鬼士

霍紅珠は長く寝てしまっていたようで、目を覚ますと既に隣で眠っていた朱麗月の姿は無く、彼女の長襦袢の袖だけが紅珠の身体の下に残されていた。自分が眠るときに心細く思い、麗月の身体を頼り擦り寄ってしまっていたのだろうと思うと紅珠は恥ずかしく思った。それと共に紅珠の事を起こさぬように自らの寝衣の袖を断った麗月に対し口に出さずとも密かに感謝した。当の麗月はというと机の前に座り筆を走らせていた、これを邪魔してはならないと静かに紅珠は起き上がるのだがすぐに麗月は感付き紅珠に声をかける。「よく眠れたようで何より。食事を用意しよう」と彼女は言うと立ち上がって部屋を離れる、これに対し紅珠は少し困惑してしまい声をかけることが出来なかった。何しろ、国君である麗月が自ら台所に立つと言う事が全くもって紅珠には想像できなかったからだ、勿論、紅珠は自分で食事の用意などしたこともなかった。暫くするといくつかの小皿が乗せられて膳を手にし、麗月が再び現れる。雑穀の混じった粥に、味噌に漬けた魚を炙ったもの、そして野菜の漬物。その質素な取り合わせは昨晩麗月が見せていた美女を侍らせた酒宴からは想像のつかないものであったが、その滋味が紅珠の身体に染みた。彼女が黙々と箸を進めている間、麗月は唯只管筆を走らせていた。その後ろ姿を見ながらあっという間に膳を平らげると、紅珠はどうしてよいか分からなくなってしまいおずおずと麗月に声をかける、何しろ下女の姿は見当たらない、昨日見かけたのは麗月と歌伎を除けば門を守る二人だけであり、彼女の身の回りの世話をするものなどいないのではないかとすら思えたから。「如何したら良いでしょうか」と問うと「ああ、孤が片付けておく」と彼女は立ち上がり振り返る。「いえ、何やらお忙しそうでありますが……」と紅珠が目を伏せると「構わんさ、この家には黒龍衛が交代で門衛についているが、彼女たちは別にこの家の仕事をするわけではない。孤が全てをやっている、それはいつものことだ。それに、太学の者が書いた法学の論文に評をつけたり、瓏華との算術や鬼術についての議論の手紙をしたためているだけだ、これはいつでもできる」と。瓏華とはかの荀令の字であり、彼女もまた存命であるのかと内心驚いているうちに麗月は膳を手にこの部屋を既に去っていた。することがない、と紅珠は少し落ち込んでいた。国を喪った自分を家に置いてもらう事になった恩を返さなければならないと思えど、麗月が寧ろ紅珠の世話を焼くものだから彼女の心には焦りのような気持ちが湧いてきていた。片付けを終えて戻って来た麗月は「孤はまだ机と向かい合うつもりだ、暇を持て余しているのならばそこらにある書を読んでいるといい、ああ、昼が過ぎたら孤と少し身体を動かさんか?」とだけ言ってまた筆を手にする、質問の体を取ってはいるが返答を受け付けないそれは普段の紅珠であれば不快にも思うものでもあったが、今は少し心が安らいだ。そのおかげか、赴くままに手を伸ばした先にあった兵書の内容がすんなりと頭に入った。

質素な昼食を取って暫くすると、麗月は紅珠を庭に誘う。彼女は紅珠に四尺ほどの竹の鞭を手渡し、自らもそれを手にする。「軽く手合わせでもしよう、君は幼少の頃より弓馬に親しんでいたようじゃないか。安心しろ、孤は本気で撃ったりはせぬ。しかし君は本気で撃ってくると良いだろう」と麗月は挑発的な笑みを浮かべる。瑜の武王は韓以前の九国割拠時代に記された高名な兵書である程武子を編纂しこれに註釈を加えたほかいくつかの兵書を記している。そのうちの一つである鬼士用論曰く、兵役人口三百に対して一の割合で存在する膂力過人である鬼士を集めた部隊には二つ用い方がある、と。一つは重い甲を着せ隘路を通さぬ壁とする、もう一つは軽い甲のみを着せてその素早さを生かして脇から軍に当たらせこれを打ち破る。また敵方に鬼士が在る場合の打ち破り方も記している、曰く、甲を厚く着こんだ鬼士には弩を浴びせかけその気を削り、取り囲み、呉鉤、鉄鞭、錘で打倒す。甲を着込まない鬼士はその見た目に騙されて斬ることや突くことをしてはならず、これもまた取り囲み重い武器で打倒すとしてある―――この方法を敵が取りにくくするためにも、鬼士が希少だからといっても分散して運用してはならず、必ず固めて使うべきであるとしている。また、史書に残る豪傑はおよそ全てが鬼士であり、鬼相を持っていることを隠していたとも武王は推察している、万夫不当の豪傑が討ち取られることがあるのは同じ鬼士とぶつかり合った時や、囲まれた時のことである、と。紅珠は鬼士用論の内容を思い出して竹鞭を強く握る、つまりは、一度本気で軽い竹鞭で撃ったところで麗月は痛くも痒くもないのである。

