第4話 越智葵
「お前さぁ……何回同じこと繰り返せばいいんだよ」
「だって仕方ないじゃない。掃除が終わったところまでは覚えてたんだから」
あの後、きちんと部屋着に着替えた入江が、ウチのダイニングテーブルの一角を占領し、あまつさえ文月が用意した夕飯をもぐもぐ美味しくいただきながら、俺に食ってかかっていた。
「いれ直せばいいだろ」
「越智は知らないかもしれないけど、水道代って馬鹿にならないのよ? そんなもったいないことできるわけないじゃない」
「一番もったいないのは風呂の栓し忘れて空だきしてることの方だけどな……」
入江とはつまり、入江とばりである。数時間前に俺にテストの点数をたずね、その上で勝手に自爆した、洋菓子メーカーいりえやの社長令嬢である。
そんな立派な身分の彼女がどうしてウチの風呂なんか借りているのか。――それは非常に単純なことで、彼女の生活拠点、つまるところの家が、お隣にあるからだ。
「ほんとミアの料理は最高よね。……ねえ、越智の家よりずっと良い条件を出すから、入江のお抱えになる気はない?」
「俺のお付きにちょっかい出してんじゃねえ」
「なによ。百何年だか何百年だか知らないけど、古臭くなりすぎてかびの生えそうなそっちより、まだ芽が出たてで成長見込みに溢れているウチにいた方がミアのためになるに決まってるじゃない」
「昨日今日出てきたひよっこが、何十年後も変わらぬ姿でいられることを誰が保証できるってんだよ」
舌戦を展開中の俺もまた、文月お手製の煮込みハンバーグに舌鼓を打っていた。……ただ、飯が美味いだけに、それを邪魔するノイズが気にかかる。
俺と入江がバチバチに視線をぶつけ合っている中、蚊帳の外になりかけの文月が「あのぉ……」と控えめに手をあげて。
「私のお勤めは、そもそも父や旦那様の意向に依る部分が大きいので。とても自分一人でそんな大きな決断は……」
「ほら見なさいよ。十代半ばの女の子を縛り付けてこんな奴隷労働に従事させるなんて普通じゃないんだから。……そ・れ・も!」
びしぃっ!っと入江の指が文月の胸元を差して。
「こんなひらひらのメイド服なんて着せて! 自由権の侵害じゃない!」
「まあ待て、奴隷労働云々に関してはぶっちゃけ俺も似たような考えだし、親父に文句も言ってる。だが後半は……」
「後半は……?」
「……これは、その、私の好みと言いますか。やる気を出すための正装、でして」
消え入りそうな声で申し立てをする文月。確かに彼女はいささか華美すぎる装飾が施されたメイド服にその肢体を包んではいるものの、それは完全に自由意思なのだった。「ジャージとか着れば?」と言っても「いいえ私はこれで」と折れることはない。眼福なのでわざわざ変えさせる意味もないし。
「……ホワイトブリムも?」
「……はい」
恐る恐る聞く入江に、近くにあったお盆で顔を隠しながら答える文月。さあさ形勢が傾いてきたぞと、俺はこのタイミングで打って出る。
「あっやまれー。あっやまれー」
手拍子とともに催促。やり口から漂うクソガキ臭がとてつもないが、これが一番効果的だと判断した。
「な、なんで越智に言われなきゃいけないのよ」
「雇用契約上の話ではあるが、一応俺は文月の主なんでな。従者を虐める不届きものには鉄槌下さないと」
「こんなときばっかり……!」
謝れコールを追加しつつ、入江が「ごめんねミア……」と頭を下げるのを見守る。よっしゃ俺の勝ち。
しかし。
「葵さま。さすがに今のは目に余りますよ。一応と言うのならば、私もあなたのお目付け役を仰せつかっているのですから」
「反省します……」
そうなのだった。なにも文月は、俺の生活補助のためにこの家に常駐しているのではない。
「やーい、怒られたー」
「とばり様も、もう少し淑女らしいふるまいを心がけられた方がよろしいかと。学校ではできて、私生活でできない道理はないでしょう?」
「反省します……」
双方体を小さくして、お説教を受ける。この三人の中で一番しっかりしているのが文月なのは、相互認識だ。――なにせ、俺たちは幼稚園から今の今まで、同じ学校に通ってきた仲なのだから。
いりえやの話をするときに、どうしても欠かせない企業が一つある。あちらが気鋭であるならば、こちらは大御所大古参。ルーツを辿れば江戸時代にまで遡る、歴史ある由緒正しき老舗和菓子メーカー。名を、越智製菓。そう、越智。越智葵という名前からわかる通りに、俺はがっつりこの企業の関係者なのだった。そもそも関係者どころか、創業宗家の者なのだった。なんなら相続権さえも与えられる、現社長の三男坊なのだった。
益体もない話をすれば、この国にウチ以上の菓子メーカーは存在しない。それは自負でもなんでもなく、販売額が示す厳然たる事実。つまるところ、めちゃくちゃ金持ちである入江を凌ぐほどの金持ち。言っちゃなんだが生まれた瞬間勝ち組のボンボンで、黙って息を吸っていれば会社に相応のポストが用意される立場――なのだが。
