大蛇
翌朝、関に屯する兵たちは遠くに西で軍楽が鳴り響いているのを聞いた。腹を揺らすような太鼓の音と勇敢な歌声は兵たちの顔を強張らせる。華底関尉王放はこれを聞いて関の上に兵たちを集めた。毛将軍が率いる一軍は関の南の峠に向かい、文将軍は鉄騎兵たちに準備をさせ関の上にいる王放の下へと向かった。これに対して放は「関の上には放と徐将軍がおります、文将軍を失えば打って出る騎兵を指揮すべき人がいなくなります。我々は必ずや敵の攻撃に耐えて見せますので、安心し英気を蓄えながらその時をお待ちください」と追い払った。「朱公に言われた通り、王将軍は関の上での戦闘を指揮してくれ。青は督戦する」と臨山県を任地とする守関将軍である徐青はそう言いながら豊かな顎鬚を撫でる。青は放の上司にあたるが、実際に関に詳しいのはもちろん放である。放は勤勉で真面目な人柄であり、この華底関の尉となってからは古今の攻城戦について良く調べた。彼の心の内で既に勝利を確信していた―――相手に気圧されることなく戦うことが出来れば。そもそも攻城戦と言うものは包囲で食糧と心を攻め、守備を弱めてからもなお城壁の兵を出来る限り削ってから城内に進入するものである。関は包囲をすることが出来ないためそもそもまともに攻め落とせるものではないのだ、それは歴史が良く語っている、策を弄して落とした例がみられるとは言え、まともに機能する関に対してはおおよそ誰しもがそれを迂回しているのだ。恐らく彼らはあまりも簡単に周中までが落ちたので攻城戦というものを勘違いしているのだろう、と放は考えていた、あれらは内応の頻発もあっただろうし、守勢の士気も著しく低かっただろう。
やがて、関へ至る道を埋め尽くす飛の軍勢が見え始める。兵たちはこれまで見たことがないであろう光景だった、人が密に詰まる事、賑やかな城内の市どころではない、そしてそれが道を埋め尽くしている。市の混雑とは異なりそれぞれが明確に前に向かってゆっくりと歩んでくる様は関の兵たちの背筋を凍らせるのだ。彼らの歌がその詩まではっきりと聞こえるようになる、「民を虐げし悪逆な王の娘を匿う賊の国、その名は隴。道理を介さぬ国民ばかり、酷吏が蔓延る大義なき国。暴君朱麗月は民の生き血を啜り肥え太る」と彼らは大声をあげて歌っているのだ。そのあまりの威圧感に関の兵たちは彼らの歌が真実であるかのようにも思えてきていたし、既に逃げ出したくなっていた。
その時、雷が落ちるかのような大きな太鼓の音が響き渡り、敵の罵声を打ち消した、そう、青が自ら太鼓を叩き始めたのだ。「発石機と床弩を敵の塊に向かって放て!叛乱で王を討つだけにとどまらず隴にまで侵略しようとする賊軍を追い返すのだ!」放もそう大声をあげ煌びやかな金の刺繍と白鳥の羽根で飾られた旗を振るって合図する。華底関は谷間の狭い関で床弩も、発石機もその数は多くはないが、金属加工の技術にすぐれる隴の国のそれは関を攻める兵から見れば脅威である。長さ十尺の大きな矢を弦にかけ、これを二人係りで引く。隴国のものは正接調整型の照準器を備えていて、大まかながら狙ったところに矢を放つことが出来るようになっていた。射手が懸刀を引くと轟音を挙げて大きな矢が空を割く。敵兵が密集したところに届いた矢は、兵が構えた盾を苦も無く打ち砕き、甲を帯びた兵の身体を二つに引き裂く。結局、密集した隊列においてはこれは大きな効果を発揮し、矢は地に着くまでに六人の兵の身体を貫いていた。また、厥機から発された五尺ほどの石が降ってくるとこれが兵たちを押し潰し、引き裂かれた四肢がそこらに散乱した。しかしながら彼らの前進は已むところを知らない、皆で歌いながら前進している、それが兵というものを軍という身体の一部へと変えていく、たとえ隣の兵が守城兵器で肉片に変えられたとしても前進を辞めることが出来ないのだ。