荀令

華底関に攻めてきた飛軍を打ち破った朱麗月は黒龍衛を引き連れて鍾陰へと帰還した。邸宅に戻った麗月の姿をみるや霍紅珠はすぐにこれに駆け寄り「ご無事に戻られて嬉しく思います」と控えめな声でそう喜んだ。麗月は政庁で戦の報告を認めたあとに市に寄り、金の鎖で出来た手足の飾りや、真珠の耳飾り、芙蓉や小鳥の意匠の入った簪などを買って帰ってきており、これを紅珠に見せた。「不自由させて申し訳なかったな。これはそのお詫びだ、どれか、貰ってくれないか」と麗月が言うと紅珠は「いえ、亡国の公主である妾がこのようなものを受け取る訳には……」と遠慮した。「美しい君に似合うと思って買って帰って来たのだが……。孤の部屋に置いておくから、後で気に入るものがあれば身に着けてみてくれ。それとも書や武器の方が良かったか?それらは幾らでも孤の家にあるがな」と少しがっかりしたように麗月は自室へと向かっていった。去り際に「君の部屋と寝台をそのうち用意しよう、いつまでも孤と起臥を共にしてばかりでは気が休まらぬだろう」とも言ったため、紅珠は申し訳ない事を言ってしまったと思い、彼女の後を追った。何しろ清貧という言葉を彼女が好んでいない事を忘れてしまっていたのだ、つまり彼女は遠慮であったりとか遜ったりされることをあまり好んでいないという事を―――尤も、隴公にあるまじき簡素な邸宅に住んでいるから、それを忘れてしまうのも仕方がないのではあるが。

麗月は自室に入ると、早速筆を取り書簡を認め始めていた。紅珠はそんな彼女を邪魔しないように、彼女が買って来た装飾品のうち、耳飾りや、足首に巻く金の鎖を手にし、これを身に着けてみた。それに気づいた麗月がふふ、と芳香と共に微笑みを浮かべたのを紅珠は感じ取ることが出来たため、それと同じく頬を綻ばせるのであった。まだ共に暮らす日は浅いが、何となく麗月と言う人の事が分かり始めてきたように感じていた。徳教にある五常のうち、少なくとも仁智信の三つを大切なものだと思い、それを修めていると言う事。また彼女の仁と義に対する態度は、民を含めて国全体に利を齎すためにあるべきで、形式的なものではなく飽くまでも実践的であるべきとしているのではないのだろうかということ。礼というものに対しては、経書に基づかない彼女なりの解釈があるということ。そしてまだよくわからない事も多くあった。紅珠はおずおずとした様子で「公ともあれば、政庁に籠り切りだと思っておりましたが、朱公はそうでは無いご様子……」と麗月の背に問いかけた。「孤は既にこの世に対する役目を終えた人なのだ。隴という国はもはや孤おらずとも成り立ってゆく、小鮮を烹るまでもない、だからこそ思帝は孤に翼鬼公という諡を与えたのだ。聖人でなければ太平の世を作り上げることは出来ない、と論ずる者もいるが、一方で、聖人でなくても数世代にわたり問題を起こすことなく業を継いでいくことが出来れば世に平穏を齎すことが出来るとする者もいる、孤は後者の方が正しいと考えている。それにしても未だにこの国の者たちは孤をこき使おうとしてくるがな」と麗月が漏らしながら笑っているのが見えた。このとき麗月が認めていたのは飛の公孫封への停戦の申し入れであった、曰く、「公孫丞相の先祖である公孫竺は、烈王に死後を託されながら、才あれど扱いきれぬ者はこれを除き器の小さい所を見せ、勝算の無い戦を続け民を疲弊させました。結局、開昌郡を落とすこともできず、陶を奪われて失意のまま斃れました。北伐を続けた公孫竺でしたが、幾度も孤はこれを討ち、何度も瑜への帰順を求めましたがその大義を理解していただけなかったようです、そう、孤も従軍していた陶州の戦いで敗れて、心を病ましめて薨れるその時まで。先王への義理を立てることに執心し、大局を見ることをせず戦いを続けたことは逆に不義理と呼べるでしょう、何しろ飛の地を不義理な手段を以てして手に入れたものであるにも拘わらず、更にその民を苦しめてまで北伐を続けて良いものだったのでしょうか。かの者の死後、弾圧されていた飛の民や兵が多く瑜国に流れてまいりました、これを見て強く心を痛めたことを今でもよく覚えています。公孫丞相に於かれましては、その優れた才気を褒め称える声は隴の国にも届いておりますし、民を救わんと立ち上がった事は大義と呼べるでしょう、その行いは抗を討った虞の武王に比します。そんな公孫丞相は、民を思い遣る気持ちを忘れ、亡国の一公主を討たんと無理をして隴に攻めることが如何に無駄な事か、それを分かっておいででしょう。霍紅珠は、鍾陰の地を気に入っており飛に戻ろうなどとは微塵も思っておりませぬ故、公孫丞相の身を脅かすこともありません。何しろ女人であり霍氏を継ぐ子を為す事などできないのですし、霍の文王のように十九年後に公を追い払う事もないでしょう。古の兵書曰く、人を殺して人を安んずれば之を殺すは可なり、其の国を攻めて其の民を愛せば之を攻むるは可なり、戦を以てして戦を止むれば戦と雖も可なり、と。しかし、此度の戦はこのうちの何れにも当たらないでしょう。賢明な公孫丞相に於かれましては、何卒、矛をお収め頂けますようよろしくお願いします」と。

