華底関

朱麗月は屋敷に戻ると自ら手勢を連れて出陣することを霍紅珠に伝える。それを聞いた紅珠は「妾が隴に流れて来てしまったばかりに……」と申し訳なさそうに漏らした。これに対し麗月は背伸びをして彼女の頭を撫でてこう言う、「この天地に於いて人はそれぞれ尊重されるべきで、紅珠が生き延びようとしたことも恥じるべきではないのだ」と。韓始二百十一年に起きた董孟による帝位簒奪に始まる変を治めた光武帝の言葉を引いたその言葉は、命を狙われる亡国の公主である紅珠の心に染み入った、自らの選択で隴に災いが降りかかる事、それは彼女自身よく分かっている、そうであっても麗月のこの取り繕うような令言に心優しさを覚え、感じ入った紅珠は頬を赤らめ微笑んだ。

麗月は自らの近衛兵である黒龍衛三百を連れて華底関のすぐ東の県である臨山の城に入った。龍士という言葉は麗月が武王周雲に仕える際に引き連れてきた彼女の養女たちが起源となっている。麗月はもともと珠郡の侠者であり、同じく鬼相を持つがゆえに孤児となった少女たちを集めて学問や武芸を修めさせ、そして起臥を共にしていた。そんな勇猛で知性に溢れた麗月の養女たちを指して、雲は龍士と呼んだのだ。この龍士は戦の中でその真価を発揮した、数で勝る群雄たちを寡兵で打ち破り勢力を大きくしていった瑜をその黎明から、奇兵として支えたのだ。鬼士は兵役人口三百に対して一という希少な存在であるにも拘わらず、雲がそれを選りすぐり運用するようになったのは彼女たちのあげる戦果が理由だ。その勇名を引き継いだ黒龍衛は鬼相を持つ女人の志願兵を集めた麗月の親衛隊である。彼女らはほぼ甲を帯びないその身軽さと鬼士の膂力を活かした突破力で敵軍勢に穴を開けるための部隊でもある。一方で関ではなく南方に向かう事になった白龍士は鬼相を持つ男を集めた精鋭部隊でこちらは厚い甲を着込み、また鎧を纏った馬に乗ることもある防御と制圧、そして蹂躙を担う部隊である。

