第40話 お久しぶりです
タイヤが小石を跳ね上げる感触がシートに伝わってくる。車体に傷でもついたら縁起が悪いなと膝を支点に頬杖をついて、フロントガラスに付着している泥汚れを見つめた。こうして目の焦点を固定するだけで、思考のブレがなくなる気がするから。
科学的論拠に乏しいゲン担ぎに走り出す俺とは対照的に、横に座す同伴者は黙々と手帳を読み込んでいた。最後の拠り所にするものの違いはすなわち性格の違いであり、俺と入江との差異の証明。神頼みの俺と対照的に、彼女は最後まで自分の実力を信じぬくタイプだ。
「……酔ってきちゃった」
「俺の分析を一秒で覆すなバカ」
本来魅力的なセリフであるはずのそれは、居酒屋やバーで用いられさえすれば十全なパワーでもって男を襲うのだろう。ただ、車中となると話は変わる。エチケット袋を前にすれば、千年の恋も冷めるというものだ。いや、そもそもそんなものに落ちたことはないが。
「なに自分の三半規管を過信してんだ」
「手持無沙汰だったんだもん……」
「ったく……。すいません運転手さん――」
余裕を持った日程を組んでいて心底よかったと思う。幸か不幸か約束の場所までは間もなくで、徒歩でも苦にならない。元の予定から外れる形になったが乗車賃を払って途中下車し、入江に外の空気を遠慮なく吸わせてやる。
「しゃーないから息整えながら行くぞ。変に我慢して到着後に堤防決壊じゃ笑うに笑えん」
「そこまでじゃないし……」
短期間で絶妙にくたびれた彼女の数歩先を行き、途中途中で振り返る。その作業も億劫になったので、ため息まじりに横へ並んで問うた。
「ポンコツに拍車かかってねえ?」
「空回りしちゃうのよ。それはあんたも同じでしょ」
「まあ、確かに」
返す言葉もない。日常の些事ならいざ知らず、ここぞという場面でミスをするのが俺だ。専売特許と言ってしまっても構わないが、考えに考えて、その挙句に裏目を引く。もはや習性と言ってしまっても差し支えなく、だから今日だって、なにかやらかしてしまわないかと内心気が気でなかったりするのだが。
「でも、あれだな。明らかに自分よりヤバそうな奴がいると、すげー安心する」
「サイテー」
薄目で睨んでくる入江だったが、気分が優れないのには変わりがない。回復を祈るように天を仰いだかと思えば、その数秒後には歩道に敷き詰められた正方形のタイルと見つめ合っている。動きとしては、ラジオ体操序盤に要求される前屈と後屈の交互運動に近い。その動きを何度か繰り返し、都度深呼吸を挟んでから、入江は「……ん」と戦線復帰の意思を示した。
「復活か?」
「ちょっとドキドキしてるけど」
「程よい緊張がベストパフォーマンスを引き出すらしいぜ。まあ、俺とお前に当てはまる気がしないが」
気を引き締めれば引き締めたぶんだけ、どこかで大事なバルブが緩む。納品時点での欠陥なのだが、今となっては返品のしようもない。俺にできるのはどう付き合っていくべきか考えることだけ。
「ちょっと頭ほぐしながら歩くか。……舞姫の作者は?」
「森鴎外」
「んじゃあ舞姫作中で真っ先に出てくる名詞」
「石炭」
「その感じだと書き出しはそらんじられるだろ」
「石炭をば早や積み果てつ。をば、は格助詞と係助詞が連結して音が変わった強調表現」
「出そうと思った問題を先回りして潰すな。趣向変えるぞ。四ケタで最小の素数は?」
「1009」
「当たり。じゃあ最大」
「……9973だっけ?」
「当たり。最後。円周率末尾四ケタ」
「…………」
こればかりは即答というわけにもいかなかったか、入江は考えるそぶりを見せた。それからしばらくして「言えるわけない」と至極真っ当な回答。無理数の末尾を言えるなら、そいつは神かそれに近いなにかだ。
「引っかかんないな」
「どうやっても引っかかれないでしょ」
「そりゃそうか。お前、わかんない問題は白紙で提出するタイプだもんな」
「まぐれ当たりしたら運を使ったみたいでいやだし」
マークシート形式だろうがその思考を貫くのがこいつの一番やばいところなのだが、それでも俺より成績上位だから文句はつけられない。いつの間にやら酔いは消えたようで、「じゃあじゃあ今度はわたしが」と本旨を見失った問題合戦が幕開けしそうになる。
