司馬彩
夏も近づき杲杲とした日が照る中、朱麗月は霍紅珠と華珀を伴って練兵場に赴いていた。先の東征で黒龍衛の欠員が多く出たため募兵が行われていた、麗月はこれに応えた者たちを一目見ようと足を向けたのだ。麗月は集う者達は少ないだろうと予想していた、戦があったばかりで、なおかつ故郷に帰って来ることができなかったものは五十を超えた、少数で精鋭の部隊と雖もである。そして亜世羅尉の兵を捕虜として持ち帰ってきたことから、更なる東征が行われるのではと城内では噂されていた。しかしながら麗月が目にしたのは練兵場に集う百を越える女人たちであった。麗月が現れたのに気付いた虞娥はその許に駆け寄り拱手する、そして曰く「鬼相を持つと偽っていた者は既に家に帰しました。それらを除いて百七人が集っております」と。麗月は「驚いたな、兵と為れば危うきを避けるべからず。亜水の畔では未だ警急が多い、連翩して東へ行かねばならぬやもしれぬというのに……。国難に躯を赴ける事を厭わぬ者が多いとは、孤も恵まれたものだ」と言って、木面をつけて竹鞭で打ち合う新兵たちに目を遣った。一度身体に当てれば勝ちとし得物を交えていたがそれぞれの武は頡頏しており、一度勝ち抜いてもすぐさま次の者には敗れるという様であった。しかし一人のものが場に立ってからはそれが変わった。木面に顔を蔽われその貌を覗う事はできなかったが、麗月に似て背は極めて短小であった。彼女の身に何があったかを知ることはできないが、前の髪が切り揃えられているだけでなく、後ろの髪も肩を少し過ぎたところで切られていた。胸囲は大きく、手足は細くなくその膂力の強さを思わせたが、腰は柳の様に細かった。それに対する少女が威勢のよい声を発して彼女に駆け寄る、その一撃一撃は空を切る―――彼女は微動だにしていないかのように見えた。そして相手に目も遣らず勢い余って脇を通り過ぎていくその背を竹鞭で叩いた。その後に幾人もが続いたが遂に誰も彼女に僅か一撃すらも当てることが出来なかった。之を見ていた紅珠は武人の血が滾るのか木面をつけて彼女の前に立った。俄かに紅珠は地を蹴り瞬く間に距離を詰める、そして放った一撃は初めて彼女を捉える事が出来たが手にした竹鞭でいなされた。勝ち続けていた少女は初めて大きく立つ所を動かされたことに驚いたのか紅珠の方を見て大きく息をした。そして緩やかに紅珠に歩み寄っていく、そして忽として彼女は竹鞭を振るい始める、それは当に水の様であった、紅珠がその一撃をどのように受け止めるかを見て少しずつ受け止め辛い方向からの攻撃へと移り変わっていく。何合も彼女と紅珠は打ち合ったが、彼女から突如似た調子の薙ぎが飛んでくると紅珠は好機とみて渾身の一撃を放った―――しかしそれは空を切り代わりに強くその背を竹鞭で打たれた、竹鞭とは言え鬼士で無ければ絶命しかねないほどのもので、紅珠は一度うずくまったが、すぐに痛みをこらえて立ち上がり麗月の許に戻った。これと入れ替わる様に飛び出していったのは珀であった。珀は彼女の周りを烏の如く悠悠と走り回り、機を見ては鷲の様に襲い掛かる。珀は一撃一撃ごとに疾さを増しながら彼女を襲うが、全てが避けるかいなされるかしていた。そして遂には腕を掴まれ地に倒され首に竹鞭を添えられた。「翠蘭も亜瑠和も、並の者では一合すら打ち合う事は叶わぬ。実に面白いな」と麗月が彼女の前に立った。そして「之をつけねば卿も本気で撃てぬだろう」と木面をつけて構えた。それに対して彼女は構えを取らなかった、何をしても麗月に手が悟られると察し、敢えてそうしたのだ。二人の気が高まると一陣の風が吹く、その黒き龍の如く天に上る気は目にした左右の者達の心胆を寒からしめた。忽焉として麗月は彼女に襲い掛かる、相手の算の遥かに過ぎる神速の一撃で仕留めようとしたかに思われたが麗月は彼女の目前で急に止まりその脚を払い地に倒し、そして覆いかぶさりその首に竹鞭を添えた。「何も剣や矛で打ち合うだけが戦いではない、それこそ先程卿がして見せたようにな。引き摺り倒して敵の命を絶つという機会は驚くほど多い」と麗月は彼女に囁いて立ち上がった。
