蒲萄酒
冬は十二月、失陥した紅の地を取り戻し隴へと戻った諸将の功を労うために鍾陰で宴が開かれた。まず第一にその功を讃えられたのは隴に留まり政務を行っていた面々と、遠征軍の兵糧の輸送や取り戻した紅の地で現地の者らと協力し治安維持や復興にあたっていた衛将軍周真であった。朱麗月曰く「韓の国士たちは神速を以て胡虜に犯された紅の地を取り戻した、この進軍を恙無く行えたのは兵糧の輸送を一切滞らせず、また後方の地で乱を起こさせなかった者たちの功が大きい。かつて、韓の高祖に仕えた王渙は手に矛を持たず筆を持った。隴韓の戦において前線の兵が飢えることが無かったのは国を治め民を安んじることに長け、更に戦に於いて足りぬものを誤りなく算じこれを適切に送った王渙の才に依るものであった。遂には至強であった岳覇を破ることができたのは王渙の功績が最も大きい、と高祖は異論は有れど功臣のなかで最も多い戸数を与えた。どうか卿らはその手に戟や矛を持たずにいたことを恥じないでほしい」と。それから麗月は、戦で功のあった者たちを次々に褒め称えていった、苦境に置かれても退かずに耐え勝機を齎した龐琳、敵兵を誘い出した先でその鍛え抜かれた弩兵を率いて良く統率された射撃で討ち破った魯璿、白龍騎士を率い機を見ては疾駆し赫赫たる戦果を挙げ続けた郭昭、それらだけでなく従軍した諸将全ての功を余すところなく挙げて金銀や絹を賞として与えた。荀令と霍紅珠もその中に列挙されていたが彼女らは褒賞を受け取らなかった、曰く、私事であるから、と。それから麗月は特に戦功があった者として司馬宮の名を挙げた。「この場にはおらぬが司馬伯台にも大きな功があった、太陵郡を奪還したときも、楚中郡を奪還した時も、趙丘にて沙軍の総大将である示武劉を斬った時も、彼の献策により我が方は勝利を得ることができた。孤の策は傷のある壁であるがこれを完璧とするのは司馬伯台の言であった」と、趙丘を奪還した際、病のために一足先に隴へと帰った宮の功を皆に伝えると、麗月の前に司馬宮その人が現れた。「身に余る光栄であります、朱公」と傅き拱手した宮に対して「休んで居らなくていいのか?」と麗月は驚いて言った。宮は気丈に振舞っていたがその頬はひどく痩せこけていた、しかし「薬が効いたのか歩けるようにもなりましたし、筆を執って嘉と議論することもできるようになりました。春のうちにも良くなるでしょう」と宮は言ったため麗月はこれ以上身体について問う事はしなかった。
宴の数日後、麗月の元に使者が現れた、曰く司馬宮が斃れたと。彼の葬儀には多くの者が参列した。国内の者だけでなく館昌公周嫣、陸然、呂茂、そして衛信など共に戦った者たちからも弔問の使者が訪れた。麗月は「孤は百年を越えて生き長く戦場に在った。先の戦に於いて困難に阻まれたときは司馬伯台と共に思惟してこれに向かいそしてこれを幾度も打ち破った。孤や瓏華の意を知るのは彼を於いて他にはなかった。彼は四十に満たずに斃れたが、それよりも長く共に戦ってきたかのように感じる、だからこそ孤の心は強く痛むのだ。病を恐れる者は多い、延江を越えた東では疫病が多く、人はみな、吾東方に行く、則ち生きて還らずと言ったものだ。国士というものは功を立てようと欲するあまり命数を削ってしまうのだ。孤は幾度も奇士が若くして倒れるのを見てきたがその痛ましさは猶、腸を断つほどだ」と宮の死に対してこう述懐した。宮は盧周侯に封ぜられた、これまでこの侯位の制度は隴国の法にあれど、これに封ぜられる者はいなかった。敬侯と諡され、長子がこれを継いだ。
戦の事後のことも落ち着いた五百二十四年春の夜のこと。麗月は邸の広間にて令と二人だけの宴を開いていた。令が鍾陰から盧湖挟んで向かいの山の麓の邸に籠り切りになり、そしてまだ紅珠や亜瑠和が邸に居なかった頃は麗月は毎日のように美しい歌伎を呼んでは左右に侍らせ酒を飲み歌い淫らな事をしたものだが、今となっては慎ましく令と二人でこうして静かに飲んでばかりだ。尤も、令の美しさは夜空の星々を稀にし美花を恥じらわせるほどのものだから麗月は何ら今を不満に思うことはなかった。紅国の諸郡を荒らし周った夷狄の軍勢を打ち払うために韓の遠征軍が興されたのは五百二十三年の春のことだったが、勝利を得て隴の国に麗月が帰ってくる頃には一年が過ぎていた。「蒲萄。夏の終わりから秋にかけて、まだ暑さも残りし頃、眠りから目を覚ますとまだ昨晩の酔いが残っている。露に覆われたその果実を食べれば、甘くともべたつかず、酸いがそれも厳しからず、冷ややかな味わいは美味でその滴る汁が酔いの辛さを除き、渇きを癒す。これを醸せば麹米よりも甘く、善く酔うが決して残らない。こうして語れば涎が喉を鳴らす、どうして蒲萄を食べずにいられるだろうか、他にも果物は沢山あるが、これに匹するものは有るだろうか」とふと麗月は令に対して語りかけた。蒲萄はもともと韓の地にはなく、東方との交易で齎されたものであった。四百余年前、武帝の代の大遠征によって東方への交易路が開拓され、それにより持ち込まれた蒲萄はその甘さを以てして多くの者を魅了し以後、韓の各地で育てられるようになった。