被害を出しながら前進を続けていた飛軍だが、下から放つ弩が守兵に届く距離まで近づくと、彼らが歌う曲の調子が変わる。それと共に置き盾が幾重にも並べられ、弩兵が屈み弦を引く姿が関の上からでも見えるようになった。関の上でも、太鼓の音の律動が変化する。それと共に女牆の後ろで待機していた弩兵が弦を引き、鐘が打たれその音が響き渡ると一斉に彼らは身を乗り出しその手にした弩の懸刀を引き、敵に罵声と共に矢を浴びせかける。城壁に何台も並べられていた足の力で矢を装填する連弩はこの間絶え間なく彼らに矢を浴びせかけていた。連弩は弩に比べて威力が低いため敵を死に至らしめることが出来ないが、それでも雨のように降ってくる矢はその動きを拘束する。初めは敵兵の勢いに怖気づいていた守兵だったが、すでにその冷静さを取り戻していた。規則正しい太鼓の音に合わせて弦を引き、鐘と共に撃つ。訓練で何度も行ったその動きは彼らを人から兵へと変えていく。高低差、そして女牆の有無というのは射撃戦において致命的な差となる。放物線を描いて飛ぶ矢は置き盾の後ろの兵の頭に突き刺さり、脳漿をあたりに散らさせる。床弩は置き盾などお構いなしにその後ろの兵を真っ二つに砕く、発石機の発する石の下敷きとなった兵の身体を満たしていた血が辺りに四散し、ちぎれた臓物が地面にばらまかれた。兵站線が切れていない状態にあり士気が軒昂な関と言うものなど決して攻めてはならないのだ。しかし攻城側の主将趙徹はこの時、余裕に満ち溢れた笑みを浮かべていた。
一方で、麗月が率いる黒龍衛の一団は敵の本陣を見下ろせる斜面の木々に紛れて、これを見ていた。「やはり彼らは打って出たようだな」と麗月は冷静な面持ちで、井闌を組んでいる敵兵を見ながらそう言うと、手で合図し、皆を鬼彊の射程まで近づかせた。彼女が鬼彊を構えると皆がそれに続いて弦を引き絞った。撃て!と甲高い声で麗月が叫ぶと雷霆のような音と共に矢が飛び敵陣の空を覆い隠した、弓を得意としないものは代わりに短い槍を投げた。そのそれぞれが正確に敵を射抜きその身体を摧いたため敵陣にいる兵は恐れ震えあがった。槍が尽きると、麗月は「攻めるぞ!」と叫ぶ。各各が腰に鬼彊をさげ、地に置いていた鉞戟を手にして駆け出した麗月の後を大声をあげながら追った。その勢いはまさに瀑布のようで、八尺は優にある鉞戟を振るいながら気炎を上げて陣に侵入してくる彼女たちにまともな抵抗はできなかった。散開!と麗月が叫ぶとそれぞれが五人の組に分かれ、目にも留まらぬ速さで陣内を駆け巡り蹂躙を始める。彼女たちは陣にいる一軍に比べれば寡兵であったが、その威容だけで敵を圧倒した。三割ほどの兵が逃走しようとしはじめるが、これを斬り捨てながら返り討ちにせんと立ち向かう兵もいた、しかし彼らは黒龍衛の持つその大きな戟で易々と打ち砕かれていくためより陣内に混乱が広がっていく、そんな中でまだ士気を保っている敵の一団は麗月が一際目立つ豪奢な衣服に身を包んでいることから、これをあの朱公だと解し彼女を取り囲むように動く。「そうだ、孤こそが朱麗月だ!」と彼女は叫ぶと空に飛びあがりその勢いをつけて戟を振り下ろす、その一撃は大地を割り、これを受け止めようとした兵を四肢を四散させた。続いて激を振り回すと十人の身体が真っ二つになり、あたりが赤く染まった。勇敢にも、兵たちはその惨劇を目の当たりにしても麗月に止まることなく襲い掛かっていく。その四方八方からの刺突や斬撃それぞれを的確に戟で捌くと、それを地に突き刺し飛び上がり包囲を逃れる、その様は龍が天空を駆け回っているようであった。結局彼女を囲んでいた誰もがその肌にただの一度も触れることが出来ず斃れていった。
