第17話 甲斐あって

 ソファに腰かけながら先日購入した文庫本をぺらぺらめくる。お気に入りの作家が出した新作で、休日になったらゆっくり読もうと楽しみにとっておいた品だ。思っていたのとは違う形で早めに手をつけられて幸運……と言いたいところだったが、どうにも目が滑って仕方ない。普段の倍は時間をかけているのに、普段の半分もページが進んでいかない。

 

「……やめだやめ」


 集中力が散漫になっている。読書に付きものの没入感がいつまでたっても体に到来せず、惰性的な作業をしているようで気分が悪い。本来なら細やかな娯楽になるはずの行為を虚しく消費してしまうのは惜しく、栞を挟むことすらせずテーブルに横たえた。これはまた今度、最初から読み直そう。


 俺の集中力がどうして削がれてしまっているかは、きちんと理解しているつもりだ。同じ家の中に熱を出して寝こんでいる人間がいれば、落ち着かなくて当たり前。意味もなくあいつが眠っている部屋の方をちらちら確認して、何度も何度も時計を見て、なにかを急かすみたいにつま先でカーペットを叩く。……そして、その一連の行動全てが、どうしようもなく俺を苛立たせるのだ。


 入江ごときに心を乱されるのが納得いかない。ましてや、心配だとか不安だとか考えてしまう自分の存在が理解しがたい。俺とあいつはただの他人で、なんなら敵だ。それ以上でもそれ以下でもなくて、だから不必要な干渉など、自分の望むところではないのに。


「…………消えねえ」


 目を瞑って眉間のあたりをつねる。そんなことをしても、先ほど見てしまった写真の記憶が消えてくれない。鼓膜の内側では懐かしい声がずっと反響していて、それが拷問のように俺の心をじわじわ削る。

 こんなことならいっそ、一つの亀裂で思い出すべてが損なわれてくれればよかった。全部ダメになってくれさえすれば、変に立ち回りを気にしないで済んだのに。


 ――そんな俺の破滅的思考を、ぎぃ、という扉の開く音が阻害した。


「寝とけよ」

「……暇なんだもん」


 顔色は思っていたより悪くない。今が正午前なのを思えば、朝のやり取りから数時間は眠れたことになる。それで容態が多少は上向いたのか、足取りこそ頼りないものの、入江は一人で歩けている。

 彼女は恥ずかしそうに寝ぐせで滅茶苦茶になっている髪の毛を押さえながら、言った。


「おなか減った……」

「昨日からそればっかだなお前は」


 立ち上がる。その様子では、置いておいた粥に手をつけてはいないだろう。「座ってろ」と後ろ手にソファを指さし、部屋に入って盆ごと一式を回収。風味は多少損なわれるだろうが、レンジで温め直せばまだ食べられるだろう。風邪っぴきの舌なんてまともに機能しないのだから、それくらいで構わない。

 リビングに戻ると、入江はソファのひじ掛け部分を枕にして横になっていた。思えば今の彼女の全貌を見るのは初めてで、事情が事情だとはいえ上下見たことのある文月の部屋着のせいで違和感がとてつもない。全体的にダボっとしているのも、いつものきっちり整っているイメージから乖離していて飲みこむのに時間がかかる。

 あれこれ思いながらも手だけはきちんと動かして、粥をほんのり湯気が立つ程度の温度に戻した。


「ほら食え。そして熱を測れ」

「ん……」


 まだ本調子でないのは明らかなので、どこかぼうっとしているような印象を受けた。答えはするものの起き上がる気配はなく、そのままの姿勢で食べて誤嚥性肺炎にでもかかろうものなら目も当てられないので、強引に引っ張り上げて座らせる。……どう考えても、まだベッドで寝ているべきだと思うんだけど。


「食えんの、お前?」

「おなか鳴りそう」

「なら行け」


 スプーンを手渡す。受け取った入江は、それをふやかした白米に突き立てようとして。


「ええ……」

「握力が……」


 振りかぶっただけで取り落とすその様は、まるで幼児のおもちゃ遊びのよう。彼女は自分の今現在の出力を確かめるように両手をぐーぱーぐーぱーしているものの、完全に握りこむことすらできていない惨憺たる状況だった。

 

「こんなことならゼリーの栄養補給剤買ってくるんだった……」


 頭を抱える。そっちの方が温度や衛生状況に関する心配が要らなくて楽だったはずだ。コンビニなんてどこにでもあるんだから、朝のうちに用意しておけばよかった。やれ仕方ない、ちょっと買い出しだと下に落ちたスプーンを拾いつつも立ち上がろうとしたところ。


「なんだその手は……」

「……背に腹は代えられないから」

「十分もあれば帰ってくるから待っとけ。ゼリーとか熱さましとか、色々要りようなんだっての」


 微弱も微弱な小さすぎる力で、シャツの裾を掴まれた。


「じゃあわたしも行く」

「馬鹿か。病人連れまわして出歩くテロリストがどこにいる」

「……今すぐ食べたい」

「スプーン一つまともに持てないその体でか?」

「…………わたしが折れればいいんでしょ」


 言うや否や、入江はわずかに顎を持ち上げたような体勢をとり、どういうわけかその小さな口を開いて。


「馬鹿だ。馬鹿がいる……。それをやるのはバカップルと親鳥だけなの知らんのか……?」

「だ、だからわたしが折れて」

「俺の方が恥ずかしいわこんなもん。よくもまあ『妙案思い付きました』みたいな顔できたな」


 ただでさえ昨日に人生初の恋人つなぎをこいつで消化してしまった。そのうえ『あーんイベント』まで食い尽くされてはたまらない。俺にも自由意思というものが存在する。


「とにかく、俺は買い出しに行く。暇だろうがなんだろうがお前はベッド戻って寝直せ」

「必要なものがあるってわかってたなら、わたしが寝てるときに行っちゃえば良かったじゃん……」

「あのなあ、それはお前がどっか行くなって――」


 ――言っていただろうか。どこへ行くのと問われたのは記憶にあるが、それ以上の言葉はなかった気がする。もしかすると、拡大解釈で俺が勝手に腰を重くしていただけなのか。


「……心配、したんだ」

「ありもしない行間読むのやめてもらっていいです?」

「わたしが心配で心配でたまらなくて、一人で置いていけなかったんだ」

「妄想力のたくましさで言えば当代随一だなお前は」

「…………とばり」


 その三音に、平静であろうと努めていた心が乱される。びくっと肩が跳ね、そしてそれは目ざとく入江に見咎められた。


「……自己紹介どうも」

「自由に動けない女の子の顔をぺたぺた触って」

「はて」

「手なんか握ったりしちゃって」

「なんの話だかさっぱり」

「馴れ馴れしくファーストネームなんか呼んじゃって」

「…………なんなんだよ」


 起きていたのか、とは詰められない。それを聞くことはつまり、あの痴態の肯定に他ならないからだ。……だから今の俺にできるのは。


「……なにがお望みなんだよ」

「折衷案」


 文字通り、双方が折れる。先ほどまでの条件では俺の損ばかりかさんだが、今なら少し事情が変わる。彼女は暗に、それさえしてくれればある程度のことは不問に処すと告げている。

 入江は余裕の笑みを浮かべながら、俺の手に収まったスプーンを軽く撫でて。


「……ダメ?」

「変な技術ばっかり身に着けやがって……」


 言葉の強さとは裏腹に、俺の両手は既に肘から先が曲がり、手のひらは彼女の方に向けられている。


「……なんなりと」


 普段から近くでメイドを見てきた甲斐があった。……んなわけあるかこんちくしょう。


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