入隴

韓の内乱が終わり、瑜、紅、飛の三王国が帝室を支えるようになってから既に八十年の時が過ぎた。飛の国は韓の帝室に列なるとされる先主烈王霍治が打ち立てたものである。韓の帝室を奉戴した瑜の武王周雲の専制を憂慮しこれを討たんとした治はその地盤が整わず三国春秋時代の前半に各地を流転したが、同族であり飛州牧であった霍疑を攻め飛に入りその勢力を確かなものとした。飛の国の都、周中は四方を山に囲まれた地であるが、民は多く、土地は豊かでよく栄えていた。代々の王は先主がそうであったように義を重んじ、徳を以てこれを良く治めた。

今代の王、霍立も初めのころはそうであった。しかしながら初めの正室を早くに亡くし、側室だった費氏を正室としてから大きく変わってしまった。費一族は名宰相であった費厳の後であり国内で大きな権力を持っていた。費氏は美しい女であるが強欲で、霍立を惑わし、国を腐敗させた。倹約に励み、賞罰は適切で、徳を治め才のあるものを取り立てていた立であったが、今では賄賂が罷り通り、宦官と費一族の派閥争いで讒言による刑死は絶えず、民は疲弊していった。立はそれを尻目に酒色と女色に溺れていくのみだった。

先の正室、陰氏の子である霍紅珠は美しく聡明であった。書を良く読み、女でありながら弓馬に親しんだ。今年簪を差したばかりでありながら、心優しい彼女は豹変してしまった父を憂いていた。産みの母と代わって正妻となった費氏はある時、「阿紅珠が男子でなくて良かった」と漏らした。立と費氏の間にあった嫡男は愚かで我儘であり、学を修めようとしなかったからだ。紅珠が男子であったのならば立が斃れたら費氏の権力は小さくなってしまうだろう、それどころか粛清もあり得るだろう。彼女の言を流石の霍立も不快に思ったのか、これを諫めたため、紅珠は費氏に強く憎まれるようになった。彼女は身の危険を感じ、父である王と一切の言葉を交わさないようになり、都を離れ周中の東の端の山際にある別邸に籠り下女との撃剣の鍛錬や諸学に明け暮れるようになる。

次第に飛の各地で反乱が頻発するようになり、諸将はひっきりなしに兵を引き連れて国土を駆けまわった。紅珠の人柄は知れ渡っており、幾度も彼女の家に民が嘆願に来たが、当の紅珠はそれと面会することは無かった。費氏に憎まれている自身が、民と密談などすれば叛意ありと死を賜ることが確実であったからだ。民を追い返すたびに自身を不甲斐なく思いすすり泣く彼女の声は下女たちにも伝わり、皆思わず涙した。しかしながら門の内を知らぬ民は大いに失望するのであった。

韓始五百二十二年夏、統率の取れてなかった民の反乱は、国を覆すまで大きく燃え広がることになる。初代丞相である公孫竺の後であり、慈悲深い性格で民から慕われていた将軍公孫封が王室に反旗を翻したからだ。竺が滅私し王室を支えていたように、封は清貧な人柄で、民の願いをよく聞き、貧民があれば私財を分け与え、治水工事にも自ら参加し土嚢を抱えて運ぶほどだった。そんな彼が腐敗した王室を除かなければならないと決意するのは必然だった。

「先主は我が祖先である公孫竺に、倅に力なく暗愚であればこれを斬り、あなたが王になり変わって欲しいと言った。悲しいことにその時が来てしまった」と、民のために立ち上がった封は涙ながらに宣言し、国中の誰もがそれに従った。寿丘で彼が立ち上がった時は、王軍より寡兵であったが、意気軒高な封の軍が王軍を蹴散らして周中にたどり着くころにはその軍勢が十倍に膨れ上がっていたという。王都を陥落させた彼らは霍立と費氏を捕え、三族に渡り誅し市中にその首を晒した。都を離れていた紅珠の許にも軍勢は襲来し、それを見た紅珠はこれも定めであると自刎しようとしたが、彼女を慕う下女たちはこれを止めて裏口から逃がした。「紅珠はここにいない」と言い張る下女たちに、封の兵たちはその大義を汚さぬために彼女たちを殺して邸宅に打ちいる事はせず、僅かな見張りをつけて踵を返していった。

「隴に向かうと良いでしょう、あの国は何処に対しても中立を保っていますから」という下女の言葉を頼りに、日が暮れ始めているにも関わらず彼女は質素な衣服に身を包み一振りの刀といくらかの糧食だけを持ち馬を東に走らせる、隴の国に入るまでは六百里ほどあり、隴公に頼るために都に行くとすれば千里近くあるのだが彼女にはそうする他なかった。微かな月明かりだけを頼りに周中から寿丘に抜ける道を進む。大きな会戦があったそこには未だに兵たちの死体が野ざらしにされていたが、馬を止めてそれぞれを葬る事など到底できなかった。その死体の数は夥しく多く、また自身を探す軍勢に見つかるかもしれないから。

