烈女篇

示武劉は手勢数百騎を連れて東へと奔っていた。湖安に辿り着いたところで最早韓軍に対抗する力など無いが、董に残った沙軍を纏めて引き上げる事ぐらいはできる。沙国の西への大遠征は第一王子である和進によって率いられていた。―――四百年ほど前、沙羅尼は韓の武帝の遠征軍に蹂躙され統一王朝の創始者文覇魔を討たれたうえにその支配下に置かれた。この屈辱的な日々を終わらせたのは文覇魔の孽孫である和龍という男であった。韓は亜世羅尉から沙羅尼に渡る広大な東域を統治しきれていなかった。敗北から五十年、和龍は沙人を纏め上げ、北に逃れた亜世羅尉人と結び韓軍を東域から追い払ったのだ。その後も着実に東方に領土を広げ三百五十年後の現在では韓に比肩する、いやそれよりも広大な版図と強大な国力を持つに至った―――ここ数年、凶作が続いていた沙国ではしきりに西征論が沸き起こった。まだ余力があるうちに大兵力を以て亜世羅尉を蹂躙しその地に民を多く移住させ、そして悲願である韓への勝利を得るために沙羅尼は遠征軍を興した。和進の遠征軍は南亜の侵略を速やかに成功させたが、山がちな北部の高地に籠る亜世羅尉人に手こずらされた。和進は紅国の公たちに内通を呼びかけ董を手に入れ、それを以て西と南から北亜を攻めることを思いつき庶子である示武劉にこれの指揮を任せた。示武劉ははじめのうちはこれに反対した、三国に別れ其々が統治しているとはいえ攻め入れば連合して反撃をしてくるだろうと。しかし和進は董を通り北亜を陥落させれば、その後の更なる西征では易々と手中にできるであろう紅を示武劉のものにするよう父に進言すると唆したのだ。和進は始めから董を経由して北亜に攻め入るのは分の悪い賭けだと分かっていた、幾ら紅王に叛意を抱く蘭京と湖安の二公とは言え、北亜に向かう大軍が通れば次は自分たちの身であるとの猜疑を抱き何か事を起こしてくるだろう。ただそれでも、上手くいけば亜世羅尉を完全に手中に収めることができ、失敗しても示武劉という邪魔な庶子が消えるだけであるこの策を取ったのである。董の地に軍勢を踏み入らせた示武劉は案の定、両公から闇討ちを受けたためこれらを殺した。結果として紅と戦わなければならぬ事になったのだ。

示武劉はこのような経緯から、南亜まで逃れたら和進のとった策が悪かったと諸将の前で糾弾し自らの手で北亜を攻めれば良いと考えていた。差し当たっては、兎に角安全な湖安郡に一刻も早く逃れれば良い。そう考えていた示武劉は趙丘から湖安に至る山道をただ只管東へと進んでいた。その途中には磏門という地があった。切り立った崖に挟まれた細く急な坂を登る艱き道である。当に絶澗と呼ぶべき道であるが、旅人や商人はこの道を使う、何せ迂回すれば何十里と遠回りすることになるからだ。しかしながらその細さから行軍には適さず、九国時代の董と紅の戦では両者ともにこの地を通ることを避けた。それでも示武劉は手勢の僅かな騎兵を連れているだけであるから躊躇なく磏門に足を踏み入れた。その内から見上げれば天は狭く巍巍たる左右の岩に押し潰されそうな心持ちになるが示武劉は無心で先を急いだ、先の決戦では韓軍は全力を出し切っているはずである、何もこのような絶澗とはいえ恐れるべきことなどない―――忽として退路を断つように後方に火の手が上がっている、茂る草木など無かったはずなのに。つまりはこの磏門の上から数多の薪や藁、枯れ木を投げ込んでそれに火をかけた何者かがいるということだ。示武劉は馬の腹を蹴った、一瞬でも早くこの地を抜け出さねばなるまいと。しかし次の瞬間彼が目にしたのは丸く削られた身の丈の何倍もある巨石であった。それが尽きることなくこちらに向けて転がり落ちてくるのだ。示武劉はこれをなんとか躱したが、彼に続いていた者たちの多くは巨石の下敷きとなり左右の崖をその血で染め四肢や臓物を辺りに散乱させていた。

