二妃賦

連合軍に参加していた朱麗月率いる隴軍が故郷に戻って来たのと時を同じくし、彼女の許に亜世羅尉と沙羅尼の両者が停戦に合意したとの報せが届いた。これを聞いた麗月はほっと胸を撫でおろした、しかしながら政廟で頭を悩ませていた。不作と戦費に苦しんだ民は飢えることはないもののこれまでよりも貧しい暮らしを強いられていた。すぐに麗月は宴を開き従軍した皆に褒賞を与えた、国庫が空になるほどに金銀、そして絹を皆に与えた。これで腹が膨れぬとは知っていても将兵は皆喜んだ、腹は膨れるが味に優れぬものばかりが宴に出されているとは言え、公が功に相応しい褒美を与え褒め称えてくれるのだから悪い気はしなかった。ただ、多くの者は賞の多寡、食事の美味さよりは別の事を気にしていた―――この場に将軍龐琳がおらぬのだ。足首に矢を受けた琳は隴に帰って来ることは出来たものの傷から病を得て床に伏せていた、そして宴の後に麗月からの褒美を見て微笑むとそのまま薨った。多くの者がその死を悼み琳の葬儀には隴国からの参列者だけでなく、各国から弔問の使者が訪れた。麗月は彼に隴山侯の爵位を追贈し、東征で揚げた武功そして一歩も引かぬその勇猛さを惜しみ威侯と諡した、曰く「当に、名が壮士の籍に在れば、中に私を顧みるを得ず、軀を捐てて國難に赴く,死を視るは忽ち歸るが如し、であった。どのような時も隴山兵を率いる将の名に恥じず死地に於いて奮戦し、夷狄との戦いで孤らに勝ちを齎した、その武勇と胆力、孤が生きてこの目で見てきた古のどの猛将をも超えていた」と。多くはまだ幼い長子が嗣ぐことになった彼の早世を悼んでいたが、麗月や荀令はただ顔に色を浮かべずにいた、戦というもの、時が流れというものは則ち人との離別を表すからだ。




   ◇




いくらか時が経った。涼しい秋風が蕭瑟するこの日、飛国驃騎将軍衛信は隴にある魯璿の邸を訪れていた。信はその戦功を認められ侯に封せられており、さらに璿も高齢となり大将軍である周真が任を辞したため上が空き前将軍となりさらに侯に封せられていた。皆は璿の琴の音に酔いしれながら酒を飲んでいた。ふと「しかし、寂しいものですな」と璿は言葉を零す。信は「敬侯、威侯、惜しい人を失いましたな」と杯を乾かした。これに対し璿は「今頃、彼らも碁を楽しんでいるかもしれませんな」と寂しげに言った。ならば我々も、と碁盤を取り出してきた信を見て璿は微笑を浮かべる。ぱちり、ぱちり。碁を打つ音が秋の空に響く。璿は石を打ちながら龐璋武よ、司馬伯台よ、と涙した。