三日かけてようやく飛東の寿丘までたどり着いた紅珠が目にしたのは困窮した民であった。父の失政を知ってはいたが、多くの痩せこけた民が横たわりその周りに蠅が集っているのを見ると、もし父に対して費氏と親しんではならないと諫言していたのならばこのような惨禍を避けることができたのではないか、と心の内で嘆いた。何しろ、母は費氏が危険な人物であるとよく言っていたからだ。しかしながら当時の自分では費氏がここまで国を傾けると予想できなかっただろう、と自らの至らなさを嘆いた。女人であっても、例えば瑜の武王のもとでその才を如何なく発揮した翼鬼公朱麗月や、先主の義弟である壮候衛晃を討った飛の怨敵である紅の鬼才荀令のような女傑は居た―――最も彼女らはどちらも偏狭でその才を鼻にかけ高慢であったと史書に記されており憧れるなどはしなかったのだが。事に口を挟む力を持たぬ女人に生まれたのが悪いのではなくただ自分の才がそれらに至らなかっただけなのである。今は唯、生き延びて、少なくとも自分で自分を恥じるような生き方をしない、そう決意するだけである。しかしながら、たった一人でのまともに眠れぬ野宿に、乾いた糧食ばかりで彼女の精魂はつきかけていた。まるであの困窮した民達のようだと心の中で自虐はすれでもそれで笑う元気すらなかった。ただ弓馬に親しみ狩りを嗜んだ経験だけは確かに彼女を支えていた。

寿丘から隴に至るには二つの道がある。海沿いに鍾陽に向かうか、華底関を抜けて鍾陰に入るか、である。前者は飛国に属する関がある為これを通ることは難しい、韓で最も高い華山の麓にある華底関は隴国のものであるので符を見せさえすれば通してもらえるだろう、例え太腿が痛むほど馬に乗り続けていて、そしてこの先さらに険しい道を進むことになるとしても、そうするのしかないのだから。郊外で焚火を前に野宿をしていた彼女は空が白むのを見て再び馬に乗る。既に周中から下って来た時とは反対に、渓谷を登っていく詰屈した道に差し掛かっていて、それは天まで続く道の様にも感じた。聚生する木々は寿丘では望むことが出来た巍巍たる華山は隠れてしまっている。下草は豊かに茂り、時折風に吹かれて音を立てる。紅珠は嫌な予感がした、猛獣だろうか、草木を揺らす音がこちらに近付いてきているのを感じて彼女は刀を抜いた。果たして、彼女が見たのは戟を持ち武装した兵だった。しかしながらその甲はみすぼらしく、ぎらぎらとした欲に塗れ卑しく光るのを見て、それは追っ手ではなく逃げた兵が賊と成り果てているもののように思えた。「馬を降りろ、身に着けているものを全てこちらに差し出せ。その服もだ」と、彼はこちらに戟の先を突き付けて言う。既に四方を囲まれており逃げ出すことは叶わない。統率の取れていない反乱軍ともなれば、このように一部が略奪に走るのは必然の事であり、これまでの道でこのような輩に遭遇しなかっただけ紅珠の運は良かったほうである。彼女は刀を手放す事をしなかった、刀と馬、そして糧食を奪われ、衣服を奪われ、犯される、そのようなことになればこのような山の中から帰る事など敵わないだろう。自らを取り囲む幾本かの戟を見ればそれは良く拵えられたものではなく、そこらにある棒に先を取り付けたのみの様に見えた。戦場では馬を止めるために戟を突き出すものだが、彼らは金になる馬を傷つけ殺さないようにするために彼女に密着しているのだ。「邪魔だ!」と彼女は叫ぶと、戟のうちの一つを左の手で掴み、右の手で持った刀を何度も振るう、その風を切る音が聞こえるたびに戟の柄が打ち切られ、穂先が地面に落ちる。賊は尚もその棒を持って彼女を打ち伏せんとする、紅珠は太腿に力を籠め手綱を強く握り、一人の喉元に向かって身を乗り出して刀を突き出す。血が吹き上がる中で、他方から振り下ろされた棒を払いそちらに、それを放った賊の首を薙ぎ払う。確かな鍛錬の賜物である古の猛将のような立ち回りに残りの賊は腰を抜かし、後ずさった。彼女はその姿に目を遣る事もせず、馬の腹を蹴り過ぎ去っていった。

幾度かの休憩を挟むたびに、空気が冷えてきているのを確かに感じてきた。もうどれほど登ったのだろうか、坂を上っていくたびにねじ曲がって豊かに葉を湛えていた木々は真っすぐなものへと変わってきており、蕭瑟たる林の隙間からは澄み渡った空気越しに幾つかの県の城が見えた。もう二度と西にある故郷に帰る事など無いのだろう、思う事は多くても、帰ることは叶わないのだから。この双眸が捉える山の形、賊の襲撃があった鬱蒼と茂った木々を抜けてから山の腹を斜めに上る詰屈の無い道をずいぶんと歩き、幾分緩やかになってきた坂から思うにもう関はすぐそこなのだろう、どこか開けてきた眺望と合わさって、怫鬱としていた彼女の心は久しぶりに少しだけ晴れやかになった。やがて彼女は関を越え、その少しばかり先の少し開けた地にある旅館に入り久しぶりに寛ぐことが出来た。十分な食事は彼女の身体を満たし、暖かい湯つかり身体の汚れを落とすと疲労で強張った身体がほぐれた。こうして身体の安寧をあることが出来て初めて何かを思うことができるのである、寝台で横になった彼女は故郷を去る寂寥の念と、父と費氏のせいで乱れた事への自責の念、そして唯の簪を差したばかりの公主ではそれに対して何もできることがなかったという自身の不甲斐なさへの嘆きが去来し、涙した。しかしながら長旅の疲労は紅珠を安らかな眠りへと誘った。

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