第34話 明日でもなんでもない
そういえば、雨はいつの間にかやんでいた。予報が当たってなによりだとどこか他人事のように思い、バルコニーの柵を支えに大きく前のめりになる。
昔は、このくらいの高さだったか。知らない内に身長が伸びてすっかり視点が変わってしまったけれど。
「全然落ち着いてねえじゃん」
「うっさい……」
そわそわきょろきょろ視線をさまよわせるその様子に、落ち着きを感じるのは難しい。まるで借りてきた猫みたいな入江は、明らかに平時通りではない。
挙動不審さを指摘された彼女は俺にならって柵に体重を預けると、そのままそこに顎を載せた。
「落ちるなよ。打ちどころによっちゃ死ぬぞ」
「そこまでどんくさくないもん」
「どうだか」
落ちるほど間抜けではないという意味か、落ちてもさすがに死ぬことはないという保険かは判別できなかった。おそらく前者なのだろうが、人となりから見ると完全には信じ切れない。
それを言うなら。
「いつだったか忘れたけど、昔、踏み台頼りにのぼって『おりられない~』って脚ばたつかせてた奴がいたような」
「……じ、時効よ時効」
「コールドケース入りにするのは早計だと思うがね」
高くからの景色を観るために適当な台で嵩を増し、腕力で柵にしがみついたはいいものの、乗った弾みで台が倒れて身動きがとれなくなっていた。たかだか数十センチの高さに怯えて救助を要求するその姿が面白おかしかったのを覚えている。思えば、あの頃はまだこいつの母親は存命だったのか。
「……ウチに負けず劣らずの強烈な母ちゃんだったな」
「あそこまでじゃなかった気がするけど……」
「じゃあ抑えてたんだろ。お前の感情の振れ幅コントロールするために。……それにしたって、破天荒というか型破りというか」
「ん……」
「……けど、子どもとしてはどんな形であれ、ああいうの残されたら感じるものの一つや二つあるわな」
内容は問わない。ただ、そこには意思がある。親が子に託す、確かな意思。
「お前的にはどんなもんなんだ。やっぱうれしい?」
「わかんない。……わかるまでに、もうちょっと時間かかると思う。あんなのが残ってるなんて誰も教えてくれなかったし、それに、そもそも中身が……」
ちらと横顔を覗き見られる。言いたいことは大体わかるが、できることなら言葉にしないで欲しい。
「残念なことに、俺じゃ親亡くした人間の気持ちは理解できん。……兄貴に聞こうにも、なんつーかな」
「…………」
「やっぱなしで。忘れてくれ」
俺の口から話したことはないけれど、こいつだって薄々ウチの家庭事情には勘づいていると思う。双方の母親は同い年で、しかもそれなりの早婚。……だがどういうわけか、俺には十歳以上離れた兄がいる。ちょっと考えればわかることで、上二人の兄と俺とは腹違い。基本的に〇〇也で統一されてきた越智家男系の命名法則から俺だけ外れているのも、おそらくは後妻の子だから。状況証拠から判別は容易で、しかしこれまでの人生においてはっきりとした説明を受けた記憶がない。両親も兄も、まるで口裏を合わせたかのように前妻の話をしてくれない。
ガキの俺への配慮――と、そう思ってしまえたら楽だった。しかしながら自立だアイデンティティだと忙しい思春期の青年にとって、出自出生の謎というのは大きな不安が付きまとう。そこに疎外感を覚えなかったと言えば、それは嘘だ。あからさまになにかを隠されている感覚は、正直気持ちのいいものじゃない。
「……あんたが家出た理由って、それ?」
「なしって言った」
「そっか。……そうなんだ」
「勝手に察するな」
こいつにしては珍しく目端が利く。しかし肯定するのは癪で、「そういやいつの間に着替えたんだ?」と例の格好について蒸し返した。ただ、それが悪手だったようで。
「……後で二人っきりになったら言う、だっけ。聞かせてよ、親の前では言えないような歯の浮くような誉め言葉」