この書簡は隴の政庁に届けられたのち、正式に飛へと送られた。二週が経った後に、返事代わりに送られてきたのは寿丘から海沿いを抜けて鍾陽へ至る要衝の地である隋津へと向かう軍勢であった。政庁に呼び出された麗月は座する暇もなく各府の長から声を浴びせられる。「先に派遣した四軍に加え、鍾陰から隴山兵を中心とした一軍も更に派遣しました。そして、朱公にも出陣していただきたく……」との蔡司馬からの報告に麗月は「あいわかった」と素直に答える。司農である伊休はそれに続いて「そもそも、韓全土の凶作がこの戦の原因であり、当然我が隴の国も昨年は不作、今年も秋の収穫は今の所の作物の状況を見ておりますと今年もそれが続くかと思われます。もちろん、貯め込んでいたいた食糧を民に少しずつ解放しつつ、法に基づいて様々なやりくりをしておりますが、十軍近くを動かし、また華底関で捕虜を多くとった都合上、食料の支出はこれまででは考えられぬほど膨らんでおります。詳細は書で渡しますが、休としては減酒令の発令を許可していただきたいと思っております」と、暗い面持ちで麗月に言う。「ふむ……、仕方あるまいな。孤は熟成した白酒を好むからそれの値が何年も後に上がるだろうな、まぁそれはよい」と素直に伊司農の提言を承諾する。民が好んで飲むのはおよそ濁った酒であるが、富貴な者たちは金属加工に優れた隴ならではの蒸留した白酒を好んで飲む、さらに麗月はこれを樫の樽で寝かせたものを好んでいる。完全に禁酒にすることはこれまでの歴史でよく見られたが、往々にして誰もが密造をするため隴の国では代わりに減産を命じる令が、不作が続けば出されることとなっている。「兼ねてより朝廷に使いを出しておりましたが、天子はこの事態を憂慮しているとの事で、調停の使者を出してくるのは間違いないでしょう。しかし、それがいつになることやら……。また瑜に出した使者は、軍勢を国境にある程度集結させ飛に牽制を行うという約束を取り付けてまいりました。冬頃になれば飛の乱に端を発した一件は纏まるでしょうが……それでも二度目の会戦を避けられなかったのは悲しい事ですな」と、司馬司間は半ば麗月を揶揄うようにそう報告する。「孤の書簡は実に理に適ったものだと思っていたが……」と少し悔しそうな表情を彼女が見せていると禁は続けて「公孫竺は凡そどの国でも名宰相として見られています、その名を少々毀損するかのような文章を書いたら公孫封が怒るのは当然でしょうな。器が小さい、これは朱公の考え方が多少間違っておりましょう、確かに公孫竺は涼の名宰相曹策のように霍治の養子および政敵を粛清しほぼ王権を簒奪しておりましたが、粛清された者たちは野心を滾らせておりまたどれも徳性を修めていなかったとされています」「孤もそう史書に記されておるな」「はは、それ以前に霍治は人心を掴む奇才であったというだけでしょう、それこそ武王の様に才を尊んでいたというだけです、そうして素行の悪いものですら扱えるのは国君としての器を持つ者のみ。それにあの北伐は徳教の観点から見れば同情されるものです、むしろ被害を最小限にとどめつつ面目だけは保って細々と続けられたのはあの者の鬼才によるものでしょう、もし公孫竺が瑜の臣であったなら重要な郡の太守となりその手堅さと経世済民を絶賛されていたでしょう、惜しむらくは彼は国君たり得なかったということ、それなのに全権を委任された丞相となってしまった……。そう言えば、朱公は過去に同じように諸臣と連名で飛に勧告を送ったことがありましたな。瑜の国の優れた士は武王がそうであったように物の理と実益を大事にする才士が多かったためその書の内容は筋が通ったものだったのでしょう、しかし、人に訴えかけるのはそれではうまくいきません。そう言った理詰めの文章で相手を説得しようとするなら、まず今の隴の国の様に何年にもわたって民を教化せねばなりませんからな、もちろん公孫竺は理知的なお方だったようなのでその勧告に心を動かされてはいたでしょうが、それを周りが許さなかったのでしょう。と、まぁあのような書面では公孫封は矛を収めないでしょうな」と禁がつらつらと言うと麗月は多少不機嫌そうな顔をして「そこまでいうならば卿が書いたら良かったのに、卿は孤が書いたものをそのまま届けさせたというではないか」と言う。「禁としては、結局のところ隴からの呼び掛けて公孫封が止まるとは思っておりませんでしたから、それならば朱公の文章を彼の者に読んでいただこうと思いましてな」と禁が笑うと、「卿も徳性を修めておらぬようだな、まぁよい、朝廷および瑜との折衝、ご苦労であった」と麗月は同じく笑って見せ、「孤は蔡司馬の提案通り隋津へと向かう、留守を頼むぞ」と言って政庁を後にした。

