翌日の早朝に荀令は黒龍衛と工兵二百、それにこのあたりの地理に詳しい紅人を連れて陣を出た。陣を出る令は見送りに来た麗月の方を一度だけ盻るとそのまま何も言わずに去って行った、そんな令の姿を誇らしげに眺めていた麗月のもとに司馬宮がやってきた。「荀公ならば三日で五百里を踏破するでしょう、こちらは昼より兵の配置の転換を始めます。襄春から兵を出し趙丘に向かわせるのは明日、包囲する陣が組み上がるのは三日後になるでしょうな」と宮が言うと朱麗月は静かに頷く。俄かに小さく咳き込む宮を見た麗月はこれを気遣い「司馬伯台よ、卿は今すぐ隴に帰ったほうがいい」と言った。宮は暫しの間押し黙ったが、その後素直に頷いた、そして曰く「お気遣いありがとうございます。病を得てしまったことはやはり隠せませんな。……この戦、勝つにしろ負けるにしろ大勢を決するものです。負ければこれ以降、紅水以東は沙羅尼のものとなるでしょう。勝てば竹を破るが如く蘭京まで攻めることができるでしょう。この戦だけは見届けさせてください」と。麗月はこれを認めたが戦が始まるまでは幕舎で休んでいるよう宮に命じた。

令の出陣を見送った麗月は霍紅珠が御す馬の背に乗り、同じく馬に乗った亜瑠和を伴い陣を回り将兵の慰撫に勤めた。「荀公はあの者に勝てるのでしょうか……」とその胸のうちの不安を述べた紅珠に対して麗月は「瓏華が自ら名乗りを上げたという事は成算があるのだろう。翠蘭よ、瓏華は孤よりも遥かに強い、そしてその聰慧さには孤では到底及ばぬ」と胸を張って答えた。「朱公が言うのならばそうなのでしょう」と麗月の言を肯定した紅珠は「……腕の方は大丈夫ですか?」と控えめに問いかけた。「一月は弓を引けぬだろう、だが意のままに動かせるように治るだろう。鬼士、特にその霊力が高い者は傷の治りも早い、不滅の真理を悟ったものであれば尚更。例えば衛晃は首に矢傷を負っても一週も立てば再び戦場に立っていたほどだ」と麗月はこれに笑って見せた。暫くの間、麗月らは飛と隴の陣を巡っていたが、既に幾度かの戦を経ているからか陣を周って見ていても麗月の目には怯える兵の姿は無かった。

その夜、近くの接収した邸で沐浴をすませた麗月はひとり閨で机に向かい書物を読んでいた。瑜の文王の著書の中で、いかなる時も書物を読み、学ぶことを辞めなかった瑜の人物の一人として麗月の名が挙がっているように、彼女は遠征に於いても戦がすぐそばに迫っていても時間があれば昔と変わらずこうして勉学に励む。ふと、麗月の閨に紅珠が現れた。紅珠は沐浴をすませてから暫くの間、亜瑠和の勉学に付き合っていたのだが彼女が眠ったので麗月の許に来たのだ。「翠蘭、君も眠ったほうがいい」とそれに気づいた麗月は書物を手にしながらそう言う。「お邪魔でしたか?」と寂しげな声で紅珠が言うと「孤の傍に居たいのであれば構わぬ」と麗月は答えたので、紅珠は麗月に歩み寄り、そして屈みその背から小さく細い身体を抱きしめた。麗月の身体からは桃の花のような甘い香りと沈香と白檀の落ち着いた芳香が漂う、それが彼女の纏う衣に炊き付けられたものなのか、それとも彼女の身体それ自体から放たれるものなのかは紅珠には分からなかったが、自分がそれに虜にされてしまっていることだけは分かった。「朱公は荀公とは臥起を共にされていますが、紅珠とはそれを望んでおられぬ様子……」と紅珠は耳元で囁くが麗月はこれに言葉を返さなかった。紅珠は自らの手でつけてしまった麗月の腕の傷に接吻をすると立ち上がりその衣を脱いで肌を晒した、数えで十六を迎えたばかりのその清らかな身体、皓質に浮かぶ綴られた真珠の如き汗の玉が揺れる炎に照らされその身体を妖艶に耀かせていた、その骨像は令のものとは趣を異にするが春に咲く蘭の様に可憐で月を閉じさせるほど美しい。「朱公は紅珠とは淫らなことをしようとは思わないのでしょうか、私が髪を切り落としたしてしまったのが良くなかったのでしょうか。……紅珠は朱公のことをこれほどに慕っているのです」と紅珠が嗚咽を交えた声でそう訴えると麗月は立ち上がり、彼女の裸体をまじまじと見た。そして寝台に向かい腰かけると衣を脱いで紅珠を手で招いた。

