朱公
翌日、霍紅珠は酷く困憊していたためか図らずも目を覚ましたのが昼近くであった。旅館の下女が言うには関を管理している王放という人物が面会を求めていると言う事を聞き、身だしなみを整えて旅館の外へと出た。そこには甲を帯び戟を手にした兵が並んでおり、その中心には立派な甲を身に着けた男が立っていた。「華底尉の王放です。失礼ながら君は飛国から身一つでこちらに来られたようですが、隴にどのような御用があるのでしょうか」と、放は紅珠に問いかけた。兵を連れて仰々しくやってきた割には優しい口調の問いかけで紅珠は安心しきり、その身に起こった事を素直に話す。荒れた様子のある国であれば警戒をしただろうが、国の端にある旅館でさえよく整っていて食事も豊かであったから国境の尉であろうと職務を淡々とこなし、自身を捕縛し飛に売り払い金を得るような不正はしないだろうと踏んだのである。「吾は霍紅珠と申します。つい先日までは飛の王であった霍立の娘です。出来れば、朱公に会わせていただきたく思っております」と紅珠は公主であることを示す翡翠の印綬を見せて言うと、放は少し思案した後に、「それは……御痛ましい事で……。いずれにせよ、末将には判断できぬ事柄故に二日ほどこの旅館でお待ちいただけますでしょうか」と言うと、紅珠に、紙に印を押させて使者に渡した。馬が走り去ったのを見て、紅珠は旅館の中へと戻る。屋内に入る前に自分の背に一度目を遣ると、どうやら数人の兵がこの旅館を見張っている様であった。
紅珠が食事をとって暫くすると一人の簪を差す前の少女が面会に現れる。曰く、「華底尉の娘、王阿嬌と申します。父があなたの事を弓馬に親しみ書物をよく読んだと噂されているとおっしゃっていました。よろしければ、書について教えていただけないでしょうか」と。放が自分が暇をするだろうと慮ってくれたのだろうと紅珠は素直に心の中で感謝し、彼女を部屋に招き入れた。彼女が両の腕で抱えて持って来たのは三国春秋、全土に広がった黒清衆の乱の後に群雄の割拠を経て韓帝の許に三王国が並び立つようになるまでを記した史書である、韓始四百八十六年に完成したとされており、今日ではこれを基にした講談があるくらいである。簡素で良く纏まっている一方、真偽が怪しい資料を省いてあり、また戦役を例にすれば其々の人物の伝で異なった視点、細度で書かれており、これを読み解き流れを追いその裏の意図やその結末に至った理由を論じるには多くの労力が必要となる書である。
紅珠は阿嬌が興味を持った事柄について、様々な伝を具に二人で読み、如何にしてその戦の勝敗が決したのか、君主の政がその勢力にどう影響したのかを議論した。なし崩し的に選ばれた隴の祖である朱麗月の話になると二人の議論に熱が籠りはじめる。「確かに、打つ手全てにおいて失策が無いのは間違いないでしょう。隴に入ってから、これまでの国とは異なる制度、つまり公が絶対的な権力を持たないとしたのがうまくいっているのは、細やかに作られた分厚い法に依るものなのでしょう。かつて肥沃で戸数も多い韓と霍東を手中にし、一時は中原の覇者と呼ぶにふさわしい勢力を築き上げた沮圭ですが、勢力内で瑜汝国閥と韓国閥がそれぞれ大きな力を持ち、これを恐れて幾度も家臣を誅したためその勢いを削ぎ、瑜の武王に敗れることになりました、狡兎が未だ死に絶える前に良狗を煮てしまったのです。やるべきでない事については果断、しかし肝要な所を曖昧にする、これを以てして好謀無決とされているのです。隴国ではこうした派閥同士の争いを御すために、県を代表する者を決めて評定をする形にし、どの役職においても法に基づき同郡のものが固まり過ぎないようにしたこと、過去を省みて苦心していることが分かります、それに加え民草にも学問を奨励していることが功を奏しているのでしょう。その人柄がどうであれ、希代の傑物であることは間違いないでしょう。仁知勇を合わせ持てば人に慕われますが、美知勇でもそうなのでしょう、例えば砂漠を駆けて沙羅尼を討った甘去病の様に。それにしても……」と紅珠は飛王に列なるものであっても公平にそう評したがいくらかの疑問が声に出る。「それにしても……?」