第29行目  お熱出ました

「スズ、朝だぞ」


 とある日、冬の冷気が鋭く頬を刺す、そんな朝。カーテンを開けながら、ナツキが眠っているスズに声をかける。

 スズは比較的寝起きが良い。日の光を部屋に入れると、布団の中でパチリと目が開き、キャッキャッと微笑むことが多い……のだが。


「スズ?」


 今日は目を開けてくれない。そればかりか頬が赤く、呼吸も苦しそう。いつもはサラサラとなびいている前髪が、汗でおでこにへばり付いていた。明らかに様子がおかしい。


「どうした、スズ? 苦しいのか?」


 ヒューヒューとか細い息だけが部屋の中に響く。こんな事態はここに来て初めてのことだった。


「誰か! 誰か来てくれ! スズが大変なんだ」


 ナツキはパニックになりながらも、大きな声で叫んだ。本当ならそんな大声を出さなくても、ドラゴンという特性上みんなの耳には届く。だからこんなに大きな声を出したのはナツキ自身ひさしぶりだった。


「どうした?」

「なに?」

「何がありました?」


 ものの数秒でドラゴン四匹が全員集合。ナツキの声の様子から、全員ただならぬ気配を感じたのだろう。いつもより俊敏に動いて集合した。


「起こしに来たらスズが苦しそうで。どうしよう」

「風邪ですか?」

「だとしてもかなりしんどそうだね」

「薬などこの家にはないぞ」

「お、俺買ってくるよ! 薬局に行けばいいだろう?」


 奈央の発言に、ナツキが素早く財布を掴む。オロオロと慌てながらも家を飛び出そうと玄関へ走った。


「待ちなさいナツキ。幼子の薬はそう簡単なものではないと思います。そもそも本当にこれがただの風邪かも分からないので、闇雲に薬を飲ませるのは危険かと」

「そっか、そうだよな確かに。ごめん」


 千景の言葉を受け、大人しく戻ってくるナツキ。だけど心も頭もまだ落ち着かないようで、必死に言葉を紡ぐ。


「どど、どうすればいいんだ。人の子って弱いんだろ?」

「そうだな。俺たちよりは確実に弱いなぁ」

「僕らはそんなに寒さを感じなかったけど、もしかしたら寒いんじゃない? ほら季節はもう冬でしょ」

「毛布! 毛布をかけて温めればいいんじゃないか?」


 そう言うが早いか、既にナツキの手には毛布が。優しくスズの上にかけるも、もちろんそれですぐに良くなるはずはない。苦しそうな呼吸音が、相変わらず部屋に響く。


「どうしよう、どうしよう。早く何とかしないと……スズが、スズが……」


 そこでナツキの言葉は止まった。その先が口から出ることはない。口から出してしまえば、それが現実になってしまうような気がして言えなかった。


「あ、そうだ、病院! 病院に連れて行かないと。お医者様に診てもらわないと!」

「だから待ちなさいナツキ」


 今度はスズを抱え、飛び出そうとするナツキを、またしても千景が呼び止める。


「まずは落ち着きなさい」

「何だよ、早くしないといけないだろ!」

「そもそも、あなたその姿で行くつもりですか?」


 そう言われて自分の姿を見れば、皮膚は緑色、頭からは角、お尻から尻尾も生えていた。完全にドラゴンの姿に戻りかけている。これで町へ降りたら、大騒ぎでスズの診察どころではなくなってしまうだろう。


「いいですか、スズを病院に連れて行くのはいいとして、それはゼンの役目です。今私たちの中で戸籍を持っているのが彼だけなので、何かあった時のためにゼンに行ってもらいます」

「行くのはいいけど、病院って保険証居るよね? スズのどうするの?」

「友人の子供を預かっている設定にしましょう。後々役所の双子に何とかしてもらわないといけないので、後日頼みます」


 当然のことだが、仕事担当を担う者には人間界での戸籍が必要である。しかし彼らはドラゴンであり、50年周期でしか仕事に出ない。そのため法律上のいろんな経歴が不足している。そんな彼らをサポートするために、役所で働いているドラゴン仲間、それが役所の双子である。彼らはいつもそれなりの権力がある地位にどちらかが付いてくれている。スズの戸籍は彼らに頼めば何とかなるだろう。


「病院では恐らくいろんなことを聞かれると思います、血液型とか。全部分からないことにしておいてください」

「スズの名字は?」

「あー、安藤で」

「分かった」


 毛布に包んだスズを抱き、ゼンが家を飛び出していく。小さくなっていく彼の背中を千景はホッとしながら、ナツキは拳を握りしめながら見送った。




※※※




「人の子の病院は優秀なのだろう。そう心配をせずともすぐに帰ってくるはずだ」

「……うん」


 不安で蹲っているナツキの頭をポンと撫でる奈央。

 ここに来てからスズが体調を崩すことはなかった。いつも元気にニコニコと笑っていた姿から一変、苦しそうに呼吸している様には心が痛む。


「それにしても千景、対応が的確で素早かったな。なぜあんなに落ちついて対応出来たのだ? 俺はもう何をどうしたらいいのか分からなかったぞ」

「ナツキが貰ってきてくれた子育て本を読んだのです。その中に体調が悪くなった時のことも書いてありました。病院で聞かれるあれこれも」


 以前親切なご婦人方に譲っていただいた子育ての様々な品々。その中には本も入っていたようで、その知識が今回役立った。

 あの時千景が適切な判断をしてくれなければ、いろんな対応が後手に回ってしまっただろう。スズの苦しい時間が少しだけ短く出来たのは、彼の判断が大きい。


「「「………」」」


 重たい空気が部屋の中を包み込み、誰も言葉を発さない。

 できる限りのことは尽くした。あと自分たちに出来るのは、スズが早く元気になることを祈るだけ。ただそれだけだった。

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銀杏の鈴が鳴る日まで 花音 @kanonon

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