第36話 アンフェア

 いつもとかけ離れた劣悪な睡眠から一日は幕を開ける。当然休養が完全成立していないわけだから体力の充足度は平時と比べるべくもなく、ちょっとした散歩の一つや二つで息が上がって気分の悪さを呼び、そのせいで朝食はまともに喉を通らない。綻びとは連鎖するもので、食事を疎かにすると昼間の授業にも会話にもまるで身が入らず、なるほど三大欲求の二柱だけあるなと改めての納得を強いられた。

 つまるところ、思考力の下支えは食と睡眠なのだ。どちらかが欠けるだけで精度も速度もがくっと落ちる。ましてや両方足りないとなれば、そこからどんな結果が出力されるかは火を見るよりも明らか。

 

 例の土曜から数日が経過した平日。未だ画期的な解決策は思い浮かばず、不定形の焦燥だけが心の中を占有していた。なにごとも手につかず、なにをしたって上の空。当然その様子に首を傾げる他者の存在はあれど、注意されたからといって改善できるようなことじゃない。とにかく、暫定的でもいいからそれらしい方針を決めてしまわないと、そろそろ私生活に支障が出かねない。


「……体調不良、でしょうか?」

「ん……」


 何度目かの指摘。朝食にいつも以上の時間をかけているのを、文月に目ざとく見つけられた。


「私の思いちがいであればいいのですが、ここのところ元気がないような」

「いや、体は至って健康。ただ、ちょっと考えごとが長引いててな」

「だとしても、念のために一度近くの病院を受診しておいた方が……」

「気遣い感謝。けど、山ほどいる診察待ち列に俺みたいなのが並んでも邪魔なだけだろうし」


 欲しいのは薬ではなく時間なのだ。気力と体力を満足に整え、かつ十分な思考が許されるだけの時間。それがないから困っている。

 

「あの……」


 こちらへ手を伸ばしながら言って、しかしよろよろと力なく文月は手を下ろす。どうにも煮えきらない態度は、今日に始まった話ではない。俺の不調と時を同じくして、文月もまた挙動不審な行動が目立つようになった。目は合わないし話がところどころぶつ切りになるしで、実のところ病気に罹患しているのは彼女なのではないかと思わせるほどだ。


「お前こそ医者に診てもらったらどうだ? つい最近病人の面倒看たばっかだし、風邪菌が残っててもおかしくない」

「あ、いえ。私も体力に問題はないんです。……ただ」

「ただ?」

「……あの、すいません。なんでもなくて」

「…………?」


 そう言われたらはいそうですかと納得するしかない。彼女を強く問い詰めるのは、俺の中でご法度となっている。

 文月は合理的に思考できる人間だ。感情論を優先させがちな俺や入江と異なり、折り合いの付け方が上手い。そんな彼女が詳しく語らない以上、それは詳しく語る必要がないというのと同義。


「そっか。悪い」


 自己完結し、胃のムカつきを抑え込んで茶碗に残る白米を口に放り込む。どんな形であれ、今はエネルギーを充填せねばならない。せっかくのちゃんとした料理を味わえないもどかしさ申し訳なさごと飲みこんで、ご馳走様と手を合わせる。


「今日バイトだから遅くなる。わかってるとは思うけど、一応」

「はい。……あの」

「どした?」

「……困ったことや悩みごとがあったら、相談してもらえるとうれしいです。私ばかり話をきいてもらうというのも、アンフェアですし。……出過ぎた物言いかもしれませんが」

「アンフェア、ねえ」


 誰かさんに同じことを言われた。対等ではないと、公平ではないと、そう判断された。決してそんなつもりじゃないのに、彼女たちから見たとき、俺はなにかを出し渋っているらしい。なにかとは? おそらく、情報。意図して俺以外への伝達をせき止めた、知られると厄介なパズルのピース。厄介というのは俺に限った話ではなく、彼女たちにも不利益を及ぼしかねないと判断したから口を閉じた。そこにフェアだとかアンフェアだとかいったことは関係ないように思う。あー、ダメだ。複数の視点が絡む思考を円滑にこなせるほど、今の俺は好調じゃない。


「なあ文月」

「はい」

「親のこと、どう思ってる?」

「どう、というと?」

「好き嫌い」

「好ましく思っていますよ。大切な家族です」

「まあ、そうだろうな」


 そんな彼女に、父親の心証を下げかねない話を聞かせるのは憚られる。やはり、これは俺が胸の内に秘して、黙っておくべき事柄なのだと思う。


 言葉を尽くすのは無為だ。だったら、まずは手の方を動かしたい。


「……まあ、すぐに解決するよ」


 ハリボテの笑顔で虚勢を張る。それから。


「で、例の件なんだけど。おじさんの予定って――」

「――あ、ごめんなさい私ったら!」


 おじさん、のあたりで文月が盛大に醤油さしを倒した。円筒型の容器はごろごろ転がりながら内容物をまき散らし、テーブルの一角が程よく味付けされてしまう。


「やっぱりお前の方が重症なんじゃ……?」

「情けない限りです……」


 ティッシュで拭きとる。服に醤油染みがついていなくて安堵。どれほど中身が残っていないかったのもいい方向に作用した。


「……で、おじさんの予定、聞いてもらえたか?」

「来週ならばいつでも、と」

「了解。考えとく」


 俺にしては手を打つのが早すぎた。もう少し知らんぷりしておけば、親父のところで話を食い止められただろうに。だが、こうなってしまった以上、残り少ない期日で都合のいい釈明を考えるしかない。


「まあ、元気出して行こう」


 空元気、だが。


********************


「悩みを抱えていると、人間は極端に瞬きが増えるって知ってた?」

「初耳ですね」

「捏造だからね」

「…………」


 放課後、いつも通りに訪ねたバイト先。そこで今日は珍しく、店舗に出ていた。本棚に積もった埃を払って、系統やナンバリングごとに並びを整え、たまに仕入れた新規在庫に値をつける。あまりにも古本屋らしい仕事だ。

 そうやって勤労に励んでいる俺を、栞さんは傍で見守りながら続ける。


「でも、今明らかに少年は瞬きの回数を抑えた。これってつまり、知られたくない悩みがあることの証明なんじゃないの?」

「悩みがない人間の方が希少じゃないです? このご時世、ストレスなんか探さなくても見つかりますし」

「まあまあ、誤魔化さなくていいから」


 栞さんはぱっぱと手を振って。


「というかシンプルに、どんな問題だったら少年を悩ませられるかに興味があるな。ほら、生い立ちがちょっと特殊じゃない、君」

「健康とか人間関係とか、普通の人と遜色のない不安しかありませんよ」

「じゃあ人間関係か。どこか悪そうには見えないし」

「体調悪いのって今朝方きかれたばっかりなんですが」

「じゃあ体調不良なの?」

「いや全然。……これ、誘導尋問だったりします?」

「するねえ。でもほら、ものは考えようじゃないかな。君よりちょっぴり人生経験豊富な第三者的立ち位置のお姉さんって、かなり重宝すると思わない?」

「面白がってますよね」

「うん」

「人が悪い……」


 こちらが割と真剣に思い悩んでいることまで見越しての発言だとわかるのがなんとも。社会不適合者を自称するだけあるなあと一周回って感心し、そしてそのまま一蹴しようと考えて。


「ねえ栞さん、俺が人間として抱えてる欠点って思い浮かびます?」

「何個か」

「即答はきついなぁ~……」

「……ちょっと愉快だし、掃除なんかやめてお茶にしようか」

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