「それにしても、卿の武は絶人よのう。名は何というのだ」と立ち上がった彼女に麗月はそう問いかけた。木面を外した彼女の貌、悔しげな表情に見えたが元からそのような顔しかできぬようにも見えた。細く切り開かれた双眸の奥の瞳子が放つ光は昏く、その許の涙の如き黒子のせいか汀で今当にその身を投げんとする麗人のようにも思えた。彼女は「司馬彩と申します」とだけ言った。麗月はその名を聞いて「もしや司馬伯台の娘か?」と問いかけると、彩は頷いた。麗月は何処か申し訳なさそうな顔をして「母は引き留めなかったのか?」と聞いた。「いえ、彩が黒龍衛となると言うと引き留めまられました、娘ですら我を置いていくのかと。ですから髪を置いて家を出て参りました。祖父司馬禁の家から分かたれた盧周侯の家は兄が継ぎます、彩は父司馬宮の道を継ぎたいと思っております。東征で病を得て帰って来た父から様々なことを聞きました、……遣り残したこともあるとも。公の傍に仕えれば、父が見ることが出来なかったものをこの目で見ることが出来るでしょう、そして為せなかった事を為すことができるでしょう」と彩が言うと麗月は「卿の心持は分かった。黒龍衛としてその才を振るうが良い」とその手を取った。
数日後の夜、麗月は禁の邸を訪れ共に酒を酌み交わしていた。麗月は琴を鳴らしていた、物悲しく響くその音は夜の空を翔け天に涙させた。雨音を聞いた麗月は「すまぬな」と口を開いた。禁は「国の事です。しかし今でも宮のことを思い起こせば心が痛みます。それはきっと禁よりも早く斃れたという事よりも、宮が事を成せぬうちに世を去ってしまったからでしょう。沙羅尼は恐らく韓よりも広い国土を持っています、東征での敗北の傷が癒えればまた韓を脅かすでしょう。宮はそれを叶わぬものとし韓の平穏を長きに渡って守るための策を心の内に秘めていたようにも思います。未だ志が従わぬうちに病を以て薨ってしまう、それを思えばどうして我が心は病まずにいられるでしょうか」と述懐した。その姿は齢七十を超えて益々盛んであった一年前よりもよりひどく老いて見えた。
老驥伏櫪望千里、病令事敗志遺机。
生者皆安可避死、獨唯歎之臨流水。
去幾年月魄在紙、先人之志使為士。
文章成蹊如桃李、水流活活不知止。
麗月はしとしとと降る雨を見ながらこう吟ずる、憂いを帯びた麗月の声が夜空を更に悲しませてしまったのか雨足は一層強まった。すると禁は口を開く、曰く「彩のことですか……」と。麗月は「又しても孤は玄則の心を傷ましめるやもしれぬ」と愁眉で彼の顔を見た。「宮の妻だけでなく禁も止めましたが彩は聞く耳を持ちませんでした、終いには髪を切り家を飛び出していきました。朱公は既にご覧になりましたか?彩の武勇は絶人、それだけでなく宮に似て萬書に通じ聡明です、……そして内は剛毅である所も似ました。この年になれば才のある孫が誇らしく、そして可愛いくて仕方がありません。出来れば内に留めておきたいとすら思います。その一方で、彩の心の内を思えば朱公の許で名を上げて欲しくもあります。鳳雛を貴い鳥だからと檻の中に閉じ込めておく事はなんと残酷なのでしょう。萬里を翔けることを夢見る雛も、檻の中に久しく居れば飛ぶ事すら忘れて地を這う鳳鳥となってしまうでしょう」と溜息をついた禁は杯を満たす酒を飲み干すと明るい顔を浮かべ麗月の事を見た。「彩は宮に似て落ち着き払っていますが簪を差す歳になったばかりです。幾つもの書を諳んじる事が出来るとはいえ未だ知らぬ事ばかりです。朱公、どうか彩のことを宜しく頼みましたぞ」と禁は自らの杯に酒を注ぎ麗月の方に掲げた。麗月もこれに「ああ」と頷き、同じく杯を掲げた。
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