第39話 突撃となりの

 絶妙なラインを攻めるところから始める。服装は極力フォーマルで、さりとて堅苦しくなりすぎないように。髪型もきっちりキメて、表情の作り方から整えた。

 よし、と自分の両頬を叩く。鏡に映る情報が正しければ、今日の俺の見栄えに問題はない。ないように思える。少なくとも、自分の視点では。

 

「あの」


 慌ただしく身支度する俺を、文月が呼び止めた。「どした?」と聞き返す。彼女の顔には、困惑が滲んでいるようだった。


「そこまでお気を回していただかなくとも平気かと……」

「って思うじゃん?」

「…………?」

「第一印象って大事だからな。誠意を見せるなら、外面から繕って困ることはない」

「せ、誠意……」


 数歩後退し、そのまますとんとソファに腰かける文月。どこかぼうっとした雰囲気は数日前から拭えず、やはり体調が優れないのではないかと心配になる。本人が大丈夫と言っているから問題なし……でないのは日常茶飯事。それはなにも彼女に限ったことではなく、この国全体で共有している感覚だ。大丈夫に見えない奴に限って平気だ大丈夫だとほざき、のたまう。無論、俺もその例から外れることはない。


「本当に、お一人で?」

「ん。働き詰めのお前にあんまり無茶言うのもよくないし。それに、結局は俺次第みたいなとこあるから」


 あの衝撃の事実発覚からまだ一週間しか経っていないことに愕然とする。思考ばかりが空回りして、一ヵ月でも一年でも経過した気分だ。この期間だけで、一生分頭を悩ませたんじゃないかとすら思う。

 一応、結論は出た。どうやってこの苦境を突破するかの策は練った。通用するかは二の次として、やれることはやったつもりでいる。あとは向こうの反応如何なので、俺のお祈り力が試されるシーンだ。


 はやる気持ちを落ち着けるために瞑目して深呼吸。どんな受け答えにも対応できるよう、解答パターンは予め複数用意してある。その通りに会話の方向をコントロールするのが、俺が今日受け持つ役割。

 

「……文月?」

「いえ、これは、その……」

「エール的な?」

「……そう受け取っていただけると幸いです」


 全身に走る緊張は、今となってはもう隠しようがない。体のそこかしこに余計な力が入り、背筋は当社比二倍くらいにぴんと伸びている。――彼女は、そんな俺の胸の上に、そっと左手を重ねた。仄かに熱を持った真っ白な手は、ぴたりと心臓付近に張り付いて離れない。

 彼女としては緊張緩和を目指した行動だったのだろうが、あまりに急なことに俺がついていけなかった。もともとパーソナルスペースを広く取る文月だから、ボディタッチなんて数えるほどしか記憶にない。精神統一したかったのに、突如として感情が大きく乱される羽目になる。


「珍しいな、なんか。今日に限らず、ここ最近を通して言えることだけど」

「……少し、意識しすぎてしまっているのかもしれません」


 俺にならうようにして、彼女も息を整える。見下ろす構図が関係して、長いまつげと整った鼻筋がいつも以上に目についた。ため息が出るような、という喩えは、彼女のような存在のために用意されているのだろうと思う。若くして成熟した美貌は、やはり間近で見ると眩しい。


「どうされました?」


 見とれていたのだと素直に言ったときの反応を見てみたい気持ちもあったが、セクハラかつパワハラに相当しそうなのでやめにした。わかりやすく赤面するだろうなと推測はできるし、なにより今の俺に心を和ませていられる余裕はない。

 やることがあって、手立ても用意してある。残すは決心だけだ。それを揺らがせるのは、どんな形であれ避けるべきだと考える。

 

 悟られてはいけない。怪しまれてはいけない。今から俺がなにをするつもりなのかを。


「まあ、細かいことはあとで」


 手首を柔くつかんでゆっくり体から剥がす。約束の時間は間もなくで、もうじき家を出る必要があった。

気の利いたことの一つや二つぱぱっと思いつける人間だったらよかったのだが、そもそもそうじゃないから今難儀している。意味のないことばかり考えても仕方ないと文月の肩を裏拳で軽く叩き、「そんじゃ、留守番よろしく」と言い残す。


「あの……!」

「ん?」


 しかし、こういうときに限ってことがすんなり運ばないのが俺だ。もはや定評がある。呼び止められて耳を傾け、そわそわしている文月に続きを促す。


「…………あの、あの」

「まとまってからでいいぞ」

「…………」


 俺の言葉をすんなり飲みこんでくれたようで、彼女はたっぷり数秒間熟考してから。


「今晩は、ご馳走にしましょうね」


 はにかむように、そう言った。……ここのところ減退気味だった食欲も、夜になれば元通りかもしれない。その一縷の望みに賭け、「楽しみにしとく」と今度こそ家を出た。

 

 文月の柔らかい笑顔がまぶたの裏から消えるより早く、といってもエレベータの速度を操作できるわけはないからあくまでそういう気持ちで、階下へと下る。平然とエントランスを抜け、先週とは打って変わった晴れ空に目を細め、そしてマンション前に停車しているタクシーを発見した。


 迷わず、乗り込む。人違いの可能性はない。


「えっと、行き先は……」

「もう伝えたから」


 俺が簡単な経路説明を始めると、すぐさま横やりが入った。どうやら同乗者がいたらしい。――もっとも、知っていたことだが。


「ちょっと遅刻」

「ちょっとなら見逃してくれ」


 俺と同様、程よく加減した正装で姿勢よく着座している女が、隣でシートベルトを握りこんでいた。誰あろう、入江とばりその人だった。

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