「俺はいい。頭はちゃんと回ってる」
「ほんと?」
「嘘ついてどうすんだ。コンディションはばっちりベスト。後は野となれ山となれ」
「投げやりじゃん」
「そりゃあな。俺にできる努力は現段階でほぼほぼ完結してるし」
アクシデントで話の腰を折らないように腕や首の関節を予め鳴らし、頭の中で組み立てたロードマップを再度なぞる。緊張自体は残るものの、手を尽くせるだけ尽くしたつもりなので不思議と焦りは小さい。これを投げやりと呼ばれたらそれまでなのだが、俺は敢えて余裕と称しておきたいと思う。
だが、どれだけ用意したつもりでも漏れや抜けは生まれるものだ。そのために体調を万全に整え、アドリブのリソースを蓄えた。それだってどこまで機能するかわかったものではないが、なにかにつけて『ないよりは』の精神が先行しがちなので、最後は結局心理的事情に行きつく。
「基本的には俺任せで、明らかにヤバそうだったらお前が助け舟を出す。最後になるが、これに問題は?」
「異議なし」
「ならよし。お前が口を開く機会が少なければ少ないほどこちらのペースだ。逆に、お前頼りの局面になったらそんときは腹くくるしかない」
「くくってどうするのよ」
「腹くくるのはお前だ。その横で俺は首をくくる」
「責任放棄もここまでくるといっそ清々しいわね……」
「まあ、それは冗談として」
おもむろに首を吊る俺を想像したのか、一度は回復したはずの入江の顔色が再び悪化。命がけというのはあくまでも気概の話であって、現実的に命を差し出すなんてことはありえない。戦乱の世ならいざ知らず、現代社会は安寧だ。
「どんだけやらかそうと、生き死ににはかかわらんしな」
これはむしろ、入江に宛てたというよりは自身に言い聞かせる意味合いの方が強かった。最悪に最悪を重ねても、俺の命の安全は保障されている。それだけで、深刻に考えすぎる自分の性格をぐっとおさえつけられる気がした。だからといって途端に豪放磊落に臨めるかといったらそれはそれで別問題なのだが、心の逃げ道は用意してし過ぎるということはない。
頬を軽く張って思考中断。俺がこれからなにをするのかにしっかり焦点をあてて、何度目かになる気合いの入れ直し。
「っしゃ、ここまできてやっぱやめたは勘弁だぞ」
「しょうがないから諦めた。今だけは一蓮托生」
嫌々ね、と付け足した入江の背中を強めにひっぱたく。「いったぁ」の声を置き去りに一歩前へ抜きん出て、反撃の手から逃れるように道を急いだ。
――で、そうすること数分。
俺たちがとうとうたどり着いてしまったのは、とある閑静な住宅街の一角。立派に構えられた一軒家、その表札に踊る文字は――
「――葵です」
外問に設置してあるインターホンに向かって話しかける。アポを取ってあるから応対はスムーズで、とんとん拍子ですんなりと家の中へと通してもらえた。「やあやあどうも」と笑みを見せる家主は言われなければ親父と同い年には思えないほど若々しい。おそらく、スリムなのが関係しているのだろう。
「突然申し訳ないです」
「いやいや、こっちこそご足労をおかけしちゃって。……あと、そちらは?」
彼は訝るように俺の後ろに控える入江を見た。その戸惑いは当然のもので、俺は今日同行者がいる旨を告げていない。その中で、手はず通りに「入江とばりと申します」と恭しく頭を垂れる入江。
「ああいや、もちろんお名前は存じていますよ。変わらず娘と懇意にしていただいているようで」
だから、訊いたのはお前は誰だ、ということではない。どうしてここにいるのか、というのが彼が現在抱いている疑問になる。
俺はまちがいがないように上あごと下あごの動きを確かめながら、一語一語噛みしめるように、これ以上ない聞き取りやすさで言い放った。おそらくは、彼の疑問に対する答えになるであろうことを。
「今日はその娘さんのことで、いくらかお話ししたいことがありまして」
顔が強張るのをひしひし感じながらも、火ぶたが切り落とされた気配を如実に察知。さあ、これからだ。
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