「妾に手出しは無用、残党を狩る事に注力せよ」と静かに荀令は虞娥に伝えると示武劉目掛けて飛び降りる。百斤ほどの方錘戟を振り被る令はそのまま騎乗する示武劉に向けて振り下ろす、大地を抉るその一撃で辺りに血が霧のように飛び散る。既に火と落石によって敵の襲来に気づき良く警戒していた示武劉はこれを躱す事が出来たが彼の愛馬は別であった。令は休まず攻め続けた、岸壁を背にした示武劉に向けて地を蹴り飛び掛かりその全力を以てして横に戟を振るう。天が割れるほどの轟音、辺りには土煙が立ち上り壁には大穴を穿たれていた。目にも留まらぬほどの速さの一振り、その勢いを鑑みれば受け止めれば自身の身体が壁に叩きつけられることになる、示武劉は冷静に横に飛び跳ねて令の一撃を避けていた。次の令の一撃に対して彼は呼吸が掴めてきたのかそれを躱しながら矛を振るい令の胴体を裂こうとするが如何に大振りであっても体勢を崩さず冷静さを保つ令にはそれが当たらなかった。両者の一撃一撃は山を抜くほどの勢いであり二人の周りは土煙で覆われていく。僅かな動きで互いの重い一閃を避けながら打ち合いを続ける、鉄と鉄がぶつかる甲高い音が鳴ることはなかったが岩を砕く鈍い音は絶えず響き渡っていた。砂埃で視界が悪くなるなかでも両者は精確に相手の姿を捉え全力で得物を振るいあっていたが、どれほど時が過ぎ去っていってもその切先が相手の身体を捉えることはない。俄かに令は示武劉の一撃を躱すだけして戟を振るわず砂煙にその身体を溶け込ませた、そして彼の背に回り込んで得物を短く持ち穂先でその身体を穿たんとした―――しかし次の瞬間、令はその細い首を示武劉の大きな手で掴まれていた。読まれていた、いや、その優れた五感ですぐさま令の挙動を感じ取りこれに対応できただけなのかもしれない。いずれにせよ令には示武劉に好きなようにされるという道だけしか残されていないように見えた。この時、黒龍衛達は転がる岩を避けることができた僅かな敵兵たちを粗方狩り終えていた。そのため彼女らは令を助けるかどうかを迷っていた、何しろ手出しをするなと言われているからだ。一人が示武劉に飛び掛からんとしたが娥はこれを制止した、言いつけを破ることをすれば令は間違いなく叱責をしてくるだろう、例えそれで彼女を救うことができたとしても。それに加勢すれば必ず被害を被る、絶人の二人に加勢したところで肉片となるだけである、如何に黒龍士が意気軒高であろうと娥はこれを避けなくてはならない。そして何より麗月が令であれば負けないと算じているという事は必ずや形勢を逆転して見せるだろうと確信していたからだ、何らかの手を持っているだろうと―――忽焉として示武劉は呻き声を上げた、それは虎が弩で射られた苦痛と怒りで吠えるかのように天を震わせた。その腕には二本の太い針が突き刺さっていた、令はその長い髪で隠れた背や衣の内側に幾本もの暗器を隠している。あのまま長物同士で打ち合いを続けていても勝ちは得られぬが、懐に入り込み暗器を使えれば仕留めることができる、油断させた状態であれば尚更。示武劉が麗月を締め上げた時にすぐにこれを殺さなかったことから女を締め上げるのを好んでいると踏んだ令はわざと示武劉にその首を掴ませたのだ。甲の隙間を縫って腕の経穴を精確に刺したその二本は示武劉の手の感覚を奪い、令の身体を自由にさせた。地に降りた令はすぐに背に腕を回し新たな針を取り出しながら示武劉に密着しその身体に連続して刺し込んでいく、一本、また一本と打ち込まれる度に身体の自由を失っていった彼は遂に地に伏した。最早一切身体を動かすことが出来ぬ示武劉はただ令を威嚇するように喚き散らしたが、方錘戟を拾い上げた令にその胴体を幾度も叩きつけられ、そのたびに血を吐き、遂には声を出す事すらできなくなった。令は彼が絶命したことを確認すると鉞の部分をその首にあて強く踏み抜き首と身体を切り離し、そしてその首級を高く掲げた。崖を降りて戦っていた黒龍衛はみな喊声を上げた、落石や火計の準備を整えた後はその上から戦いを見ていただけの工兵たちも同じであった。