「やめとけよ。手札の投げつけ合い始めたら結局どっちも怪我して終わりだ」
「どっちも?」
「じゃあ遠慮なく行くが、お前、俺のこと好きだったわけ?」
「…………あ、あれはママが勝手に言ったことで」
「マジかぁ……。なんかウケるな」
「話が途中! それにそもそも、これこそ本当に時効じゃない……」
「だな。ガキの頃の話にムキになっても意味ない」
「うん。……あっ!」
俺の同意からしばらくして、入江がなにかに気が付いたような声をあげる。
「……ほんと性格悪い。そういうとこ、嫌い」
「はてさてなんのことやら」
十中八九、俺が搦め手で追及をやり過ごしたことについてだ。母さんがどっちに傾いてるだのなんだの言っていたが、それもまた時効。自分で言いだしたことを撤回する奴ではないから、それについては既にアンタッチャブル。
「この分だと、家が隣になったのも狙ってのことだろうな。学校被りは偶然だとしても」
「……ん」
「しかしまあ、面倒になった。……お前、どうすんの?」
「どうって、どうにもならないでしょ、こんなの。ママが言い残してくれたことは守りたいけど、さすがに――」
その先は言うのがためらわれたらしい。俺との結婚とか、口にするのもおそろしいことだし。……けれど、彼女にとって絶対の価値基準がどこに置かれているか、俺は知ってしまっているのだ。
「厄介な呪いだなぁ、相変わらず」
「…………?」
母に恥じない自分でいること。それが、親を喪ってからの彼女の指針だ。不得意な勉強だの芸事だのに徹底的に打ち込んで、なんでもできる自分を目指し始めた。そうやってなにかに熱中することで母を亡くした悲しみから離れようとする側面もあったのだろうが、外野からするとあまりに痛々しくて見ていられなかった。身も心も端から順に削っていった先に、残るものがあるとは思えなかったから。
結果的に、こいつは壊れた。子どもらしくない子どもになって、人らしくない人になった。限られたリソースの振り分け方を決定的にまちがい、どこか大切なものが欠落した人型のなにかになった。
無論、その過程をぼんやり眺めていたわけではない。だって、友達だったから。好意に似た感情を、多少なりとも持っていたから。俺は方々手を尽くし元いた場所へと彼女の手を引っ張り戻そうとして、しかしそれはことごとく失敗した。あの頃の入江の目には、周りの様子なんかこれっぽちも映っていなかった。
あの頃の出来事が決定的な確執となって、俺たちは未だに冷戦状態のままだ。……一時期と比べれば、これでも十分マシになった方ではあるが。それで間を取り持ってくれた文月とまでぎくしゃくしてるんだから笑えない。
「なぁ」
「……なに」
気を楽にしてしまいたくて、親父から言い渡された文月の件をこいつに喋ってしまおうかという思いが頭をよぎる。……ただ、それで事態が好転する兆しはなかったのでやめた。やはり、全ては俺が内々で処理すべきことなのだ。
「変に取り繕わないで生きろって遺言、ちゃんと覚えとけよ」
どうせ母親しか道しるべにできないのなら、自分の中で作り上げた偶像ではなく、きちんと形に残ったものを追いかけるべきだ。そう考えると、十年越しで作動したあの時限爆弾は、彼女の人生を切り替えるきっかけになるかもしれない。
でも。
「…………今さら変われると思う?」
問いかけ……ではなかった。強く、押し付けるような口調。もはや後戻りはできないのだと、そう俺に告げるような口ぶり。未成年の十年間は、軽々しく捨てられるほど簡単なものじゃない。
「だよなぁ」
俺も、その尻馬に乗る。方向転換できるのは、岐路から近い場所までだ。
俺たちは既に、どうしようもない。救いようがない。明日がないから昨日に縋っていくしかない。
星のない夜、二人の冷たいため息だけが、ただ静かに重なった。
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