と阿嬌が問うと「彼女は幾人かの伝を合わせて作り上げられた偶像なのではないのでしょうか。朱公は瑜の武王に仕える前は捨てられた少女達を集めて学問や武術を教えていたとあります。また、その人柄もある時は自分の策が認められなければ病を偽り出陣を拒み、ある時は余りにも危険な戦場に寡兵で挑む、偏狭で傲慢な発言で人を怒らせる一方で、人の仲を取り持ったり朋友も多い、そしていつまでも少女の姿のまま変わらなかった。これらを考えると……」と紅珠はその疑問を確かなものとして口にした。「阿嬌の母は黒龍衛でした。隴では鬼相を持ち兵役についている鬼士のうち優れた武を持つ男子を白龍士と呼び、精鋭の隊としています。女人は兵役にはつきませんが、鬼相を持ち、志願するものであれば黒龍衛という朱公の直属となります。その姿、嫋やかで腰は絹糸を束ねたように細く艶やか、黒髪は美しく輝き、眸は星の如く輝いていたと言います。またこの世のものではない様に煌びやかな服を纏い、その布地は少なく、白い肌を晒していたと言います。その膂力は天人のようであり、それに従って大言壮語を好むも、その論理は緻密、さらに皆の事を善く慮ってくれ、昔の瑜の人物のことを細かく記憶していてそれを話し楽しませてくれていたと言います。これらは当に書に残された、幾人かを合わせたと霍君が仰られたような人物ではないでしょうか」と阿嬌は誇らしげに言ったがそれに対して紅珠は「まさか」と言葉を濁すだけだった。翼鬼公朱麗月の生涯はその始めと終わりが史書には凡そ書かれていない。士大夫の家の生まれでないためその始めについて記されていないのは仕方ないにしてもその終わりについては、隴公となった後に幾年か掛けて国の礎を築いた後に政廟から去った、翼鬼公と諡された、と書かれているだけなのである。列伝の事績から鑑みるに、この時には既に齢七十は優に過ぎているだろう。紅珠には阿嬌の母が朱麗月に会ったことがあるというその言を信じることはできなかった。
二日に渡って王放の娘と論議を交わし、隴に入って三日目の朝、紅珠の許に再び放は訪れた。曰く「霍君を鍾陰に送る様に、と朱公が仰せになられました」と。紅珠は馬車に乗せられ鍾陰へと向かう事になる。その距離は三百里余り、二日の旅であった。道すがらに見る隴の地、田畑は整えられ収穫の日を待つ青い作物が光を浴びて輝いていた。険しい山々には樹木が聚生し、繁茂した草は大地の色を隠している。天から降る雨を集め、山から流れる川はうねり、清らかな水で石を削る。農民は皆血色が良く活気に溢れ、子供たちは各地に立てられた庵で学問を学んでいるようだ。山に囲まれた大きな湖である盧湖には漁船が忙しなく行き来し、風が音楽を奏でれば漣が湖面を揺らした。何もかもが荒れ果ててしまった自らの故郷と異なっていた。紅珠が鍾陰にたどり着いたのは夜であった。幅が七里ほどある城壁がこちらを静かに見下ろしており、その門のいくつかには夜であっても明かりが灯っており、そこから城内に入ることが出来た。
彼女はそれほど大きくはない邸宅の前で降ろされる。御者がその門を守る少女に―――その細い身体に見合わない鉄でできた大きな鉞戟を携え、眉の上で髪を切りそろえている―――何かを伝えると、邸宅の中へと通される、これが黒龍衛であろうか。風に乗って玉のように響く瑟の音、それと共に細くも芯のある声で奏でられる詩が聞こえる。少女に連れられて廊下を歩いていくたびにその詩ははっきりと聞こえるようになり、その音の麗しさに紅珠は思わず震える。金の細工で良く飾られた扉の前に立つと、少女はそれを指差し、去っていった。紅珠は恐る恐るそれを開けるとまず華やかな香の匂いがその鼻に雪崩れ込む。その部屋の奥には一人の少女が七尺ほどの豪華な彫刻が施された抜き身の環首刀を背に瑟に指を置いて座っていた。艶やかな黒い髪は床に真っすぐに落ちそして広がり、幼い少女のように真っすぐに切りそろえられた前髪から覗く切れ長の大きな眸の縁は朱に塗られ、その中の瞳は紅く、妖しく輝いていた。豪奢な刺繍が為された襦袢は崩して着られ、晒された青白い肌が炎に照らされていた。絵画の中から歩み出でたかのようなその身体は極めて細くまた容貌も短小であったが、紅珠にはそれが偉丈夫よりも大きく見えた。彼女の傍らには数人の歌伎が侍り、彼女たちもまた襦袢を着崩し白い肌を晒していた。歌伎の誰もが、黄金や翡翠の髪飾り、綴られた真珠、細やかに彫刻された金の耳飾りでその身体を輝かせていた。その内の一人が豊かな胸を晒し、寄せたところに玻璃の器から白酒を注ぎ、少女がそれを啜っている姿は紅珠に古の涼国の暴君抗王を思い起こさせた―――そして豹変してしまった父も。
