呉水

翌日、朱麗月と荀令は霍紅珠が御する車に乗り政庁へと向かった。既に広間には各府の長とその副官たちが集まっていた。麗月が奥の豪奢な椅子に腰かけ、その横に令が立つと早速司馬禁が口を開く。「禁から提案があります、東方の夷狄の侵攻は激しく、既に董の全郡が陥落している様です。つきましては呉水の西岸の民を移住させ、そこに防衛線を築くべきでしょう」と彼が言うと諸臣は騒然としたが、司徒である諸葛済は「司馬司間の言は尤もです。朱公は隴の各県を回られていたようですが、その際にお気づきなのではないでしょうか。紅国からの流民が多いのです、杜丞相と相談の上、住居と食の当面の保証をし住まわせて開墾や治水などの労役に就かせています。呉章郡の東部の民の移住も滞りなく行えるかと」と麗月の顔をしっかりと見てそう言った。司農の伊休は「例年のような収穫であれば多少の流民は受け容れられますが、昨年や今年の様に来年も寒ければ飢える者が出るやもしれませんな。民は麦や米ではない不味い作物を植えるのは嫌がるでしょうが、蕎麦、黒麦、そして芋などを増やさせるしかないでしょうな。豆も北方や東域のものを増産させましょう。早めの提案であった故、農府のほうで対応できるでしょう。休は反対致しません」と拱手した。「卿はどう思う?」と麗月は司馬である蔡朗の方を見る。「無論、兵や将の配置の転換と防備の強化、そして民が移住した後の軍屯については恙無く行えるでしょう」と朗は髯を撫でながらそう言い、更に「ただ二年で亜国を陥とし董までも入り込んで来た沙国の軍と相対するには我が隴国の軍勢では長くは持たないでしょう。瑜は汝州の延江で同じく沙国と対峙する事になるでしょうから、連携を取りたいと思います、ただそれ以上に帝の詔による四国の連合軍の結成からの反攻を行わなければ情勢は悪くなり続けるだけでしょう。それについては如何なされるおつもりか?」と続けた。「帝への上奏文は今書いている所です、ただそれが功を奏するかは分かりませんな。紅が隴や瑜に救援を求めていない不自然さ、引っかかるところです。詔勅となれば、連合軍が紅や董まで兵を進める事は可能でしょうが、しかし瑜や飛は動くでしょうか。これも分かりません」と禁は柄にもなく暗い面持ちでそう言った。「賞無ければ将行かず、か。韓朝とは名ばかりで朝廷は瑜国の財で保たれている。敵を知らず、賞の有無も分からず、到底士気など上がるまい。例えば、亜国まで夷狄を追い返したとしたら瑜国はある程度意見を通せる立場にある、が隴や飛は連合軍に参加したところで兵を損ねるだけかもしれぬ、それが国の平穏を守ることに繋がると分かっていても難しいものだ」と麗月は溜息をつき令の方をちらりと見る。令は「朝廷への上奏だけでなく瑜にも根回しをするべきだわ。紅龍は瑜国の太祖と友であったし、大功もある。瑜の王族は紅龍の事を無下にはしづらいはず。ただ、紅龍が筆を降ろすと周一族に恩着せがましい文章になるかもしれないから間府の面々で考えたほうが良いでしょうね」と禁の方を見て静かにそう言った。それに対して静かに頷いた麗月は「宜しい、呉水に防衛線を構築しろ。民については諸卿の働きに委ねる、司馬司間は上奏文だけでなく瑜国との折衝も頼むぞ」と言い立ち上がり「素直に話が纏まるということは国の危機であるということを意味する。……杜丞相よ、後はよろしく頼む、孤の判断を仰ぎたい時は頼ってくれ。蔡司馬も黒龍衛を動かす必要がある時は遠慮なく孤に伝えよ」とその場を後にした、諸臣は恭しく拱手して麗月と令の二人が歩み去っていくのを見送った。この日より隴の都である鍾陰の街中でも俄かに人々が何処か緊張した面持ちで忙しなく行き来するようになる。