隋津は山と海に挟まれた要衝の地で、海に張り出したそこには飛の国の関所が置かれていた。飛の軍勢はそこを少し超えて軍を進めて陣を張っていた。その先は二十里ほど少し開けており、それが過ぎると隋水という川があり、それを渡れば鍾陽郡のうち栄えた部分の地となりその郡都は目と鼻の先と言ったところである。隴軍は隋水を越えて布陣しおり、ごく狭い間で両軍の睨みあいが続いている中、麗月は黒龍衛を引きつれてこの地に入った。敵の攻勢はそれほど苛烈でもなく、こちらの様子を探るように散発的に騎兵が弓を浴びせに来る程度だという。麗月が本陣に向かうと多くの将軍たちは不在であったが、懐かしい顔が見えたので彼女は柄にもなく喜んでその女に駆け寄った。麗月のように美しい黒髪で容貌は短小、手足や腰つきは柳のごとくしなやかで細く、しかしながら乳頭は大きくその周りは四尺を少し超えるくらいだろうか。肌は雪のように白く、斜めに切りそろえられた前髪から覗くその眸は鋭く切りひらかれていているが、その端は垂れ下がっていてどこか憂鬱に感じさせる。顔の造形は非業の死を遂げた麗人を描いた図画のようであるが痴人のようにその表情が変えぬまま、その姿に似合わぬ巨大な方錘戟を地に刺したそれに凭れかかり書を読む彼女の名は荀令、字は瓏華。「久しぶりね紅龍、いつも会いたいと思っていたわ」と彼女は眉一つ動かさずに早口でそういうから、「そう言うわりには瓏華は何年も孤に会いに来ようとしないではないか、前に会ったのは何年前の事だ?」と麗月が咎めると「毎日、君に会いたいと思っているのだけど、書を読んだり、筆を取って何かを書くと、紅龍の家は遠いから書簡で良いかとなってしまうの」とそれを詫びた。令はもともと寧原郡の人で、父は荀沢という高名な学者で徳教の経書ではなく諸子の注解を多く記し門下生も多かった。令は幼い頃より書に親しみ父の蔵書を読み、また議論をしていたという。才気に溢れ、また鬼術を用いる才もただの鬼士を過ぎたものであったのもあり武芸にも優れていた彼女に父は家を継ぐ男子に恵まれなかったにも関わらず「嫁に行かず、望むまま学門を続けるべきだ。沢はこの世では高名な学者となる事が出来たが、阿令の才は超世のものである」と彼女の事を誇っていたという。後に紅の壮王となる程会が寧原にやってくると彼女を取り立てて郡の記録係とした。才気渙発でありながら献策したりすることによって名を上げることには興味を示さなかったが、任地で賊の反乱が起こると太守と共にこれの鎮圧にあたりその武勇と知を程会の勢力内に知らしめた。そのため、軍の参謀としても重用されるようになり、紅と董の平定や、杜丘侵攻で更に功をあげた。しかしながら、声は小さくそれを聞いていると気が小さいように思える彼女であるが一切妥協を知らず議論や意見を求められた際には直言を多く言い、人を怒らせてばかりだったので、一時期は東の端である湖安に左遷させれていた。隴南の返還に応じない飛軍を攻める際に再び呼び出されるが、ここでも軍神と謳われ人々の尊敬を集めていた衛晃を討ち取り、呉章と鍾陽の二郡の奪取に貢献した。ただ、この戦のあとも程会との議論で不興を買い、阿世羅尉との国境である蘭京郡に左遷された。従軍していないときは様々な書に註解をし、また辺境に左遷された後は自分でも多くの算術書や、天地の理について論じた様々な書、それから戦役註解という兵書を記した。三国春秋の著者、顧盛は評の中で「荀令は目立とうとしなかったが政や軍事において与えられた事を一度の失策も無くこなした。ただその本質は隠者であり、辺境の地にいた時の業のほうが寧ろ不朽のものとなるのではないだろうか」としていた。ある種、似た者同士である麗月と令が仲良くなるのは当然の事とも言え、瑜と紅という敵対する陣営にいたにもかかわらず彼女らはその当時から文通をしており、三国の戦乱が落ち着いてからは、令は隴に来て麗月と起臥を共にし、彼女が国の礎を為すのを大いに助けた。ただ、賑やかさを好まない令はすぐに鍾陰を離れ盧湖の対岸の華山の麓の小さな県に移り住んだ。そんな彼女は「そうね、じゃあこれが終わったら紅龍の家に移ろうかしら。ただこの戦は中々に長引くかもしれないわ」と言うと、麗月の手を引いて幕舎の外に出た。

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