第38行目  奴との対峙

「はよ」

「おはよう」


 欠伸をしながらキッチンに入ってくるナツキ。お湯を沸かしていたゼンと挨拶を交わした。


「コーヒー?」

「うん」

「俺にも頂戴。飲んでから朝ご飯作るわ」

「分かった」


 ナツキの言葉に反応して、ゼンが食器棚から彼のコップを手に取る。そして、火にかけていた薬缶を手に取り、コポコポと注ぎ始めた。珈琲の苦みを含んだあの良い香りがキッチンを包み込む。きっと今日も良い日になるだろう。何となくそんな気がする。

 爽やかな朝の一時、穏やかに時が過ぎていく……はずだった。


 カサカサッ


 突如発生したその不気味な音。一瞬にしてキッチン内の温度が下がった。そして二人同時に部屋を飛び出す。


「ねぇ、ゼン。俺の気のせいであることを祈ってるんだけどさ、居たよね、奴が」

「うん、居たね。そのままの速度で後ろ向きに走ったら確実に潰せると思う。頑張って」

「ねぇ、何でそう言うこと言うのさ。俺無理なんだって、あの生き物マジで無理なんだって」

「僕も無理だよ。何なら僕は虫全般が無理だよ。知ってるだろ」


 ゼンは日常生活に支障を来してしまうこともあるくらいに虫が嫌いである(第19行目参照)そしてナツキはそこまで虫嫌いではないのだが、今回は敵が悪かった。今回の相手はナツキが唯一苦手としているGなのである。

 二人は青い顔をしながらドタドタと廊下を走る。そんな彼らの目の前に……


「やあやあ、おはよう二人とも」


 寝起きでぽわぽわとしている奈央が。爆発的で芸術的な寝癖を拵えているが、一体どう寝たらそうなるのか。

 もちろん今の二人にツッコミを入れている暇はなく、奈央の姿を見つけた瞬間、先ほどまでいがみ合っていたのが嘘のように、ナツキとゼンが息を合わせ始める。


「「おはよう、じじい。ちょっと一緒にキッチンに来てくれない?」」

「ん? あい分かった」


 コクリと無邪気に頷いた奈央を、両側から抱えキッチンへと連行。




※※※




 二人がキッチンを飛び出してから一分と経たずに戻った。だがしかし……


「何かあったのか?」

「……何もないよ」

「……うん、何もないんだよ」


 ハテナを浮かべる奈央の横で、世界滅亡寸前のような顔をしている二人。

 彼らも言っている通り、何もないのだ。キッチンを飛び出す前まで確かにそこに居た奴の姿が。それはもう跡形もなく消え去っている。

 読者の皆様の中にも経験したことがある方がいらっしゃるかもしれないが、彼らは神出鬼没。少しでも目を離すと、どこに隠れ込むか分からない。


「折角生贄を連れてきたのに」

「どこに隠れた?」


 奈央に聞こえないようコソコソと話し始めた二人。ギロリと目を光らせ、辺りの気配を探り始める。


「どうしたというのだ、二人とも……?」


 流石の奈央も彼らの尋常ならざる空気に気がついたらしい。だが時既に遅し。


 カサカサッ


 奈央の足元近くで不気味なあの足音が。音が響いたその一瞬で、ナツキとゼンは奈央の後ろに回り込み、下がれないように身体を固定した。


「なにをするのだお前たち、離せ! 俺は奴が苦手なのだ」

「奇遇だね、僕たちもだよ」

「最初からこのために俺を呼んだのだな! 幼気な高齢者を騙して!」

「大丈夫、奈央はまだアラサーだろ?」

「アラウンドサウザンドはアラサーとは言わない!」


 約1000歳と約30歳であるアラサーを一緒にされては困ったものである。今回は珍しく奈央の主張の方が正しい。もちろんだからと言って、ナツキとゼンの手が緩むことはなく、ジリジリと奴との距離が縮まっていく。