その様子を見て不思議に思った紅珠は「東域の情勢はそれほど悪いのでしょうか」と麗月に問うた。これに対して彼女は「戦は避けられんだろうな。霍君は黒龍衛として従軍できるほどの武はまだない。これまで通り御者としての仕事する傍ら、鍛錬と学問に励むと良い」と返すだけだった。この日以降、麗月は時折、令と武芸の鍛錬をしたり一人で酒と詩吟を楽しみはするものの、それらと食事以外の時間は机に向かい筆を走らせるようになった。令の許には頻繁に政庁からの迎えが現れるようになり、そうした日には夜まで彼女は帰ってくることはなかった。沙国の侵略軍に対する防衛の準備だけでなく、沙国軍の装備や練度、そしてそれに打ち勝つための戦術の議論、連合軍の結成から反攻があった場合に起こりうる事の議論、陥落させた後方を治め兵站を支えるための人選、異国への遠征では逃れられない疫病の対策、こうした算を尽くしておくことが勝ちを得ることに繋がるから。兵は凶事である、そして既に韓の国土を荒らされているということは既に後手に回っているということであり、最上の勝ちを得ることが出来ない事を意味する、それでも隴国の知を集め次善を目指さなければならない。

韓始五百二十三年春、遂に沙国の軍勢が呉水の東岸に現われた。前線にはすぐさま十軍が集結し、また麗月と令は黒龍衛を連れてすぐさま戦場へと向かった。兵たちの意気は軒高で、幾つもの陣が呉水の東岸に並び萬旗が海風に靡いていた。麗月と令は呉水の陣に着くと早速車に乗り呉水の畔の高台へと向かい敵の軍勢を見た。呉章郡は山と海に挟まれてはいるものの開けた地ではある。しかし呉水は短く急流であり対岸の紅国の領土はなだらかであるが隴国側は起伏が激しい。彼女たちの立っているこの高台は止蛟石と呼ばれる名勝であり、その石の背まではなだらかなもののそこから川にかけては急斜面となっている。「十五軍と言ったところか、我が方よりも多いな。だが一部を除けば装備は整っていない、戦地で徴用した兵だろうか」と麗月は冷静に全体を見ながらもこれまで見たことの無い異国の者たちと思われる二軍に目を遣った。顔に黒く薄い布を巻いていることは共通しているが、兜や甲はそれぞれ異なった意匠であった、しかしどれもよく手入れされているのか燦爛としておりそれが精鋭の軍であることがはっきりと分かった。槍、先の反った矛、短弓、時折弩を抱えてるものや大きく曲がった刀を提げた兵も見られる。「不死軍と呼ばれる沙国の精鋭兵よ。東方の其々違う部族から集まった精鋭兵一万の軍勢。妾が訳した東域の書に依れば、幾ら倒しても湧いてくるという話で知られている。武帝の時代の遠征の記録に依れば、実際には後方から継ぎ足す形で一万の精鋭を維持しているらしいけど。あの曲がった刀、新月刀は沙国の更に東部の鉄でできた名刀。石を容易く切るとは言われているけれど妾が蘭京にいた頃、商人から買ったことがあるけどそんなことはなかったわ、ただ確かによく切れる」と方錘戟を支えにして身体を揺らしながらぼそぼそと早口で喋る令を面白く思ったのか、麗月は少し笑みを浮かべた。「それにしてもあの矛、鉈を先に付けたような形をしておるな、扱いは難しいだろうが切れ味は恐ろしいだろう」とさらに観察を続けていた麗月に「鉈は説文解字では短矛とされていたからなんというか……」と令は言葉を返し、それに伴い僅かながら笑みを浮かべたように見えた。暫くの間、二人は語り合ったが、麗月は「よし、諸将をこの地に集めよ!」と御者に告げた。