   ◇




遥か東のかたでは内乱が起きているらしい。亜国との和平を結び国に戻った和進は速やかに父の左右にいた全ての佞臣を族誅し権力を握った、そしてこれまで支配下に置き重たい朝貢を課していた周辺の諸国に融和的な政策をとり国を建て直していた。更に、韓から釈放され帰って来た沙人が持ち込んだもう一つの聖典―――司馬嘉を始めとした韓人に依って作られた都合の良い聖典―――を真のものであるとして広めていた。そこに戻って来たのは戦死したと言われていた父であった。彼は旧臣の血族の生き残りを集め和進と骨肉の争いを始めているのだという。この報せを聞いた司馬彩であったが特に何も言う事は無かった、丁度彩はこの時東征の記録を一つの書に編纂していたからだ。後に之は東征記と題され、史書としても兵書としても高い評価を得ることになる。霍紅珠が隴に逃れてから始まる一連の戦の記録を残し、更にそれぞれの戦についての希代の才女である荀令との問対を付記したこの書は後に全ての士大夫がこぞって読むものとなる。この書は、紅珠そして華珀の手も借りて完成された。―――歴史とは不思議なもので、司馬氏と霍氏の間には因縁がある。いま隴国に在る司馬氏の姓は媯氏といい、元は韓の公であった一族である。韓で内乱があった際、その司馬氏は血の繋がった公族ではなく霍国から流れて来た公族に与した、腐敗し民を顧みなくなり骨肉の争いを繰り広げた血族より霍氏を選んだのだ。霍氏が韓の公となると司馬氏の祖先はその功を鑑みて司馬に任ぜられる、その一族は韓氏を捨ててそれ以降司馬氏を名乗るようになったという―――そんな因縁のある一族、そしてその才女たちが力を併せて記したこの書は多くの者に持て囃されることになる。司馬彩の祖父司馬禁は孫娘が東征に出て暫くするとその高齢からか病床に伏せていた、彩から完成した東征記が送られてくると一晩で之を通読し「我が後、皆傑物なり」と笑顔を浮かべるとそのまま斃れたという。彼もまた長子と同じく盧周侯を追号され貞侯と諡された。これを聞いた彩は一切笑みを浮かべなかった、自らの才が認められるのは当然の事だと分かっていたからだ、そして何より今この邸に麗月と令はいないから。紅珠はその功と血筋から黒龍将軍となり名目では黒龍衛尉である虞娥を越える地位となり、珀は多くは亜国に帰ったが情愛からか隴に僅かに残った亜人を率いる将として鎮東将軍のままであったが侯となり領邑を幾らか与えられた、そして司馬彩も官位を上げていた。ただ彼女たちはこの広い邸での三人での暮らしに満足しつつも寂しくあった。




   ◇




朱麗月は天子からその多大な戦功を鑑み王に封せられそうになったがこれを断った。それならば形式的な諡であった翼鬼に加えて武、威、壮、剛のうちからいくつかを付け加えさせて欲しいと言われてもそれを固辞し、更に国事を皆に任せて都からも去って行ってしまった。どうも隴の都鍾陰から盧湖を挟んだ華山の麓の街の近くで荀令と共に暮らしているらしい。冬が近づくこの日、麗月と令は華山を登っていた。麗しく赤く色づいた樹木を満足げに眺める麗月に対して令は薬草を拾い植物の記録を録りたいだけであったがどこか楽し気であった。この時、夕漏は賖かであるように感じられ、令と共に歩む険しい山道を彩る角張った岩々は麗月にとって象牙のようにも思えた。山の中腹、雲の衣を攬りて見える自らの国、傍らの令の姝貌に比ぶればとるに足らぬがそれでも愛おしく思えた。


背在鍾陰、越涌搖盧湖、径隴諸県、望兮萬雁飛。

西上華山、艱兮何巍巍、傍令妃在、樂兮舞羅衣。

秋風蕭瑟、流芳囲二妃、歩越軽雲、白日兮未帰。

天気肅清、虎豹在谿啼、在頂流眄乎東、我心迷。

壮士雖性命不顧、思子與妻、沙漠遷移、待返西。

時流何洋々、征夫伏戦、魂魄蒼天穿、志為飛燕。

子在鄕邑、聞其功何赫赫、哀哉雄之子、行携戟。

騰蛇乗霧、友沈於海、在天獨降雨。

神亀雖寿、友為土灰、於淵羨群鮒。

幸哉麗妃在傍兮、楽哉盼其眸煌煌、翩翩翱翔兮、金環翠琅、当蔽陽光。

玉手乍攀花兮、睞眼不含笑、言不笑而有芬芳。

雖其思不可知、宿昔共在、其如日月、照我生不亡。


これを聞いた令は麗月に対して僅かに笑みを浮かべて見せた。

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翼鬼公朱麗月 姫百合しふぉん @Chiffon_Himeyuri

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