それから二日が経った。幕舎に集っていた麗月らの許に息を切らした斥候が現われ跪き拱手をする、曰く「沙軍がこちらに向かう様子を見せています」と。襄春から出た瑜軍の兵が趙丘の城を包囲したことに対して行動を始めたのだ、彼らが選んだのは広肥の連合軍を破り、そして翻り包囲する陣を破ることであった。これを聞いた麗月は「最も良い選択だな。軍を三つに割くのは最も下策、しかし踵を返すのも下策、襄春の陣に行くのも下策、こうするしかないだろう」と言った。「陣容はどうなっている?」と厳が尋ねると斥候は「北は沙軍右翼に不死軍、左翼に騎兵を集結させている様です」と答えた。精鋭の歩兵を襄春と挟まれる位置に配置することで挟撃に耐えながら戦列を前進させ、機を見て騎兵で決着をつける、当に正攻法であった。ただこれを聞いた茂は「兵が損耗することは避けられぬ、されど、これならば司馬君の策はうまくいくだろうな」と狡猾な笑みを浮かべた。

こうして夏の日差しが照り付ける午後に両軍は広肥の東の平原で激突した。短兵同士がぶつかり合うと衛信は弓騎兵を引き連れて南から大きく回り沙国騎兵の側面を突いた。麒麟騎や海烏、丘卑のうち鬼士であるものが前に立ち半里先から沙国騎兵に矢を浴びせかけた。鬼彊はその矢の形状から弩と同じ重さで張られたものであってもより遠くまで届く、そして沙国の精鋭の弓よりも。―――涼虞の時代、天下と言えば中原を指しており、戦争と言えば戎車とそれに随伴する歩兵百五十の集団がぶつかり合う会戦であった。九国戦国の時代に中原から離れた飛、紅、董までが天下となると山がちな地形により会戦という形式が廃れ、丘卑、羑、何魏斗の衣服と戦術が取り入れられた、胡服騎射である。時代が下り三国鼎立の時代へと連なる戦乱の時、太祖は虎嘯騎や威侯魏進麾下の鬼士部隊、虎牙士を射撃戦でも弩兵に勝るものにしようとした。沮圭が海烏騎を引き連れた軍勢に弩兵で大勝を得たように胡服騎射への対策が練られていたからだ。そこで大型であっても馬上で用いることができる短下長上の弓が考案された、これは麗月が自らの手で作り用いていたものを参考にしていたため紅龍弓とも呼ばれることがある―――そのためこの隙を縫うようでありながらもなお痛烈な攻撃に対応するには沙国も精鋭の騎兵を割かなくてはならない。ただこれに対して飛と瑜国の弓騎兵たちはこちらに沙国騎兵が向かってくるのを見れば直ぐに左右に逃れた、自らの父を示武劉に殺された金道であっても冷静に指揮に従っていたし、気性の荒い丘卑族の兵も先の戦いで肝を冷やしたのか血気に逸り突出することはなかった。沙国の騎兵が近寄ってくれば四散し、暫くしてまた接近し騎兵や戦列の歩兵に弓を射かけるのを繰り返していたため次第に沙国の騎兵らと戦列の足並みは揃わなくなっていく。

隴や飛の歩兵は堅く守りながら少しずつじりじりと下がっていくだけで良いので、小数精鋭の隊を自ら率いて急襲することには長けるが軍を指揮する事は苦手としていた麗月でも将としての役割を果たしていた、つまりは麗月はただ後ろに立っているだけで良いのである。それに対して厳は忙しなく戦列の後方を左右に行き来した。ただ西南に向かって弧を描く様に退いていくだけではこちら側の意図を悟られてしまう、なおかつ相対するのは沙軍の精鋭である。そのため敵の虚を見れば果敢に攻撃を仕掛けさせ、或いは敵軍の猛攻に対して下がりながらこれを包むような動きをさせ、と少しでも沙軍の兵を減らしながら鎚に対する鉄砧となる形となるように兵たちを動かしていく。

瑜国の歩兵たちは果敢に戦っていた、胡虜の血によるものかそれとも戦友の血によるものかの判別がつかなくなるほどその甲を血で染めながら。その左右には両軍の骸が積み上がり傷で戦えなくなった者達が少しずつ戦列を離れていく。それでも彼らの心は懲りず冷静であった、そこかしこで響き渡る矛の交わる音の中から自軍の金鼓の音を拾い出すと訓練でその身に染み付いた、鐘が何度なったときには何歩退く、何歩左に行くというその動きを再現するのだ。