紅珠がその手に力を込めた刹那、麗月は間合いを詰める、それは雷霆が天を翔けるような疾さであり鞭を構えてそれを防ぐことは当然の如く敵わない。揶揄うように優しく彼女は竹鞭で頬をつつく。紅珠はそれを恥に思い顔を赤くする、その一方でそれを防ぐに能わずも構えようとはしていた紅珠を見て麗月は笑みを浮かべていた。「今のは悪戯が過ぎたが、それにしても見えてはいたのだな」と麗月は先ほどよりも速く紅珠の前後左右を疾駆し、竹鞭でその身体中を触れて回る。その先を払う事は今の紅珠には出来なくとも、麗月の動きを掴みつつあった、そう、紅珠には何かが見えるのだ、目で捉えるものとは別のものが。彼女には黒き気の流れが見え始めていた、否、感じ取り始めていた。目を閉じたことで彼女の鞭捌きは加速し、麗月の鞭先を捕えつつあった。そして一閃、身体の右後ろから迫りつつあった麗月の身体に正対し、その身体を撃ったのである。彼女には黒い玻璃の塊が少し欠けて砕け散る様が見えていた。はっ、と紅珠は我に返り「大丈夫ですか?」と十歩以上遠くまで吹き飛んだ麗月を気遣った。「ああ、勿論だ。鬼士の振るう戟であっても何度かであれば耐えられるからな、まぁ戦場において孤に触れられるものなど居らぬが……」と麗月は笑ったのちに、「見えたのだろう、鬼士の放つ気の流れが。それは即ち、君にも鬼相があると言う事に他ならない」と彼女の耳元で囁いた、この時ばかりは紅珠には麗月の動きを捉えること叶わなかった。「孤に飼われておるだけの時間は退屈だろう。今は孤の許で学び、こうしてたまには孤と戯れ、そして成りたいものに成れば良い」と笑顔を見せた麗月に紅珠は、はい、と朗らかな声で応えた。

それから一週間後、麗月は久方ぶりの政庁へと向かった、使いの者曰く、飛の使者が面会を求めているとの事。紅色の生地に花々や天へ昇る龍の刺繍をあしらった衣服をまとい、黄金や翡翠でその身体中を飾った彼女が政庁の広間の奥で、その背に幾人もの鉄戟を携えた黒龍衛を並べ鎮座していると、ぞろぞろと隴の丞相、司農、司馬、司徒、司空、廷尉などの各府の長が集まってくる。暫くすると白龍士の偉丈夫二人に挟まれて、使者がその場へと現れる。「我が主、公孫丞相の使いである馬馥と申します」との使者の言葉に麗月は「ほう、王の使者ではないのか」と軽口を返すと、馥は少し嫌な顔をしたあと、すぐに表情を取り繕い「霍立は罪を得て刑死しましたゆえ……。朱公は実の無い話を好まぬという事を聞いておりますので、手短にこちらの要求を伝えさせていただきます。霍立の娘、霍紅珠が隴国に流れて来ておりますな?」と切り出す。これに対し麗月は「孤は確かに、華底関の尉からその報告は既に受けてはおるが、その後、どうなったかなど知らぬな。大方、紅まで抜けていったのではないか?」と惚けて見せる。麗月の言を一笑に付し、馥は堂々と「こちらの間諜が確かであればまだ隴にいるようですが……、それを捕え飛に差し出して頂けないでしょうか?」と主張する。それに対し麗月は「それは出来ぬ相談だな、間諜が確かか不確かなどとは関係なく、隴国の法ではそのようにするという根拠がない。徳を以て国を治めているであろうそちらの納得する返答を取り繕うとするならば、思帝陛下から賜った役割を全うするためにも他国からの干渉を、この隴国では一切受けるつもりがない、と公孫封に伝えるとよい」と笑いながら返答した。馥は唯、「その言、公孫丞相に伝えさせて頂きます」とだけ残して去っていった。

馬馥を見送ったあと麗月は重臣たちに向かって「はは、あやつめ。負け惜しみを言わなんだな」と笑って見せると、間諜を司る府の長、司間である司馬禁が声をあげる、曰く「朱公、つかぬ事をお聞きしますが……。霍君は朱公の家におられるそうですが……」と。麗月は「はは、そなたたちには言っておらんかったが隠すつもりもなかった、当然司馬司間も知っておろうな」と笑うが禁の面持ちは暗いままで、「無論、朱公の使者への回答は正しくあります。霍君を送り返せば国内に示しがつかないばかりか、瑜や紅からも、どの国とも中立であるという事が信頼されなくなり、国政への干渉が始まるでしょう、何せ、この隴の地は瑜の武王周雲、飛の烈王霍治、紅の壮王程会が争った要衝でありますからな。して、禁がお伝えしたいことは、飛の軍に動きがあると言う事です。既に東に軍を動かしつつあります。これについては既に蔡司馬をはじめ各卿に知らしめてありますが……」と言う。「だろうな、霍君が生き残っていることは公孫封の統治の正統性を損なうからな、これを除きたいと思うのは当然だろう」そう麗月が言った後に、司馬である蔡朗が更に続ける、曰く「華底関を経る経路と、海沿いの隋津を経る経路を想定し既にそれぞれ三軍一万五千、四軍二万に召集をかけております、華底関は文将軍が、隋津は周将軍がそれぞれ都督します。龍士の割り当ては未だ定めておりません、これに対して朱公の意見を賜りたく……」と。これを受けて麗月は立ち上がる。「よろしい。帝に両国の停戦の詔勅を出していただくように使者を出しておけ、この戦は守るだけの隴にとっては僅かもの益がないからな。……して、孤はまず華底関から攻め入ってくると考える。何しろ飛は嘗て隋津で大きな敗北を喫している、それが意味することは、あれから東に攻め入るのには向かぬと言う事だ。まぁ、隋津の抜きようはあるだろうが初めは避けるだろう……。とは言え、今、公孫封の軍は勢いに乗っている所だ、実情は兵糧が足りていないから迅速に動かしているだけかもしれぬが……。それを思えばどちらもありうる、隋津には郭将軍に白龍騎士をつけて出せ、それと瓏華も呼び出してこれにつけよ」この麗月の言に対し朗は拱手しながらこう問う、「して、華底関は……」と。麗月は朗に対して「孤が黒龍衛を率いて向かう」と、そう言って不敵な笑みを浮かべた。

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