第5話 あさんぽ
一日の流れは実家住まいだったときと大差ない。朝の五時半に目覚ましをセットし、それが鳴る数秒前に起床。顔を洗い、スポーツウェアに着替え、寝ぐせをキャップで誤魔化して、ベッドの横で舌を出しながら待機しているたいようを連れて散歩へ。眠いことは眠いが、慣れれば意外となんとかなる。それに、こうでもしないと運動する機会がない。
三十分ほど遅れて目を覚ます文月の邪魔にならないよう、音を殺しながら家を出る。さすがに日が昇りきらない六月の早朝は若干肌寒く、熱を得るために上半身を揺すっていると――
「……げ」
「だからその反応やめなさいよ!」
「うるせえ。近所迷惑」
――俺と似たようなタイミングで、俺と似たような恰好の入江がひょっこり外出。こちらの反応に対し、半ば反射に近い形で大きな声を出した彼女の口を慌てて手でふさぐ。
「ひょ、ふぁにふんの……!」
「なに言ってるかわからんし、実家暮らしの癖抜けるの遅すぎ」
こんなんでも一応は箱入り娘。広々とした土地の立派な邸宅で暮らしてきた彼女の脳内辞書に、ご近所トラブルという項目はない。……ったく、いちいち俺が教えてやることじゃないと思うんだけど。
「……ってかお前、こんな朝早く起きてなんの用?」
「見てわかるでしょ。ジョギングよジョギング」
「ダイエット?」
「殴られたいの?」
構えた入江の前にたいようの腹を出してガード。彼女は「卑怯な……」と言いながらも本能的な欲求に抗えずに毛並みを一通りモフってから。
「わたしも犬飼おうかな……」
「ぜーったいやめとけ。自分の面倒もみれないくせにペットとか百パー無理。たいようならいくらでもモフらせてやるからそれで我慢しろ」
「め、面倒くらい、みれるし……」
強がりながらも、言葉に覇気はない。そりゃあ昨日の今日でしっかり者を自称するのは無謀というものだ。昨日を抜きにしたって彼女は同様の失敗を既に複数回繰り返しているし、夕飯のおかずを焦がしてダメにするなんてしょっちゅう。泣きつかれるのを予期して文月がいつも一人分多く食事の用意をしてくれているのはもはやほとんどギャグの領域。俺から見れば完全にダメなマスコットキャラみたいなもので、こいつが美女だなんだと持て囃されているのに疑問しか感じない。
そりゃあ顔が良いのは認めるけれども、それ以上に残念な部分を知り過ぎてしまっている。知らぬが華とはこのことかと、俺はがっくり肩を落として。
「で、なんで付いてきてるわけ?」
「わざわざエレベータずらす意味もないでしょ」
なし崩しで肩を並べて歩き、エレベータに乗る。特に話すこともないので俺は無言なのだが、入江はそれじゃ落ち着かないようで横合いに俺の顔をチラ見してくる。
「なに?」
「……あんた、いつもこの時間に散歩してるの?」
「夜は不規則になりがちだしなぁ。っていうか、体で覚えたこいつが毎朝急かしてくるし」
寝そべっている愛犬を見ながら言う。俺だってたまに寝坊することはあるわけで、しかしそういう日はほぼ確実にたいようが腹の上で跳ねるなり顔を覆って呼吸を妨げるなりしてくる。俺以上に、こいつの習慣になってしまっているわけだ。
「……で、お前は毎日早起きして犬の世話する余裕あるか? その他にも適宜病院に連れて行ったり、トイレの片づけしたり。愛でるだけ愛でて厄介な部分から目を背けようとしてない?」
「し、してないし……」
「まあ、さすがにそこまで適当な奴だとは思ってねえけどさ」
ただ、真面目なのを知っているからこそ、その要領の悪さに不安を覚えてしまうわけで。よくもまあ一人暮らしなんて許したなと、彼女の両親を問い詰めたくもなる。
一階到着。悠々と敷地外に出る。人通りはなく、幅広の道路を独占するようにいつものコースに歩みを進める。……なぜか、隣に入江を伴ったままで。
「いや、なんでだよ」
「うっさい。わたしもこっちなの」
「えー……もしも学校の奴に見られて仲良しだと思われたら嫌なんだけど……」
「はぁなんですけど? はぁなんですけど?! そんなのこっちから願い下げなんですけど?!」
「朝っぱらから元気だなお前は……。だって普通に嫌じゃん。俺はわざわざ自分の生まれを知られない環境を作ったってのに、お前と一緒にい過ぎたらいつか絶対バレんだろ。入江がしょっちゅう絡む相手の苗字が越智だったら、勘のいい奴は気づくんだよ」
「別にいいじゃない。立派な家名に胸を張って生きれば」
「あのなぁ……」
やはりこのあたり、彼女と俺の間には致命的な行き違いがある。いつまでも放置してはいられないから、この際わかりやすく説明してやらねばなるまい。
「いいよく聞けー? 一人っ子で世襲が確定しているお前と、そもそも家のこと兄貴に完全に放り投げてるせいで後継ぎレースに参加すらしていない俺とじゃ、決定的に違うものがあるんだよ」
上二人の兄と俺との間には結構な年齢差がある。既に二人とも会社に入って下積みを始めているし、親父としてもどちらかに継がせる気なのは明らか。そして、俺はそのことに異存がない。家の未来は、優秀な兄貴たちに任せればどうとでもなる。家族間で地獄の相続バトルなんかしたくないから、勝負の土俵に上がるつもりすらない。
「大威張りで家の名前語っても、それに伴うものがない。めっちゃ虚しいぞ」
「ご高尚なお考えだこと」
「そちらさんみたいに帰属意識が強くないもんで」
元より、思想の色が違う。既に地盤と立ち位置を盤石にし、あとは安泰な運営を目指している越智と、まだまだ発展途上で地位向上に躍起になっている入江。俺たちの考えが相容れないのも、おそらくはそれに由来する。場外で代理戦争をしているわけだ。
「…………」
早朝から血圧が上がってよくない。相性が悪いことなど最初から知っているのだから、適切な距離感を保つことこそが肝要なのだ。これ以上の会話は無用と、歩幅を広げ、脚の回転数を増やす。……だというのに。
「なんで付いてきてんだよ……」
俺同様にスピードアップして、ご自慢の黒髪を朝日に透かしながら追従してくる入江。彼女はどうしてか険しい目で俺を凝視したまま、「たまたまよ」と言い訳にもならない言い訳を繰る。
「……ったく」
こいつは、昔からこうだった。どうでもいいことに拘泥して、なにかにつけて競争意識を燃やしまくる。決まって対象は俺で、もはやよく飽きないなと感心すら覚えるほどだ。
そんな因縁の相手とも、進学先の違いでおさらばだと高を括っていたのに。
――走りながら回想するのは二ヵ月前。新しく仕立てた制服に、まだ袖を通す前のことだった。
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