第3話 風呂場から美少女

 古書店で四時間の勤労を終え、帰路につく。ああ疲れた疲れたと思ってもいないことを口にする俺が足を向けたのは、アクセスが悪く風呂トイレ一緒くたの築五十年エアコンなし木造古アパート……ではなく、駅にほど近い新築のタワーマンションだった。


 きらびやかなエントランスに立ち入ってぽちぽちぽち、と暗証番号を入力し、エレベータホールまでの扉を解錠する。そのまま一階に停止していたゴンドラに乗り込み、迷いなくボタンをプッシュ。新しい型のエレベータは怖いくらいに静かで、毎度のこと本当に動いているのかもわからないまま最上階へと連れていかれる。甲高い電子音が告げるままに降りると、すぐそばの玄関ドアに鍵を突き刺した。


「あちこち最新式なのに、これだけカードキーでも指紋認証でも虹彩認証でもないんだもんな……」


 あるいは、防犯を突き詰めた結果としての判断なのか。詳しいところはわからないけれど、今は帰れさえすればそれでいい。

 鍵を回し、抜き去り、ドアを開ける。必要以上に広々しているせいで端っこに少しだけ置いてある靴の違和感がすさまじい三和土に笑い、それから身構える。なぜ身構えるかって、それは――


「あーっ、お前はいつ見ても元気だなぁ」


 ミサイルのように超速で飛んできた毛玉を、両手で抱き留める。よく見れば毛玉には四本脚と顔がくっついていて、止まったところでようやく中型犬なのだとわかった。

 いつ見ても……とは言うが、こいつと顔を合わせたのは今朝の散歩以来だから約半日ぶり。それだけでここまで尻尾をぶんぶん振るもんかねと、全身をわしゃわしゃ揉みくちゃにしながら思う。

 

「お仕事お疲れ様です、あおいさま」


 情けなく腹を見せる愛犬をじゃらしている最中、ふと向こうから声が聴こえた。何年か前に拾って『たいよう』と名付けたオスの雑種を肩に引っかけ、「葵さまはやめろって言ってるだろ……」とクレーム。


「しかし、それではなんとお呼びすれば?」

「なにも難しいことじゃない。年相応でお願いしたいってだけなんだ。ああ、あと――」


 家に帰ったら絶対言ってやろうとバイト中に何度も何度も脳内で反芻し続けた注文。それを、彼女に叩きつける。


「――越智さんは勘弁してくれ。おじさんみたいでなんかやだろ、文月」

「そう、でしょうか」


 手入れの行き届いた金髪をなびかせ、その整った顔をこてんと傾ける少女。――名を、文月美愛。俺と同じ学校に通い、俺と同じクラスに在籍するあの少女と同姓同名……ではなく、完全なる同一人物。日頃散々そのミステリアスさを語り草にされている彼女の正体は、俺専属の傍仕え――つまるところは、メイドさんだった。いや、そういうプレイとかじゃなくて本当に。


「あと、放課後の。いきなり巻き込んじゃって悪い」

「ええ、驚きました。……対応に誤りは?」

「満点大正解。アイコンタクトだけで察してくれて助かった」

「お安い御用というものです。……あ、それでしたら、あのメモは」

「ばっちり」


 たいようを受け止めるために地べたへ置いたリュックを拾い、中をがさごそ漁って目的のブツを文月にパス。


「笑いこらえるのが大変だった」

「お仕事の最中では気づいていただけないかと思って」


 彼女に渡したのは、特売品の小麦粉。俺のバイト先にほど近いスーパーのセール品だ。家計をやりくりする過程で、こういったお使いはちょこちょこと頼まれる。

 当然のことなのだが、文月の連絡先などはとうの昔に控えている。そんな俺に対してなにを教えるのかと思ったら、スマホのメモ帳アプリに『小麦粉 特売』とだけ書いてあるものだからおかしかった。いや、それ今やることかよと。


「ご学友との関係は良好のようでなによりです」

「困った連中だけどな。いやなときはいやって言っていいんだぞお前も。あんなに優しく注意すると、かえって向こうはその気になるんだから」

「その気……とは?」

「…………」


 口に出すのは気恥ずかしいので、指で虚空にハートを描いた。やってからこっちの方が恥ずかしいと気が付いたが、時すでに遅し。その意味を理解したのか、文月の頬が驚くべき勢いで朱に染まっていくのがわかった。地が日本人離れして白いから、照れを悟るのは容易だ。ハーフだから当然とも言える。


「い、いえそんな、とんでもない。わたしはこの通り、葵さまにお仕えする身ですので」

「そんな事情は誰も知らないし、知られたら困る。中学までとはちがうんだから、そのあたりのやりくりにも多少は気を回しといて欲しいな。……あと、葵さま禁止」

「あ、失礼しました、葵さま……。あ」

「……まあ、徐々に変えてもらえればいいけどさ」


 呼び名の一つや二つ、取り立てて咎めることもない。普段からこれでもかと力を尽くしてくれている文月にこんなことで怒ったら罰があたる。

 手をひらひら振って自室へ。リュックを定位置に置き、ついてきた忠犬の頭をくしゃくしゃに撫でて、着替え一式を掴んで風呂場へ。季節が夏に近付いてきたのもあってか、一日過ごすと体がべとついて気持ち悪い。夕飯はその後でご馳走になろう。


「十五分もすれば出るから、悪いけどちょっと待っといて」

「あ、今はダメ――」


 ダメ? ダメとは? そうは言われても手は既に脱衣所のドアにかかっているし、よくよく見れば脱衣所の照明は灯っているし、曇りガラス越しに人影が映って――


「きゃっ……」

「うわっと。……ん?」


 脱衣所から勢いよく飛び出してきた俺よりも頭一つぶん小さい誰かさんと衝突。なんか、めっちゃデジャビュ。確かこんなやり取りを、俺はつい数時間前にもしていたような……。

 

 体格差のせいで自分からぶつかってきたにもかかわらず尻もちをついた誰かさんの服装は、どういうわけか全身真っ白。――それが裸にバスタオルを巻いただけという極度の軽装だと俺が理解したのと、悲鳴に似た声が鼓膜をぶっ叩いてきたのは同時。


「げぇっ、入江……?!」

「人の裸見てげぇってなによ!……って、わかったんなら早く目ぇ逸らしなさい!バカ!異常性癖!越智!」

「前二つと同列にしたのを全国の越智姓に謝れ!」


 言われたとおりに明後日の方向を向きながらも、反論は欠かさない。ただでさえ低俗なあだ名をつけられがちな苗字だというのに、そんな被害まで食らってはたまらない。


「良いからドア閉めて!」

「あーはいはい!」


 賃貸だということも忘れて全力でドアをばっちーんと叩きつけるように閉め、背後で気まずそうな笑みを浮かべている文月と目を合わせ、聞く。


「……さすがに説明を求めるぞ、これは」

「これは、その……」


 なんだか夜が長引く予感がする。参った。日課としているたいようの散歩のため、俺は基本早寝早起きなのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る