そんな俺が、私立校のエスカレータを途中で降り、一般校に入学したのにはそれなりの理由があって。
「つーか入江さぁ、俺がこうやって高校進学のタイミングで家を出たのは越智の家に代々伝わってきたしきたりによるものなわけだけど、お前はなんなんだよ。成績良かったんだから内部進学余裕だったろ?」
「なに、まさか越智、わたしが落ちこぼれて逃げたんだと思ってたの?」
「いや、思ってねえから聞いてんだよ。ただ、歴史もしきたりもないのに、なんでそんなことしてんのか気にかかって。ぶっちゃけこのイニシエーションは意味ないぞ。友達はどこで作ろうと等しく友達だし、学業のレベルはあくまで当人の望むところに行きつくわけなんだから」
「いちいち棘のある言い方して……」
越智直系の男子は、高校進学を機に独り立ちの前修行をするというならわしがある。そこに同年齢のお付きをつけるのが一般的で、俺の場合はそれが文月だった。傍仕えは越智と親交の深いいくつかの家の中から選ぶルールなのだが、今の時代にそんな風習続けんなやとはずっと思っている。
まあ、ある程度は形骸化してきている。一番上の兄は家を出たもののお付きは連れていなかったし、真ん中に関しては家から出ていない。……ただ、俺は諸事情あって長兄に倣った。もちろんお付きは要らないと言ったのに、半ば押し付けられる形で文月がくっ付いてきた。……まあ、付き合いは長いし気心の知れた仲であるのはまちがいないのだが、数世代前までは傍仕えを夜伽の相手として選定していた気配があって、それに友人を巻き込むのはいかがなものかと思っている。俺が変な気を起こさなければ済むことだけれど。
ただ、これはあくまで「男子たるもの強くあれ」の教えに沿ってのこと。高校生で女の一人暮らしはいくらなんでも危険が多すぎる。
「別に、越智を参考にしたわけじゃないんだから。ただ、わたしはいずれ家を継ぐ者として、それにふさわしい格を身に着けるにはどうすればいいか考えただけよ」
「ほーん、良いこと言うじゃん」
「言葉の前に(入江にしては)が隠れてたわよね?」
「たくましい被害妄想だなぁ」
かっかすんなと、近くにあった茶菓子を入江の前に差し出す。実家から山のように送られてくるので、どれだけ食べても困らない魔法の品だ。
基本的に、家賃や光熱費といったものは家が勝手に払ってくれている。ただ、食費に関しては自分で賄う風習で、そのために俺はバイトに励んでいた。俺だけだったら適当でいいのだけれど、実家から連れて来たたいようと文月にひもじい思いはさせられないので、シフトはかなり詰め詰め。……いざとなれば菓子だけ食べて生き永らえられなくはないけれど。
「……むぅ」
「(美味そうに食うんだよなぁ……)」
明らかに俺をライバル視し、越智の家に強烈な対抗心を燃やしている入江だが、菓子だけは美味しい美味しいと素直に喜んで食べるのだ。菓子に罪なしの姿勢は好感が持てて良い。あるいは、競合他社製品を文字通りに食らってゲン担ぎしているのかもしれないけれど。
「ともかく、お前はちゃんと風呂の栓したか毎日確認しろ。じゃないと」
「じゃないと?」
「毎日夜の同じ時間に、俺が確認の電話を鳴らす。バイトがない日はこの目でチェックしに行く」
「地獄じゃない! 毎日わたしが裸になってるお風呂場でなにするつもりよ!」
「毎日そこで裸になってもらうために行くんだろうが。お前はおっちょこちょい越えてポンコツなんだから、それを早いこと自覚しやがれ」
「な――み、ミア、わたしそんなんじゃないわよね?」
「…………」
「答えて?!」
「友人の優しさを踏みにじるな。こいつは優しいから言いたくても言えないんだよ」
入江にとどめを刺して、「さあ、食ったなら帰った帰った」と急かす。向こうは「言われなくてもこんなところ出て行ってやるわよ!」と乗り気で、それを文月が宥めながらすぐお隣の家まで送っていった。
「はぁ~あ」
背伸びし、深呼吸。俺が想像していた独り立ちは、もっと慎ましいもののはずだったんだけど。
「どう思うよ?」
会話中、ずっと足元に伏せてじっとしていたたいように問う。すると彼は「ワン!」と非常に元気の良い指針を俺に与えてくれた。
「そっかぁ。ワンかぁ……」
なーんもわからん。ただ、俺が高校生活で願うことは一つだけ。
「お願いだから、実家のことがバレませんように……」
バレたら絶対面倒なことになる。どうかそれだけは起こらないようにと願いつつ、たいようのほっぺたを引っ張った。
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