「押すな! やめろ!」

「頑張れ最年長。そのままぶちゅっといきなよ」

「一瞬で終わらせた方が向こうさんも楽だろうしさ」

「そんなに言うのならお前たちがやればいいだろう!」

「いいの? また僕が仕事に行けなくなっても? お金稼げなくなっちゃうよ?」


 こういう時ばかりは元気なゼン。もちろんほとんど視界にGを入れないようにしている。今は何としても奈央を生贄にするという強い意志でここに立っているが、彼がもし一人きりだったらまたトラウマを発動してしまっていたことだろう。


「ズルいぞ、ゼン!」

「ほら、早く退治してくれないと僕仕事行けないな。外の世界怖いな」

「くっそぉ」


 押しては返し、返しては押すの繰り返し。こういう時に限ってGは逃げも隠れもしてくれない。ただジッとそこに佇むだけである。


「奈央ちゃんドラゴンでしょ? 生態系の頂点なんだから、あんな小さな生き物殺すのすぐでしょ!」

「その言葉はそのままお前たちに返そう、ナツキとゼン! こういうのは若い者が率先してやるべきだ」

「歳なんて関係ないと思うよ。適材適所でしょ。だから奈央がやって」

「全く適しているとは思えないんだが? それに俺裸足だぞ。いけるはずがないだろう」

「「大丈夫! やれば出来るよ何事も!」」

「貴様らぁ!?」


 ギャーギャーと三人のやかましい声がキッチンに響き渡る。

 あと一歩、本当にあと一歩という僅かな距離まで奈央の足が迫った。あぁ潰してしまう、素足でいってしまうと思われた、まさにその瞬間……


 バシンッ!


 凄まじい音が響き、三人の動きが止まる。音を出した主に目を向ければ


「朝からうるさいんですよ。ちょっと静かにしてくれません?」

「「「すみません」」」


 一瞬にして奈央たちの横を通り過ぎ、素手で奴を仕留めてくれた、寝起きで不機嫌+低血圧で頭が痛い千景。ドスの効いた低音ボイスを響かせて、奴と共に退出した。これで無事にこの家に平穏が訪れ、ナツキは食事の準備が出来るし、ゼンは仕事に行ける……のにかかわらず。


「素手ってどうよ……」

「ちょっと嫌だ」


 自分たちの天敵を仕留めてくれた相手に対して、ジト目で見つめているナツキとゼン。虫大嫌いなゼンは少しゴキブリを見てしまった訳だが、千景のまさかの退治方法の衝撃でどうやら今回はトラウマを発動せずに済みそう。

 一方、間一髪の所で素足でぶちゅっとを免れた奈央は……


「神様」


 立ち去る千景の背中に手を合わせ拝んでいた。




※※※




「手でやった方が速いではありませんか」

「違う違う」

「そうじゃないんだよ」


 千景がしっっっかりと手を洗った所で、ナツキとゼンが問いかければ上記発言が返ってきた。

 速い遅いで言えば確かに速い方が良いとは思うのだが、今回の問題はそうではない。


「そもそも俺が授けた殺虫スプレーはどうした?」

「朝からは持ち歩いていませんよ」


 以前大騒動したゼンのメンタル大崩壊事件。その一件以来、千景は殺虫スプレーを携帯してくれていることが多いのだが、流石に寝起きでは持っていなかったらしい。


「いいではないですか。ちゃんとGを仕留められて、私も手を洗ったので清潔です。全く問題はありません!」

「そうかもしれないけど」

「何です? 殺生が嫌いというお話ですか? それは申し訳ないことをしましたね。今度から捕まえて野に放つとしましょう」

「「お願いだからGだけは野に放たないで」」


 どう頑張っても『何故手で仕留めてはいけないか』を理解してくれない千景。この調子ではまた同じことを繰り返しそうである。


「今はいいけど、お願いだがら千景が料理担当の時にはその方法は避けてね」

「んー、善処しましょう」


 手を洗うと言えども、Gを素手で仕留めた人が作った料理を口にするというのは、いささか抵抗がある。

 一応ゼンの言葉に頷いてはくれたので、今回はこれで良しとしたいところではあるが。きっと彼はまた何度でも同じことを繰り返してしまうのだろう。

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