「瑜の文王の言葉だったかしら」と令はこれに言葉を返し「そう言えば、紅龍はあの者と親しかったらしいわね」と続けると杯を満たす白酒を飲み干す。「孤はかつて、しばしば文王と蒲萄を摘まみて酒を飲みながら学問や詩について語らったものだ、懐かしいな」と麗月は百年ほど前のことを思い出し自らの杯に蒲萄酒を注ぐ。瑜の文王、周霖は学問の才を持ち、詩歌に親しみ、筆を下ろせばすぐに文章となり、それでいて撃剣の達人であったため才藝兼該と讃えられた。しかしながら好悪が激しいところがあり、正妻であった美妃を自死に追いやったり、降伏した将を罵り憤死させたり、親しかった将と仲違いして之を死に追いやったりと、その度量については多くの歴史家から非難されている。高慢な性を持つ麗月と仲違いせず親しいままであったのは奇跡と言っても良い。「それで珍しく蒲萄酒を飲んでいるのね。それとも去年の秋に蒲萄が食べられなかった事を恨めしく思っているのかしら」と令は麗月を揶揄った。何かもの言いたげな憂いを湛えた令の艶めかしい唇、如何なるときも図画に描かれた非業の死を遂げる麗人の顔をしたままの令。表情を一切変えずに話すその言葉が冗談であるのかそうでないのかを人は判断することが出来ないため、令は過去より多くの人の不興を買った。ただ、麗月はもう百年近くも臥起を共にした仲であるため、令の言葉に対して小さく笑い「戦というものは憎むべきものだ」とだけ言った。杯に満たされた蒲萄酒、飲めば心地よくその身体を酔わせてくれ、そして昨年は遠征に出ていたため食べることのできなかった蒲萄の甘さを時を超えて味合わせてくれる。膳に並ぶのは麗月と令が肉食を好まないため穀物の粥や味噌に漬けた野菜や川魚と言った質素なものである。塩味の強い味噌漬けを齧り、粥を啜り、そして蒲萄酒を流し込む、古代の暴君のような豪華な宴ではないが麗月は夜にこうして酒を酌み交わす今このときを大いに楽しんでいた。ただ少しばかりは物足りなく感じるのか麗月は「膾が食べたいものだ」と言う、これに対して「海で採れたばかりのもの以外は食べられたものではないわ、どうしても食べたいのならば鍾陽にでも都を移したらいい」と木簡片手に冷たく返した。この二人の宴は、宴と呼ぶのが憚られるほど静かである、何しろ令はその横に書物や木簡を積み重ね、そのうちの一つを手に取り読みながら酒を飲んでいるからである。麗月はただ春風が蕭瑟するのに耳を傾け、令の顔を見ながら蒲萄酒に酔いしれるのであった。
何刻か過ぎると、令は俄かに立ち上がり麗月に歩み寄る。令の身体を飾る綴られた真珠や形のいいその頭に戴く金の首飾が揺れて軽やかな音を夜に響かせる。令が麗月の隣に座すとその美しく黒い髪を撫で、そしてその小さな唇を吸った。麗月の小さな身体は令の纏う瑞々しくも奥深い神秘的な芳香に包まれ蒲萄酒の酔いが強く回った。麗月も香を好み戦場にあっても欠かさず衣に炊き付けているが、令の放つ香りはそれよりも更に強い、書物に座した処三日香ると残されるほどである。着崩された羅衣から覗く皓質は炎に照らされ燦爛と輝き、その揺れる瓊の如き双眸は麗月を悩ませた。首から肩にかけてはよく削り取られ、溢れんばかりの柔らかい胸が作り出す谷間に思わず麗月の手は誘われる、それでいて腰つきは白絹を束ねたが如く嫋やか。ただ、麗月は今宵は淫らな行いをする気分になれず「詩でも聞かせようか」と令の身体を撫でながら問いかけた。瑟を取り出してきた麗月は、その白く細い指を弦にかける。瑾瑜の如き瑟の音が夜の闇を彩ると令は麗月の細い身体を満足げに撫で始めた、二妃が戯れ愛を歓ぶその様は比びて春の風に揺れる桃の花のようであった。麗月は自ら奏でる瑟の音に合わせて高く儚い声で歌い始めた。
飲蒲萄酒弾鳴琴。
念征東胡愁我心、奇士病臥涙沾枕、雖桀哭泣況婦人。
戦に征きて帰らぬは国殤となった者ばかりではない、延江を越えて東に行けば慣れぬ風土で病を得て斃れる者達も多い。麗月は故郷より遠く離れた地で病を得て若くして薨れた敬侯司馬宮のことを哀れみこう吟じたのだ。弦を鳴らす手を止めて蒲萄酒を呷り喉を潤すと麗月は再び何か歌おうとしたが、意外にも令がこう歌った、博聞にして彊識、百を越える書を記した才人ではあるが一編の詩も残さなかった荀瓏華が。令が蒲萄酒を口に含み、麗月に口移しで与え自らも余りを飲み込むと俄かにその口を開く。
対蒲萄酒当歓愛。
渡星漢流久滞在、比翼翱翔可忘㤥、牽牛織女不欲回。
麗月は令の歌を聞いて笑みを浮かべ「そうだな、孤が歌ったような哀しい詩は蒲萄酒の甘さには相応しくない」と言い、彼女の頬を撫でた。できることならば、令がこのまま邸に居ついてくれれば嬉しい、と麗月は心の内でそう呟いたがそれは叶わぬだろう、何しろそれは鷙を小さな鳥籠で飼うようなものだから。二人の宴はまだまだ続く、月が明るく輝く夜に歌声を響かせながら。
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