第30行目  立ち込める不安

「おや?」


 時間は少しだけ流れて、ゼンがスズを病院に連れて行ってから数時間。時刻は昼を過ぎていた。

 彼らが帰ってくるまで待っていようと思っていたのだが、何かをしていないとどうにも落ち着かない……ということで、一足先にお昼ご飯を頂いているところなのだが。昼食を一口口に含んだ奈央から、疑問の声が漏れた。


「どうした、ナツキ。お前も体調が悪いのか」

「え……別に、平気だけど」

「そうかぁ? それならいいのだが。今日の昼ご飯は何だかいつもと違う気がしてな。いつもはもっと甘くて繊細で滑らかな舌触りとうんぬんかんぬんどうたらこうたら……」


 昼食に対するあれこれが奈央の口から止まらない。普段はもっと丁寧な味付けだとか、もう少し塩分が抑えめで身体に良いとか並べている。つまり言いたいことを纏めると「今日のお昼ご飯は美味しくない」と言いたいようである。本人なりにオブラートに包んでいるつもりなのかもしれないが、本音が包み込み切れていないような気がする。


「……」


 しばらく黙って聞いていたナツキだが、奈央からの文句があまりにも多すぎた。ついには……


「だったら明日からお前が作れバカ野郎!」


 そう言い放ち、ナツキは外へ飛び出した。


「え、あ、俺……は、そんなつもりは」

「今のは奈央が悪いですよ」


 追い打ちをかける千景の言葉に、まるで初めて喧嘩をしてしまったカップルのような顔をしている奈央。シュンとしょぼくれてしまったが、千景の言うとおり今回の非は奈央にあるように思う。


「スズのことで頭がいっぱいだったのでしょう。心ここに在らずで作ったのだと思います」


 そう言いながら千景は苦い顔をして、食事を口に運ぶ。恐らく塩と砂糖が間違っており、さらに何かドロドロとした物が入っているような気がする。しかもコップに注がれているのは、麦茶ではなく麺つゆ。普段の彼ならこんなミスはしない。


「後でちゃんと謝っておきなさいよ」

「あいあい」


 二人で残りの昼食を何とか食べきった。




※※※




「ただいま」


 玄関で小さく囁かれた『ただいま』の言葉。ドラゴン故の聴覚で聞き取ったナツキが我先にと玄関に駆けていく。


「スズ!」

「寝てる。薬貰ってきたからもう大丈夫だと思うよ」


 ゼンはシーと人差し指を口に当てながらナツキを制し、毛布に包まれて眠っているスズを手渡す。


「良かった」


 ズシリと感じる体重と温かさ、穏やかに上下している呼吸音を感じ、自然とナツキの口から息が漏れた。朝の状態から一変、スズは頬の赤みは引いたし呼吸も穏やかになっている。


「風邪だったみたい。温かくしてゆっくり寝かせてあげれば大丈夫だってさ」

「分かった」


 ゼンの言葉を受け取るが否や、部屋へ戻ってスズを布団の上へ優しく寝かせる。毛布をかけて、部屋の暖房を入れた。


「温め過ぎも良くないと思うよ」


 暑くしてしまいそうな勢いのナツキへゼンが声をかけておくが、スズを温かくすることに夢中の彼にはあまり聞こえていないかもしれない。少ししたら適温かどうか様子を見た方が良さそうだ。


「ゼンありがとうございました、お疲れ様でした」

「うん」


 ゼンがふぅと息を吐いた所で、玄関にやってきたのは千景。しかしゼンの顔を見た瞬間、千景が首を傾げる。顔が真っ青で何だかとても体調が悪そう。彼も風邪だろうか?


「どうかしましたか?」

「どうもこうも、恐怖しかなかったよ。子供病院って初めて行ったけどさ、小さい子たちがたくさん居るんだ。それはもうたくさん。足元チョロチョロするんだもん、うっかり蹴り殺しちゃうかと思った」


 『うっかり』で蹴り殺されては子供たちもたまったものではないと思うが、ゼンも無事に帰ってきて何よりであった。


「それは大変でしたね。本当にありがとうございました」

「いや、大丈夫。お医者様もいい人だったし。最近寒かったからさ、多分原因はそれだって。でも、それがなくてもこの歳の子たちはみんな熱出すらしいよ。何が悪かったとかがなくても。元気になったら外でいっぱい遊ばせろってさ」

「そうですか、ありがとうございます」

「うん……あとさ、ちょっと気になるものを病院で見て、資料もらってきたんだけど」


 おずおずとカバンからゼンが出したのは『予防接種のお知らせ』という冊子。


「受付にポスターとか貼ってあってさ、スズは何歳か分からないけど多分対象だよね?」

「んー」


 冊子をパラパラと捲れば、何歳になったらこれを受けるという予防接種が年齢刻みにたくさん羅列されていた。あの小さな身体にこんなに注射を打たなくてはいけないのか。ゾッとする。


「どうにかしないといけないですね」


 しかしスズの今後のためには避けては通れない道だろう。




※※※




「ナツ、昼間はすまなかった」

「あ、いや、俺の方こそごめん。ご飯不味かったよな、本当ごめん」


 スズを布団に寝かせて、傍に寄り添っていたナツキに奈央が声をかける。

 少し部屋の中に熱が溜まりすぎていたので、さり気なく暖房の温度を下げた。


「スズは落ちついたようだな」

「うん、とりあえずはね」


 スゥスゥと穏やかに響く呼吸音。このままゆっくりと休めば、次に目覚める時にはきっといつもの元気なスズになってくれるだろう。


「「………」」


 スズの寝顔を見ながら、部屋の中を沈黙が包み込む。そんな静けさを破ったのは、しばらくしてからナツキの声だった。


「スズの苦しそうな顔がずっと頭から離れなくて……死、ぬんじゃないかって怖くてさ」

「そうだな」

「人の子はか弱いから」

「……そうだな」


 何千年と生きられるドラゴンの奈央たちに比べれば、人の子の一生はとても儚いものだろう。更に身体は柔くて脆く、幼い子たちの風邪や怪我は日常茶飯事といっても過言ではないくらいに多い。


「怖かったんだよ……とても」


 両手で顔を覆いながら気持ちを吐き出すナツキ。

 ドラゴンたちは風邪を引いたとしてもそれで死ぬことはないし、熊に引っかかれるくらいの怪我は怪我とは呼ばない。


「俺らにこの子育てられるのかな」

「……」

「でも、スズが来てから賑やかで楽しくてさ。一緒に居たいと思うけど……やっぱり無理なのかな」

「……」


 膝に頭を埋めながら呟かれた言葉に、奈央が答えを返すことはなく。漂う感情だけが虚しく宙を舞っていた。

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