衛将軍周真、白龍士を率いる郭昭将軍、精鋭である隴山兵を率いる龐琳将軍の三人は先の戦いにも動員されていたが、その他の将はここが初陣となるため何処か強張った表情をしていた。間府から参軍として何人か従軍しており、それらもまたこの場に集まり祭酒は司馬宮となっていた。「冬よりこの地までの兵站線を整えた故、二十石を費やし一石を得る、とまでは行かぬが早く終わらせたいところである。だが、相手の出方はさっぱり分からぬ」と麗月は諸将の顔を見た。「あの精鋭の二軍を打ち破れば踵を返すでしょうな。夷狄の侵攻の早さを見るに、戦わずして勝つ事多数は無論、矛を交えるとなればあれを先鋒にして敵軍の意気を挫き後から雑兵を送り込み勝敗を決してきたのでしょう。丘卑や可魏斗の倫は韓とも近いですからその鎮圧からは見ず知らずの夷狄の戦術を推しはかることはできませんが、史書に残る亜族や沙族との戦いを見るに古今東西の必勝の法というのはそれほど大きく変わるものではないでしょう」と、まず真が声をあげた。「ええ、善く戦う者はそうしているでしょう。ただ水を渡ってそれを成し遂げるのは難しい、だから彼らは今までこれを渡って来てはいない」とそれに続いて琳が言うと「作り上げましょう。あの精鋭兵、不死軍と呼ばれていましたか?それを釣り出し一気呵成に摧く場を」と宮が卓上の地図を指差した、その指が差している処は将が集っている奇岩、止蛟石であった。それを見て一人の将が微笑を浮かべ近寄った、彼に髯はなく、倡優のようでもあり、もっと言えば白粉を塗り眸の周りに朱を差していることから帝にその容貌を以てして寵愛される宦官のようですらあったが、背丈は八尺を優に超え黒い気を纏っているのが感じられる、つまりは確かな武人であるということだ。彼は宮と同じところを指差した、戦場においても三日のあいだ座に匂いを残すほどの香を纏うその振る舞いはどこか荀令を思わせた。「ここに餌を置くということですね、子は釣りをすれど網を撒かず」とその彼は言った、その際の明眸は鋭く煌き、どこか艶めかしかった。この魯璿という優れた容姿を持つ将軍は経書に明るく、楽と香を好んだ。その甲も燦爛とした綺羅びやかな装飾が為され彼の率いる弩兵の甲器もまた極めて精好だった。瑜国の五将軍に数えられる魯儁という将の後であり、その儁は降将ながらも変幻自在の戦術で少ない被害で相手を善く惑わし勝利を得続けること久しくその領邑は瑜の将軍たちの中でも五指に入るほどであった。本家筋ではない彼も裕福で、自分の兵のうち選りすぐりの弩兵には私財でその甲器を用意している。彼は矛や戟を得意としないが弓と双剣の扱いは人を抜きんでていた。「然り、この陣には今、魯将軍が屯されておりますがここに朱公と黒龍衛のみを置きましょう」と宮は同じ場所に指差す魯将軍には目も呉れずそう続けた。「今、璿の陣のある所まで水を渡り崖を登りやって来たとしたら、ちょうど一軍程度が水を渡り終えたくらいでしょうね。引き込んだところで隴山兵を水際にあて退路を断ち、取り残された一軍を伏兵で破るということですか、華麗な策です、もし醜い夷狄がこちらの思い通りに動くのであれば」と彼はその策で短期に勝敗が決する事を多少疑ってはいたが賛同の意を示した。「沙軍が攻勢にでなければこちらの被害は出ない、全面的に水を渡ってくるのならば元々魯将軍が高台から弩を射かけるはずであったところを黒龍衛に置き換えるだけ、多少の敵を抑えるのに苦戦するやもしれませんが大きくは変わらないでしょう」と真も宮の献策に同意を示した。「宜しい。三日後の新月だろうか、それよりも早く仕掛けてくるやもしれぬ。皆、気を抜くでないぞ!」と麗月が手を振りかざすと諸将は拱手した。

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