ある者がふと空に目をやると日が傾き始めていた、気づけば隊伍の者たちの多くが負傷したのか、それとも斃れたのか戦列を離れていた。退きながら戦うというのはそういうもので、とにかく不利なのである。自軍の兵がより多く倒れて行く中、意気軒高な異人が霜の如く耀く矛を振りかぶるのを見ると心が折れそうになる。その一撃を躱すこともできず、受け止めるために自らの手にある戟を構えるにも腕が動かず、彼は放心した―――忽焉として彼は前に走り出し一閃を躱しその戟で目の前の敵の胴を貫いた。穂先を引き抜けば真っ赤な血が穿たれた胴から泉が湧く様に噴き出す―――彼の耳には突撃を合図する鐘の音が届いていたのだ。糸が切れた繰り人形の様に崩れ落ちる胡虜、その奥に見えたのは空を覆い隠すような土煙であった。

燦爛たる甲を纏い鉄馬に跨る白龍騎士たち、その先頭に立つ郭昭は鍘刀を龍巻の様に振り回しては沙国の兵を膾に切り刻んだ。例えその嵐が過ぎ去るまで生き残ることができた者であっても続いてやってくる鉄騎の前に生きて立ち続けることはできない。白龍騎士の左を並走していた虎嘯騎の群れが沙軍の戦列に当たると首や腕、臓物が宙を舞い天を埋め尽くす。数多の金の装飾で輝く煌びやかな甲を帯びた一団の先頭で色鮮やかな木面で顔を隠し鉄戟を振るう嫣、その一撃一撃は岩を摧くほどの勢いでありながら一度も空を切ることはない。そして後に続く虎嘯騎達も武芸を極めた者たちであり挟撃によって恐慌した沙軍兵を散々に屠った。西の方角、戦列の真横から洪水の様に押し寄せる鉄騎から逃げ出そうとしても彼らには逃げる場所はなかった、襄春から後方を襲った騎兵が戦列にぶつかるのを見た麗月が隴と飛の兵を前に進ませたのだ。前には分厚い甲を帯び手に盾を持ち、隙間なく並びじりじりと前進してくる重歩兵、後ろからは飢えた虎の如く獰猛な騎兵が刻一刻と迫ってくる。このとき最も東の端にいた数軍は何とか命を落とす前に降伏することができたが多くは瑜国の兵によって斬られた。

友軍が蹂躙されている事には気づきながらも執拗に付きまとう連合軍の弓騎兵に足止めをされていた沙国の騎兵達はただこの場を離れる以外の道は無かった。しかし麗月はこれを素直に逃がそうとはしなかった、大勢が決し沙軍の多くが降伏を申し出ているのを見た麗月は紅珠に命じ馬を走らせた。昭に呼びかけ白龍騎士を自らに追随させ、さらに信の率いる弓騎隊と合流すると「今すぐ真っすぐ追うのだ!」と令する。それから飛国軽騎を纏める将についてくるように命じると休むことなく走り始める。軽騎兵を率いて迂回した麗月は逃げる示武劉らの横腹を突く、傷が治っておらず弦を引けばどうしても苦悶の表情を浮かべざるを得ない麗月であったが放たれた矢は逃げる集団の中ほどの騎兵の身体を貫いた。そして軽騎兵たちもそれに続く。その矢は彼らを絶命させることなどできなかったが、後ろの半数の脚を止めさせることはできる。これによって示武劉ら先頭の集団と切り離された彼らは後方から騎兵が追ってくるのを見ると降伏した。

軍を纏め終わると陽が沈んでいたため、趙丘の城に向かい包囲に参加するのは夜が明けてからということになった。その夜、麗月は接収した邸の四阿で月を見ながら酒を飲んでいた。「朱公の傷は未だ癒えておらぬでしょう、あまり無理をなさらぬようにしてほしいものです」と紅珠は麗月に歩み寄りそう声をかけたが、麗月はこれに反駁する、曰く「逃げた騎兵の数はまだまだ多い、一部は有るだろう。このまま見逃せば少数で伏せる瓏華の隊はこれに手を出せず示武劉は湖安に辿り着く、戦はまだまだ長引いていただろう。それに易々と見逃せば伏兵を疑われる、形だけでも必ずや必死に追って見せねばなるまい」と。紅珠はこれに反論を述べることはしなかった、麗月の言う事は正しい、そして自らの言は麗月のことだけを気遣ってのものだったと恥じたからだ。「瓏華ならば必ずやあの者を討つだろう」と、麗月は東の空に浮かぶ星々を見てそう言った。星々の中で一際強く孤独に輝く牽牛と織女、そして二人を分かつ星漢、戦で荒れ果てた地であっても夜空の星々は美しい。

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