陣にいた兵が全て散り散り逃げていく様を見て、黒龍衛たちの長である鬼龍衛尉、虞娥が麗月に声をかける、曰く、「追撃を行いますか」と。これに対して麗月は「幕舎に火を放ち東へ向かう、敵軍を尻から貫いてやるぞ」と言うと、娥は大声で火をかけるように全員に命令する。彼女たちが暫しのあいだ目を閉じ瞑想すると陣に並ぶ幕舎から火が立ち上り始めた。鬼術を用いて火を起こしたりなどが出来るため、鬼士たちは太古から恐れられまたその数が少ないため蔑まれ社会の隅に追いやられていた。もっとも、この鬼術で例えば半里先に火をかけようとすれば一刻は何事にも惑わされずに瞑想を続けなければならず、結局こうした妖術に見えるものの類は戦ではあまり使い物になるものではないのではないのだが。「偃月の陣で進むぞ、敵が逃れられるように崖側は開けて進め、後方は偽りの退却からの包囲に常に気を配り続けろ、さぁ、孤に続け!」と、麗月は戟を掲げ華底関へと向かい始めた。
関で善戦を続けていた隴軍であったが、井闌が見えたのを機にその流れが変わる。放は女牆を埋めるように置き盾を並べさせ、発石機と床弩は関よりも高く聳え立つ井闌を狙い攻撃を始めた。幾台もの井闌が疎らにこちらに向かってくるのを狙い撃つのは、固まった兵を戮するよりも難しい。そうしているうちに関の置き盾を叩く音が聞こえた、そう、雲梯が掛けられているのだ。これに気付いた王将軍は鐘を連打する、これと共に雲梯が掛けられた箇所に錘を携えた兵が殺到する。このせわしない動きが床弩と発石機の狙いを乱させる。もちろん、二台ほどは井闌を打ち砕くことに成功していたのだが、ついにこれまで上から見下ろしていた守兵が、上から見下ろされる立場となる。自らの頭上から降り注ぐ矢は守兵の身体に突き刺さり、重い甲を着込んだ鬼士を先頭に雲梯を上ってくる敵兵を、取り囲み錘で滅多打ちにして叩き落そうとするも、彼らは奮戦し、身体を自由に動かすことができないはずである鬼士の振るう呉鉤に逆に叩き潰されるものが現れてきた。発石機の周りにも多くの置き盾が置かれこれを動かすものを井闌の弩兵から守ろうとしたが、ついに撃ち殺されるものが現れ始める。この力任せの苛烈な攻勢に、守兵の中に恐慌が広まり始め逃げ出そうとするものが現れる、しかし、青はこれを斬り、逃げ出すことを許さなかった。数多くの雲梯が掛けられ、これを命知らずの飛の鬼士が上ってきて暴れまわる、時間が経つとともに関の上は元々の土の色など見えぬほどに血にまみれ、発石機の石を関の下から持ち運んでる暇もなくなり、斬られた脱走兵の死体を敵に向けて発射しはじめるようになり、さながらそれは地獄であった。放はその中で「軍楽を絶やすな!」と太鼓を叩かせ、飛軍への罵声を浴びせ続け、周りの兵にもそれをさせた。この地獄の中で、勇敢なことに司馬嘉も甲を帯びて守城兵器の指揮にあたっていたが、蛮勇とも言うべき力づくの攻勢に対して「侮れんな……。これが勝ち続け士気が高い軍ということか、あれだけの攻撃を浴びせられ、被害はあちらの方が多いだろうに止まることを知らぬとは……」と疎らに聳え立つ井闌を見ながらそう漏らした、その時であった。彼は「見えたぞ!」と叫ぶと関の上から降りる階段へと走り出していった、これを見た青は「逃げ出そうとするとは司馬司間の子息とあっても見逃せぬぞ!」と刀をもって威圧するが、これにおびえる様子もなく彼は早く通してくれと言わんばかりこう叫ぶのだ。「煙が見えたぞ!文将軍!」そう言って青の身体を押しのけて下で待機していた文将軍に呼びかける。これを聞いた青は門を開けるように命じ、これが開かれると文将軍は鉄騎兵を率いて飛び出していった。そしてそれを斧戟兵を追いかけた。