瑜飛隴の連合軍が趙丘の城を包囲して七日が過ぎていた。この間、連合軍が発石車を組み立てることも、井闌を組み立てることもせず令の帰りを待っていた。集っていた諸将たちの中には焦りを見せる者もいたが麗月は至って冷静であった。「朱公、本当に荀公は示武劉を討って戻ってくるのだろうか」と周嫣は麗月に問いかけた。それから続けて「確かに荀公は史書に依れば衛晃を討ち取った希代の猛者であることは間違いないのだろう、しかし示武劉のそれは衛晃が勝てなかった飛将董翊に近いものであるように思えた」と言うが、麗月は不敵な笑みを浮かべ「史書の記述ではその者の武勇を算ずることなどできぬだろう。孤は示武劉に勝てなかった、だが何合も打ち合ったことを思い起こしたところ瓏華であれば勝てると算じた。磏門あたりに伏せているだろうから今日か明日には戻ってくるだろう」とそれに答えた。俄かに外が騒がしくなってきたため諸将はみな幕舎の外に出た、彼らが目にしたのは戟と袋を手にし城門に歩み寄っていく令の姿であった。包囲している連合軍が攻撃の意思を見せていないことからこれを折衝のための使者だと判断した沙軍の将は門を開けて令と対峙した。これに対して令が袋から取り出して見せたのは塩漬けにされた示武劉の首級であった。沙軍の将は膝を折り地に伏した、一度は破竹の勢いで延江に迫ったがその後に敗戦が続き多くの兵を損なった、その上で紅への侵攻を指揮する総大将が討たれたとあってはもはや韓軍に抵抗する術などないのだから。その将が城壁の上の兵に合図をする、暫くすると全ての城門が開かれ城壁に集った沙軍の兵は手にしていた武器を濠に投げ捨てた、降伏である。連合軍の兵十万余の喊声は大地を震わせた。諸将はみな令の許に集いその武勇を褒め称える言葉を次々と投げかけた、そしてその中で麗月は令に歩み寄り高らかに歌い始める。その麗しい声が響き渡ると将兵は押し黙ったりそっと二人から少し離れた。


眸子睩燦爛、皓質炫玼玼、垂美髮至地、天姿使星羨。

戴金之首飾、腰佩明瑠璃、耀躯以綴珠、披羅衣愁眉。

借問麗人誰?寧原之奇士、或江東虎豹、或神渚霊妃!

博聞而彊識、下筆即章為、恒学註諸子、親天地之規。

反覆思経世、自謂無以易、以咨此麗女、輒復過人意。

少小操弓戟、揚聲四方垂、控弦破左賊、右發摧胡騎。

狡捷過鷙飛、勇剽若豹螭、捐軀赴国難、独屠群東夷。

豪傑大笑曰、安女人在危、不知畏彼征、於戦遂見之。

穿短兵流香、舞羅衣破旗、未吐辞懲心、睞令勇士死。

驅四方不敗、恒先登不帰、在死地不㣻、萬傑不可比。

烈士曰之威、博士曰之知、傾城曰之美、豈不可愛慈。


歌が終わると再び将兵は各々が勝利の喜びを言葉にならない雄叫びで表した。令は麗月の顔をまじまじと見つめる、その表情はいつもと一切変わらず、ただその口から「皆の前でそのように褒められると面映ゆいわ」と漏らした。この勝利の後、連合軍は韓の最東端である蘭京郡まで速やかに兵を進めた。示武劉を討ち取った事を喧伝したためか紅の地に入り込んでいた沙軍の残党らは兵を纏めて南亜まで退いていたため抵抗はなかった。冬になる頃には韓は元の領土を完全に取り戻した。麗月らが隴国の都である鍾陰に戻ったのは春も近い十二月のことであった。

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