第20行目  昆虫パニックその2

「あぅー」

「ちょっと待て、スズはヤバい」


 ドタバタとしていたため、スズが目覚めてしまったらしい。廊下をハイハイしながら進んでくる声がする。今ここに彼女が乱入して来れば、いくつかのドングリが虫と共にスズの口の中へと消えるだろう。

 そんな最悪の事態は避けなくてはいけないため、スズがこの部屋に到達する前にナツキが抱え込んで離脱した。


「奈央! ねぇ、早く何とかしてよ!」

「待て待てそう急かさないでくれ。小さいし数が多いしでなかなか難しいのだ」


 そしてゼンが乱暴に叩いたせいで、部屋の中に虫と共に散らばったドングリたち。奈央が必死に部屋の外へ出してはいるが、腰が痛いしで作業はなかなか進まない。ナツキが離脱した今、残されたのは腰の痛い奈央と、錯乱状態のゼンと、意識が飛びかけている千景である……あ、失礼しました。今、完全に千景の意識が飛んでしまったようですね。しかしゼンは気にかける余裕もなく未だに絞め続けております。部屋の隅に移動した彼は、奈央がせっせと外へドングリと虫たちを放り出すのを待つことしか出来ない。


 奈央が全てのドングリと虫を外へ放り出すまでの15分。ゼンはずっと恐怖に震えていた。




※※※




「やだ、もうやだ」


 部屋の隅で毛布にくるまり、ゼンはダンゴ虫状態である。

 奈央が部屋の中に散らばったドングリと虫を完全に外へ出すまでの間、恐怖に震えながら耐えていたゼン。心に相当のダメージを与えてしまったらしい。

 ちなみに奈央の腰の痛みは引いたし、千景はまだ眠っているもののもう少ししたら目が覚めるだろう。安心してください、ドラゴンなのであれしきのことで死んだりはしません。


「虫……やだ、怖い」


 それよりも重症なのはゼンの方である。


 実は以前同じような状況に陥ったことがある。今回ほどではないが、うじゃうじゃとしている虫たちを直視してしまったことがあった。その時のトラウマは80年ほどの年月をかけて回復したのだが、回復するまでの間はずっと毛布を被って外にも出ず引きこもっている生活だった。

 今回もその時と同じだとすれば日常生活を送ることだってままならないし、ましてや仕事に出かけるなんて不可能である。実際に今日は月曜日で彼は仕事に行くはずなのだが、毛布の中から出てきてくれず体調不良ということで有給を消化している。今一家の大黒柱として家計を支えてくれている仕事担当の彼には休むのは今日くらいにして何とか復活してもらわないと困る。


「ゼン」


 奈央が困り果てていれば、買い物から帰ってきたナツキが彼の元へやってくる。そして、姫に傅く騎士のようにゼンの前に跪いた。皆さんには脳内でロマンチックで良い感じの音楽を流していただくことを、ここに推奨いたします。


「ほら、これ持ってろよ」


 そう言いながらナツキが差し出したのは、とあるスプレー。


「これは?」

「殺虫スプレー。店員さんが一番効くって言ってたやつ買ってきた」


 スプレーを差し出しながら、ナツキはゼンの横に腰かける。彼を怖がらせないようにゆっくりとした動作で。


「これがあれば外の世界も怖くないだろう?」

「だけど、この世界には恐ろしい物がたくさんいるから」

「大丈夫」


 優しく声をかけると共に、ゼンが頭に被っていた毛布をフワリと外す。


「お前が思っているより、この世界はずっと綺麗で美しいんだから」


 キラリと良い笑顔を浮かべているが、世界が綺麗で美しいとしても、ゼンが怖がっている虫たちが減ることはない。小説や漫画で誰かが言っていたそれっぽい台詞をそのままコピペしているだけのようだ。


「……」

「それにほら」


 もちろんゼンにナツキの言葉の違和感に気がつく余裕などなく。黙っていればナツキは話を進めていく。

 とても優雅な動作でナツキが指を指した場所。そこにはなんと……


「千、景」

「おはようございます」


 蘇生に成功した千景の姿が。にこやかな笑顔を携えて、そこに彼は立っていた。


「頼もしいあいつにも、この最強の武器を授けておく。なぁ? こんなに心強いことはないだろう?」


 てっきりナツキが騎士かと思っていたが、どうやら配役としては、姫役がゼンで、騎士が千景、魔法使い的な存在がナツキだったようだ。魔法使いナツキから騎士千景へ、殺虫スプレーが授与されている。


「よっ、カッコいいぞ! 千景!」

「ひゅーひゅー! 最強の戦士だな」

「素敵だわ! 結婚して!」


 そして村人ABCが奈央であるらしい。いろんな方向に回り込み声をかけているが、少々うるさいので静かにしていただきたい。


「でも、だけど、僕……」


 しかしそれだけ盛り上げられても、ゼンはまだ不安のようだ。被っている毛布をギュッと握り、更に隠れようと縮こまる。


「ゼン」


 躊躇いの言葉を告げていたゼンの名前を、千景が優しい声音で呼んだ。


「私が居ますから。あなたを必ず守ります」


 ギュッと力のこもってしまったゼンの手を取り、力強く告げる千景。真っ直ぐと澄んだ瞳がゼンを射抜いた。


「……う、ん」


 ほのかに頬を染めながら、それでもしっかりとゼンは千景の手を握り返した。そして被っていた毛布を完全に脱ぎ捨て立ち上がる。もう大丈夫、そう思わせてくれる強さがそこにはあった。


「千景、殺虫スプレーが無くなったらいつでも教えてくれ。追加で買ってくるから」

「もう安心だ! 何も心配することなどないぞ」

「強いぞ凄いぞ! カッコいい!」

「キャーキャー! 素敵だわ」


 魔法使いナツキがと奈央が演じる村人ABCがはやし立てる。こうして無事にゼンはトラウマから復活。明日からきちんと仕事へ行った。めでたしめでたし。

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