第11話 災難

 それじゃあまたと古書店を離れる。時刻は夜の十時に迫っていて、陽などとっくのとうに落ちてしまった。

 

「どうしたもんかね」


 このまま帰っても、温かい夕飯は家に用意されていない。なれば閉店間際のスーパーで見切れ品を買って帰るかファミレスにでも寄るかの二択。それなら久々に外食と洒落こんでしまえと、懐の余裕を確かめるために背負い鞄から財布を取り出そうとして。


「……人のことポンコツ扱いしてる場合じゃねえぞ」


 いくら中をまさぐっても、財布らしき感触はなかった。やれ紛失かと冷や汗が背中にじっとり浮かんできたが、よくよく思い出せばそうでもない。

 今朝だ。入江と競争するように家の周りをぐるりと一周したあのとき。確かに俺のスポーツウェアのポケットには、二つ折りの財布が入っていた。途中でジュースでも買うかと持って行ったそれは闖入者の介入によって役割を失い、そしてそのまま入れっぱなしで学校へ。購買に寄るような用事もないから、自分が無一文だということにすら気が付かなかった。なんともまあ間抜けな話で、腹ごしらえをするにも一度帰宅しなければならない。


 失くしていないだけましだと己を慰めながらとぼとぼ歩くこと二十数分、煌々と光り輝くマンションに帰り着いた俺は、いつもよりずっと重たい足取りでエレベータホールへ。ゴンドラに揺られながら鍵を取り出して、あの様子だと文月は実家に泊まりだろうなぁとぼんやり思う。どんな用で呼び出されたのか、聞いておけばよかった。

 

「ファミレス……近くになにあったっけな」


 気力がないのでなるべく近場が良い。できるなら、半径三百メートルくらい。朝、無駄にダッシュしたのが響いたのか妙に体力が枯渇気味だし、手早く済ませて眠ろう。ここのところ毎日、どれだけ早く眠るかしか考えていない気がするな……。


「…………」

「…………」

「…………さーて帰った帰った」


 少々の沈黙を経て、ガチャリと鍵を回しながら言う。家の中は真っ暗だから、今日に限ってはたいようの突進もないだろうと体の力を抜いて――しかし想定外の方向から、体に力が加わった。


「なんで無視するのぉ……。目ぇ合ったじゃん……」

「いや、絡んだらすげーめんどくさそうだったから……」


 後方から足を引っ張られ、不承不承の体で振り向く。そこには日頃のキリっとした表情が嘘のように情けない顔をした女がいて、まるで妖怪のように俺に縋りついている。知らない相手ならどれほどよかったか――そう考えつつも、実際は旧知の仲。仕方ないから玄関まで引っ張ってからドアを閉めて、訊く。