その姿を見て敵将趙徹は「気が狂ったか」と一笑に付したが、前線の兵たちはそうではなかった。そう、自分たちの陣がある方角に黒々とした煙が立ち上っているのが見えたからだ。そしてその煙が華底関でも見える頃には、何里にもわたって後続の部隊が麗月によって後方から蹂躙されていることを意味する。麗月の後方からの襲撃は苛烈で、摧かれた人体が散乱し、血が吹きあがる様は遠くの兵の目にも届いてしまう。そして大蛇の如く長く伸びて関に迫る敵勢の兵たちに、尾で起きた恐慌が頭まで素早く伝染していくのだ。後ろが騒がしいと思い振り返れば、逃げ出したり腰を抜かす友軍の姿や、こちらまでちぎれた四肢や臓物が飛んでくる様を目の当たりにして、そして同じく悲鳴を上げて逃げ出す。まるで尾を切られた痛みを速やかに感じるように、その恐慌は関で攻勢を行っている大蛇の頭まで届いて行った。この混乱を見た文将軍は鉄騎兵に魚鱗の陣を組ませ正面の敵集団に当たらせ、それに続いて打って出た歩兵には雲梯の周りの兵を取り除かせこれらを破壊し、そこから落ちた兵を取り囲んで殺戮した、鬼士と雖も不意に地に落ちたところで八方を囲まれ斧戟で滅多打ちにされれば逃れることなどできない。後方から逃げようとする兵たちは麗月の軍勢の横を抜けようと僅かな隙間に殺到し、ついには押し出され崖の下へと落ちていくものが多く出た。関の上にいた放も自ら厚い甲に身を包み錘や鉄鞭を手にした兵を率いて飛び出した。徹は鉄騎兵を前に踏みとどまっていた、周りの兵たちが皆逃げ出し、またそれらが追いつかれ蹂躙されているのを見ても踏みとどまっていた。十人に囲まれてもそれらが放つ刺突や斬撃を華麗にさばき耐えていた、徹は紛れもない豪傑であるのだ。これを見た文将軍は周りの兵を下がらせた。「我こそは鍾陰の文光、飛や紅の侵攻を幾度も食い止めし文翼の後なり!」と声を上げ、徹に向かい馬を走らせる。光は自らの武に自信を持っているわけではないが、戦場の空気が彼の判断を狂わせた。徹の武ははどう考えても光より格が上である。光は瀑布のように激しく手にしたその戟を振るった、休むことなく斬撃と刺突を繰り出す、しかしながら徹はこれらをすべて易々と捌く。「口ほどにもないな」と徹はそういうと攻勢に出る、その一撃一撃はまるで疾駆する馬の如き重さで、それを受け止めるたびに光の手を痺れさせる。そしてついに光の戟は弾かれ、徹の持つ大矛が唸りをあげて振り下ろされる。
死を覚悟した光であったが、徹の一撃は飛燕の如く割り入った麗月によって払われていた。「そのような小物よりは孤と刃を交えぬか、孤を討ちとれば史書に名が残るぞ?」と麗月が挑発すると徹は「望むところだ」と言って矛を構える。そう、その容貌短小で、その偉そうな喋りぶりとは正反対の少容、そしてその身体つきに見合わぬ大きな血まみれの鉞戟、戦場でありながら尚も妖艶、これがまさにあの朱麗月であることは間違いないと徹には分かったからだ。徹は地にその足で立つ小さな少女に向かって馬を走らせ、矛を振りかぶる。二人がぶつかり合う刹那、麗月は豹のように飛び跳ね、徹の一閃を躱し逆にその胸を鉞戟で突き刺した。その素早さは常人の目で捉えることができぬほどの速さで、まるで何らかの奇術を用いたかのようにすれ違っただけで徹が突然胸から血を噴き上げて落馬したように見えた。敵兵の血で染まった身の丈よりも大きい鉞戟を軽々と片手で持ち、勝利に沸く兵たちのほうに向かって歩むその姿は当に天から降りてきた仙女であった。しかしながら麗月の表情は一切弛んでおらず、「勇気は将の素質ではあるが臆病さも持て。一人で戦うなど将のすることではないぞ」と、光を叱責すると、「孤はさっさと湯に浸かりたい」とだけ言って関の中へと入っていった。光は深く反省してうつむいたが、すぐに「敵が落としていった甲や武器を剥げ、騎兵は敵陣に向かい糧食や物資を持ち帰るぞ!」と周りの者たちに命じた。
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