臨山県の城に入って一週間、ついに飛の軍勢が動き始める。飛の国を乱した霍立の娘を匿っている事を糾弾する書状が届き、大軍が華底関に向けて進軍を開始したのだ。それを受けて麗月たちは華底関に入った。もとより関に駐屯している一軍、それから中央から派遣された三軍、その将軍たちが幕舎に集い軍議を始めている所に麗月も混じる。駒が置かれた地図を囲む諸将たちの面持ちは神妙であった、何しろこれが初めての戦である。例えば瑜や飛の辺境には不服従民が多く、紅はそれらに加え夷狄の侵入もあるため、三国の間での争いが無くとも戦争自体は定期的に起こる。隴は三国に囲まれた地であり異民族は居らず、治安も良い為、僅かに南の海から現れる海賊や小さな賊の制圧くらいしかここにいる将軍たちは知らないのだ、唯一、麗月を除いて……。その中で一人少し気の抜けた面持ちをしていた司馬嘉という参謀が口を開く、曰く「生間の報告によれば、その軍勢は八軍四万程度でありここ華底関に向けて進軍を開始したとのこと。これが二日前に見た状況の報告であり、現在はその途上、もしくは関の前に陣を築いている頃でしょう。明日、攻城が始まるかもしれませんな」と。嘉は司間の司馬禁の次男である。世の人曰く、普段は何かに思い耽っているのか呆けていて愚かに見えるが、口を開けばその言は真理をつくと。「主将は趙徹、金山の趙襲の後であるとか。幾分古い評ですが、射御に優れ膂力過人、高慢な所があるものの快活で民からの好まれているとかなんとか」と続けた嘉に対して麗月は「乱においてのかの者の戦いの傾向は伝わっておらぬのだな?」と問う。「ええ、それらの風聞が伝わるほどの時は経っておりませぬゆえ……、関の南北の峠にそれぞれ一軍ずつ兵を伏せて迂回を警戒しつつ、関を固く守るのがよろしいかと」と嘉は麗月の問いに答え、さらに作戦を立案する。華底尉の王将軍はこれに対して「それが無難でありますな……。そもそも飢饉に端を発した乱故に、その兵糧は長くは持ちますまい、疲れも癒えぬまま攻めてきた彼らの攻勢を関で受け止めていれば、踵を返す事でしょう」と賛意を示す。文将軍は憂慮する事柄あるのか何か口を開こうとしている、そんな彼に対して麗月は「勢いを恐れているのか?」と促すと文将軍は頷き「ええ、飛にとって逆賊となってしまった霍立を討つために周中の城に雪崩れ込んだ軍勢は二十軍を優に越えていたでしょう。雪原で雪玉を転がす様にその身体を大きくし、勝利をつかみ勢いに乗っている公孫封が、そのまま休んで気を削ぐこともせずこちらに軍勢を差し向けて来ている。士気は軒高、天を貫くほどでしょう」と述べた。これに対し嘉は「将軍の憂慮する事については私も理解できます。朱公が匿われている霍君、清廉で聰慧、弓馬に親しむと民から尊敬されていたようです。そのため公孫封が叛旗を翻す前にはその彼女のもとに民が直訴に来ることが多かったようですがこれを門を閉ざして聞かず、とのこと。費氏に憎まれていたようですので、叛意を疑われぬためにも下手にそれを聞き入れる訳にもいかないでしょう、しかし民にはそれは知る由もなく……、結局暴君の娘として憎まれているようです。それを討つために軍を進めるとあれば意外にも敵の軍勢は粘るやもしれませぬな、つまりその意気を削ぐような勝利を短期間で得たい、と」と言い、一旦逡巡した後に更に嘉は言葉を続ける。「それでしたら……朱公がどう思われるか分かりませんが……」と始めは揚々とした声色だったが直ぐに言い澱む。麗月は「続けよ、孤と答え合わせをしようではないか」と笑いながら彼の提案を促す。「南の峠はやはり一軍を伏せておくことは変わりません、これは峠で一日布陣したら帰って来て良いでしょう。北を朱公に行って貰いたいのです、恐らく今から経てば峠で夜を明かし、明日の午後に敵勢の横をつくことになるでしょう。それに合わせて、文将軍が門を出て敵の攻城兵を騎兵で撃つ。ただ……相手の出方が分らぬ故に怖いのです、明日、関に敵が殺到するかどうかなど予測がつきませぬゆえ。関の東の道は険しくなく臨山の城も近い一方で西を見れば麓の斜林県の城と輜重が往復するにはこれは苦しいですから、いち早く攻城にかかりたいはず……」と謙ったように言う嘉に対し麗月は「それは分かる。が基本的には卿の言った通りが良いと孤は思う。そうだな、孤と黒龍衛は三日分の干糧を背負ってその道を行こう。それで、彼らが攻撃を仕掛けたのを見て敵陣を襲いこれに火を放つ……これは余り面白くはない事だがな。それが見えたら文将軍が打って出るとしたらどうだろうか」と提案する。文将軍はこれに対して「敵の兵糧が奪える奪えぬを算用するよりまずは勝つために動く。朱公の策に概ね賛同いたします。しかし雨があった場合は如何にしましょう?」と麗月に問う。「後ろの陣が荒らされれば前線に乱れが行くだろう、ここは諸君らの判断に任せる、孤が敵陣への奇襲を成し遂げたと見たら打って出てよいぞ」と返して麗月は諸将の肩を叩いた。これに対して一同は拱手し、勇ましく声をあげる。何しろ史書には麗月の偏狭さあげつらう逸話として、自分の策が通らねば気が狂ったふりをして出陣を拒みそれに対して武王は大いに失望するが、後になってみれば麗月が正しかったと武王がこれを赦したという話がある。つまりは、素直に出陣しようとする麗月の姿だけで、この策に、勝利に間違いは無いと思わせるだけの力があるのだ。ただ戦というものは往々にして思い通りにいかぬものであるということを麗月は熟知している、最悪であっても関は落ちないだろうが自分たちが敵陣に取り残される可能性が大いにある事は間違いない。しかしその事に関しては諸将には何も伝えず、只勇ましく幕舎を出てながら自身の心の中で幾重にもそうなった際の退路を、頭に入った地図を思い浮かべながら考えておくのであった。

準備が整った黒龍衛達は麗月に率いられて山に向かって歩み始める。黒龍衛というのはその性質上、麗月に対する強い崇拝と思慕によって強く纏まっている。麗月は黒龍衛の女と起臥を共にし淫らな行いをすることもある。これは隊の女たちの間でもよくある事だ。それが彼女たちの絆をより一層深くし、このような初めての戦であってもその心は乱れることなく、迅速な行軍に繋がるのだ。僅かに身体を覆う甲の上に外套を羽織り、斧戟を携え、鬼彊もしくは投げ槍を背負った彼女たちは艱き道を意気揚々と登っていく。詰屈した坂においても尚、積雪の如く眩く秋霜のように鋭いその斧戟の切先がきらりと輝く。彼女たちはその中にあっても山を抜き天を衝く気が昂るのを抑えられず歌い始めるのであった。


天下飛将朱紅龍、美髪垂兮如天女、玉姿嬌兮容應図、飄颻舞兮如遊龍。

天下飛将朱紅龍、以戟摧兮如鬼神、操彊射兮如雷霆、萬人敵兮如天人。


いつ頃からこれが歌われ始めたかは分からない。ただ確かなのはこれを詠んだのは麗月本人ではないということくらいか。こうして易々と峠までたどり着いた彼女たちは、陽が沈むのを見て峠道に並んで宿営を始める。秋が近づく肌寒い山中で火を焚き、糧食を口にし、身体を洗う事もなく身を寄せ合い眠りにつくのであった。

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