「君が飛の公主か?」と、図画から出でた美しい少女が鈴のなるような声でそう紅珠に問いかける。彼女こそがあの翼鬼公朱麗月か、と狼狽えながらも気圧されず「霍立の娘の霍紅珠です」と紅珠は凛とした声でそう名乗った。「ほう?」と、麗月はその目で紅珠をまじまじと見つめる、顔、髪、肢体、その価値を算ずる様に。麗月は何処か得心したかのように頷くと、手招きをする。紅珠が背筋を伸ばして歩み寄ると、「孤が朱麗月だ」と彼女は不敵な笑みを浮かべてそう言った。「して、何用だろうか?」その答えなど分かりきっているかのように口角を上げながら麗月が問うと「飛の王が公孫封に討たれました、宜しければ紅珠をこの国に置いて頂けないでしょうか?」と何処か悔し気に応えた、その品性が劣ることは史書に残っていたがこれほどまでに暴君と呼ぶに相応しいものだとは思っていなかったからだ。「ほう、あの公孫竺の後がか。……良いだろう、孤の許に留まるのならばな」と、麗月は紅珠に近寄っていく。「しかしながら、君も知っているだろうが、隴の国は何処の国とも干戈を交えぬゆえ、君がもし父の仇を討とう等と思っているのならば此処を出て行ったほうが良い。思い起こしてみれば沈丘の後である沈卓が言っておったな、飢饉のときにもし父が不肖であればこれを捨てて友を助けたほうが良いと、それは君にも当てはまる様に思うが、どうだろうか」と紅珠を見上げながら彼女の顎を細い指で持ち上げてそう言う。「徳教の祖である沈子の後でありながら沈卓はそのような放言が極まったことが災いし武王に誅されました。公を見れば抗の乱もかくやとでも言うべきありますが……」と、天女の様に美しい彼女に絆されぬように目を逸らしながら紅珠はそう言う。「民を虐げれば逆に富は集まらず、国君が吝嗇であれば逆に民は富まず、賂が罷り通れば逆に臣は富まず。法に基づいて得た正しい富を使わぬのは国に害をなす、歌伎も民であり、その豪奢な衣服を作るのも民であり、酒を造ったのも民であり、穀物を作りこれを売るのも民であり、魚を取りこれを売るのも民である。それぞれが価値に対して正しく支払っているのであれば、それを乱と呼ぶことはできないだろう」と麗月は返した。しかしどこか興が醒めたのか、「長旅で疲れているだろう、君は何かを食べて、湯に浸かってくると良い。孤は部屋に戻る、この屋敷には余分な寝台はないから君も孤の部屋で寝るといい」と服を整え部屋を去っていった。
紅珠はどこか不安を覚えながらも言うとおりに食事をとり、身を清めた後に、麗月の寝所に向かった。暗いその部屋の中でも、壁に飾られた鉞戟―――即ち鉞と戟を合わせたものであり隴国の民が良く用いた得物と鬼彊―――即ち鬼士が用いる弩と同じ程度の数百斤で張った弓が月明かりの中で微かに煌き、机の上に多く散らかった並んだ竹簡や書物と共にまだ湿った墨が嫋やかに輝いている、今でも書や註を記しているのだろうか。既に麗月は寝台の上で丸くなり寝静まってしまったようで、それを起こさぬように紅珠は端にその身体を横たえた。その微かな動きでも麗月は気づいて目を覚ましてしまったようで、紅珠のほうに身体を寄せた。化粧を落としてしまうとそれは当に幼子のような顔立ちであり、紅珠はこれを邪険にできなかった。「そう言えば、君の字は何というのか?」と麗月が問うと、紅珠は飛の国の乱の中でそんなことをすっかりと忘れてしまっていた事に気づく。「それが……」と言い澱むと麗月はこう言った、翠蘭、と。麗月の史書に残された字である紅龍は如何も侠者らしいものであるが、そんな彼女が紅珠に与えた翠蘭とはなかなかに、どうしてか紅珠に良く似合っていた。
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