ちは十分に理解できる。ただ、私や越智が最も将来を期待しているのは君なんだよ、葵くん」
「…………」
初耳だった。思わず体が硬直し、そんなことを言われた過去があっただろうかと記憶の箱を片っ端からひっくり返すも、それにあたる思い出は見当たらない。
「どうしてかわかるかい?」
「……いえ、まったく」
「君が一番、あいつの若い頃に似ているからだ。顔はもちろん、性格や考え方に至るまでね」
「うれしいような、素直に喜びにくいような……」
「そこは喜んでおきなさい。君にはきっと、大成する素養がある」
そう言われても、俺に大きな野望なんてないからあるだけ邪魔というか、なんというか。けれど、言われて苛立つ類の言葉ではなく、ついさっきまでの勢いがすっかり萎れた。
「そうやって将来まで見据えたとき、まちがいなく君の社会的価値は美愛が持っている魅力とつり合うだろうし、それどころか天秤はおそらく君の方に傾く。私も歳だし、娘には安定した生涯を送ってもらいたいんだよ」
「……お言葉ですが、買い被りですよ、それ」
「だったら、そうなるように自分を高めていけばいい。『ぶどう畑の宝もの』は知っているかな?『三人の息子』の方が通りはいいかもしれない」
「知識としては一応」
「君は成功者になれる人間だと、私は思う」
「……恐縮です」
昔読んでいたイソップ童話にそんな物語があった。広大なぶどう畑を所有する男が病に伏せり、彼は熟慮の末、不真面目な息子たちに「あのぶどう畑には財宝を隠してあるんだ」と言い遺した。その言葉で奮起した息子たちは来る日も来る日も畑のあちこちをひっくり返して、よく耕された畑には過去にない量のぶどうが実り、結果として財宝を手にしたのと変わりないほどの富を獲得したという。ここからどんな教訓が得られるかは読み手次第だろうが、俺は、一つのことにそれだけ愚直に取り組めるのであれば、どのみち息子は成功していただろうなと思ってしまった。少々斜めに見過ぎかもしれないが、結局のところ、息子たちにはなにかを成し遂げる才能が眠っていたのだ。
ただ、俺がそれになれるかと言われたら疑問は残る。三度の飯より諦めることが好きなのに。
「あまり自分を低く見積もってはいけないよ。……さあ、第一といったからには二つ目以降もあるんだろう? 聞いていこうじゃないか」
「……第二に」
促されるまま、口を動かす。どこかで俺の発言を引っかければいいのだから、一度言い含められたことを気にしている場合ではない。
「倫理的な観点からこの話を見てみたいです。もし仮に能力や才能といったところでマッチングが成立したとして、性格の不一致は十分に考えられる話だ。仮面夫婦より悲惨なことも世の中にないでしょう」
「十年以上仲良くやってきたのに、今さら性格の話に戻るのかい?」
「…………」
一瞬で論破された。あまりに当たり前すぎて、事前準備でそこに言及される可能性に至らなかった。馬鹿もここまでくると才能だぞと自分を励まし、間髪入れずに最後の最後まで取っておいた第三の矢を弓につがえる。できることなら、これに頼りたくはなかったのだが。
「第三に」
深呼吸する。その後、おもむろに立ち上がる。――その際、とあるものを手に掴みながら。
「……なるほど」
納得した様子のおじさんを前に、俺は半分涙目だった。――ああ、いったいどうしてこんなことに!
「……心に誓った相手が既に俺にいた場合、どうでしょう」
「薄々、そう来るんじゃないかと思ってはいたんだ」
「でしょうね。そうでもないと、こんな場に部外者を連れてはこない」
俺が用意した、三つ目にして最後の手段。理屈ではなく情の方に訴えかけるべくセッティングした、禁忌のウルトラC。つながれた手の震えは、果たしてどちら由来のものか。
題して――
「こればかりはどうしようもありませんでした。親父に話を聞かされる前から、俺はとばりと婚約していたんだから」
――許嫁の逆利用。
お隣さんは学園二大美女。同棲相手も学園二大美女。……これ、おかしくないですか? 鳴瀬息吹 @narusenarusenaruse
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