「なにやってんだよお前は……それも制服のまま」


 上がり框の部分に腰をかけ、物音を聞いて駆けつけたたいように顔をぐりぐり押し付けられながら、彼女は……入江とばりは、一言。


「……言ったじゃん」

「はぁ?」

「……あんた、夜になったら電話するって言ってたじゃん」

「あぁ、言ったなそんなことも。完全に忘れてたが。……え、まさかまた風呂炊きミスってその恨み言を俺に聞かせるためだけに外でずっと待機してたのかお前?」

「わたしをなんだと思ってんのよ!」

「ポンコツだって言ってんだろ」


 そこについては一貫していて揺らがない。入江は「ぐぬぬ……」と拳を強く握って、反撃の言葉を探しているようだった。……だがしかし、途中でその勢いも萎れてしまう。


「おなかすいたぁ……」

「夕飯は?」

「食べてない……」

「文月頼りで支度サボったな? 残念ながら、あいつは親に呼ばれて家に帰ってる。今日はもうこっちに来ない」

「……そう、じゃなくて」

「じゃあなんだよ?」

「…………」


 よほど嫌なのか、入江は俯いてぎりぎり聞こえるかどうかという小声で。


「…………した」

「あ?」

「……鍵、失くした」

「鍵って、部屋の?」

「…………」


 無言でこくりと頷いて、そのまま膝を抱えて小さくなる入江。なるほど、疑いようもなく、こいつの方が筋金入りのポンコツだ。とてもじゃないが俺ごときでは抗えない。

 自分の認識の甘さを恥じつつも、浮かんだ疑問点について問う。


「それならそれで他にやりようあったろ。お前、個人で扱える金は俺より多いんだし、今日だけでもホテル泊まるなりタクシー使って実家戻るなり」

「……財布、部屋の中」

「予想を軽々と凌駕してくるなオイ……」


 ただ、そこまで深刻に考えていなかった可能性はある。鍵は管理会社に言って取り換えてもらえば済む話だし、今日一日ならウチに身を寄せればよかった。いつもなら、夕方になれば文月が控えているのだから。

 だがしかし、彼女は訳あって家を空け、彼女の目論見は空振り。……そこで最後に頼ったのが。


「俺から電話があるはずだから、それに泣きつくつもりだったと」

「……悪い?」

「そりゃ悪いだろ。主に頭が」

「なっ――」

「着払いでタクシー乗れば良かったし、なんなら実家付きの運転手を呼び出すことだってできたろうに。百歩譲って一人暮らしをしていく上で自分の能力不足を家に悟られたくないってんなら、管理会社に連絡すれば合鍵の一つや二つ貸してくれてもおかしくない」

「あ……」


 その発想はなかったらしい。急なことに切羽詰まって、思考が完全にショートしてしまったのだろう。そのポンコツっぷりをいかんなく発揮してくれているようで見ている側としてはむしろ小気味よくさえあるが――古い付き合いの身からすると、彼女の行く末が不安になってもくる。

 

 それに、だ。


「マジで追い込まれたときくらい、意地張らないで連絡寄越せばよかっただろうが。お前の端末は着信専門の飾りか?」

「違う……けど」


 なにか言い足したげにもごもごしているので、顎で続きを促す。構図としては完全に説教で、明らかに同い年に向けた対応じゃない。


「……無視されるかもって思ったし、そしたらそっちからかけてももらえなくなるし」

「なんでいつものしつこさがこの局面でだけ鳴り潜めんだよ……。そりゃ何回かはシカトするかもしれんけど、それでも続いたらさすがに色々察して出るわ」

「無視するんじゃん。やっぱ無視するんじゃん!」

「あーはいはい」

「あ、ちょっと……」


 これ以上の放置はもう無理だとでも言いたげに、部屋の奥へと進んだ俺へ入江が手を伸ばす。ただ、俺は彼女の保護者ではないのでいちいち世話を焼く義理もない。……義理もないのだが。


「残念ながら、今この家に舌の肥えたお前にふるまってやれるようなちゃんとした飯はない」

「……別に、そこまで贅沢お願いしないもん――むっ!」


 ぶつぶつ言っている入江の顔に、部屋のクローゼットから適当に取ってきたパーカーを投げつける。不意をつかれたのかそれをがっちり顔面で受け止め、なにごとかわかりかねている彼女に「それ着ろ」と非常にわかりやすい説明を施して、思った通りスポーツウェアの中に突っ込みっぱなしだった財布を手の中で弾ませ、脱いだばかりの靴をもう一度履く。


「ほら、さっさと出るぞ。こんな時間に制服で出歩いてると補導されかねないから、俺の服で妥協しろ」

「出るってどこ?」

「近くの飯屋。俺も腹減ってるから、付いてこないなら置いてく」

「でも、お金……」

「取らねえよ。災難続きのお前を憐れんで今日のところは奢ってやる」

「……ありがと」

「はいはい」


 ぱたぱたと慌てて服に袖を通す入江のすぐ横、俺たちの会話を不思議そうに観察していた愛犬の頭を「お前の夕飯はもうちょい後でな」と撫でる。彼女はぶかぶかのパーカーを容姿の良さで無理やり着こなして、「なに……?」と俺に抗議の視線。


「いや、それだと下履いてないように見えるなって」

「……変態」


 キレがないのは今しがた作ってしまった借りのせいか。なるほど、意外と費用対効果が良いらしい。今後も積極的に貸していこうと決めた、とある日の夜の出来事だった。

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