沙漠行
亜瑠和
或る春の日のこと。紅の地を奪還したものの猶、沙国の脅威は去ってはいない。朱麗月と令はこの先に起こりうる南亜における戦に備えて武帝の治世に於ける大遠征の記録を韓朝の役人から取り寄せた。史書に於いては戦については凡そ簡素に記されるものである、特に行軍においてどの路を経たかなどは記されないものであるが、後の賞罰のために細かく記録自体は取られている。韓は董孟による政変や黒清衆の乱に続く群雄割拠の時代で国土そして都が荒れたため史料の散逸があったが、徐大将軍と甘驃騎将軍の東征の記録は運良く残っていた。麗月が荀令と共に閨で両将軍の遠征の記録を読み込んでいると外から騒がしい声が聞こえてきた。
「そのような服で表に出てはなりません」という霍紅珠の言を無視して亜瑠和は邸から逃げ出した猫を追いかけて路地へと飛び出していった。紅珠は溜息を付きながらその後を追いかける。麗月や令は畜生の類を余り好まなかったため、亜瑠和が城内で猫を拾い抱えて帰って来たのを見て怒りはしなかったもののその日から自身の閨や食堂や台所の扉を固く閉じるようになった。猫が狡捷たるのは勿論、垣や屋根を問わず走るそれを追いかける亜瑠和も負けていなかった。暫く城内を走り回った紅珠は遂に腕に猫を抱いた亜瑠和を見つけ出した、何しろ肌を晒して走り回る異国の女を見れば民らが驚いた声を上げるのだから之を追いかけていくだけで良いから。「翠蘭、猫を捕まえたぞ」と亜瑠和は笑顔で猫を紅珠に差し出す。薄い布を細い紐で縛っただけのもので胸と陰部を隠しているだけのためその褐色の肌の多くが露わになっている、細すぎずどこか少年の様に精悍な身体つき、腕が約むる金環だけでなく、その肌の上に浮かぶ玉のような汗も綴った真珠の如くその姿を輝かせた。其の琥珀の如き瞳で一度顧みれば其の遺光は空を彩り、紅珠の心を惑わせた。しかし紅珠は心を確かに持ち「男女の別は国の大節です。人前で肌を晒して回るなど、涼の抗王に並ぶ乱です」と憤った。亜瑠和はこれに折れることはなく「翠蘭も短く切った褲を穿き太腿を晒しているではないか」と口答えした。彼女の聲は何処かぎこちなかったものの、意味を解するのには難はなかった。亜瑠和は賢く、すぐに韓の字と聲を覚え様々な書を自ら進んで通読した。「紅珠は黒龍僕であり、馬を御す任を得ています。裳ではなくこのように短く切った胡褲を穿いておく必要があるのです」と紅珠はこれに反駁したが、更に亜瑠和はこう続けた、曰く「朱麗月や荀令らは女であっても肌を晒して居るではないか」と。これに対して紅珠は「諱を呼んではなりません。それ以外にも……」と色々と言おうとしたがすぐに亜瑠和は口答えをした、曰く「翠蘭は時折面倒なことを言い始めるな。礼だ徳だと。まるでそれに服従しておるかのように、それこそ拝服教を信じて鬼神を疑わぬ沙国の蛮族のように愚かになる」と。韓人たちは沙国の教えを沙教や文覇魔教と呼んでいたが、沙人たちが今の世でそれを呼ぶときは、韓語で言えば拝服という言葉が意においては近いらしい。「翠蘭が教えてくれた徳教の書にあったではないか、学びて思わざれば則ち罔し、と。何故に吾がこの服で外に出ることを止めるのだ?吾は東南の出で、韓の風土に明るくない。韓は白日は険しからず、それ故に薄い衣を纏いて暮らしたいのだ。薄い衣を着れば素早く動くことができる、猫を捕らえられるほどにな」と。それから「祭祀を絶やさぬということに重きを置くならば、曰く仙女である朱や荀、亡国の公主である翠蘭と吾には関りのある話でもないだろう」と笑った。これに対して紅珠は返す言葉もなかった。晩に食堂に於いて膳を皆で前にして語らっている時に之の顛末を聞いた麗月は大いに笑い「翠蘭よ、舌戦で負けたようだな」と言った。暮らしている国の礼に従えば禍を避けることができる、身に降りかかる禍を避けるためには紅珠の言う事に従う方が正しい。ただ、この邸においては紅珠の様に徳教の教えを守るものが少ないというだけの話であった。これを紅珠はよく理解していたため、悔しがる様子など一切見せなかった。ただ麗月は「それにしても韓の名が無いのは不便であろう、亜瑠和はこれからも字として用いるがよい。胡人に金氏はありきたりよのう、氏華諱珀とでもしておくとよい」と彼女に氏と諱を与えた。
元々、長い間この邸には麗月の閨しかなく令が来れば臥起を共にしていた。しかしながら紅珠が飛から流れて来て彼女のために新たな寝室が作られた、他人の事など考えぬ麗月はいちいち珀のために新たな寝台を置こうなどとはしなかった。尤も、紅珠も珀も不便はしていなかった。紅珠の母、陰氏は若くして薨ったため同腹の兄弟姉妹はおらず、遊ぶ相手と言えば身分の違う下女たちであった。隴に流れて来てからも、麗月とは年が離れているだけでなく彼女の地位は高すぎた。珀は紅珠にとって年の近い初めての朋と呼べる人であり、だからこそ慣れない韓の地での生活に戸惑う彼女の面倒をよく見た、言ってしまえば妹が出来たかのようで嬉しかったのである。この夜も珀と紅珠は共に寝台にあった。紅珠はまだ眠りに落ちておらず窓の外に目を遣っていたが、俄かに珀は彼女の両の手首を掴みこれに覆いかぶさり紅珠の唇を吸った。紅珠は驚き声を上げることができなかったが、一筋の涙が彼女の頬を濡らした。頬に輝く筋があるのに気づいた珀は「すまない、翠蘭は吾のことを嫌っておるのか?」と悲し気に問うた。「いえ、そう言う訳ではないのです……」と紅珠がそう答えると「翠蘭は朱麗月のことを慕っておるのか?」と珀は続けて問いかけた。「ええ……」と紅珠は素直に頷く、珀は彼女のその頬を優しく撫でながら「あの女には荀令がいるだろう、共に長い時を生きてきた。どうやってもあの女から得られるのは余りものの愛のみだ、翠蘭がそれで満足するのであれば吾にもそれを与えてくれればよい。高い地位にある男は幾人もの男女を愛幸するにも拘わらず、女人にそれが許されないのは世継ぎが危うくなるからに過ぎない。然れば、吾等には一人しか愛してならないという枷など無いはずだ」と囁く。紅珠の心は乱れており珀に返すべき言葉が思い浮かばず、ただ悲し気な顔をして自らの頬を撫でる珀の手にそっと手を重ねるだけしかできなかった。その表情を見た珀は素直に退き、紅珠の腕に抱き着き横になった。「なれば、翠蘭が吾のことを愛してくれるのをを待つだけだ、学問に励み、武芸を磨きながら」と珀は笑って見せ、そしてそのまま眠りに落ちた。紅珠は自らの心を落ち着けるかのように、珀の頭を優しく撫でた。そうしているうちに、自らの腕に縋る珀の暖かさに誘われて紅珠も次第に眠りに落ちて行くのであった。
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