騎射

夏になると麗月は黒龍衛の練兵に取り組み始めた。黒龍衛は麗月の護衛と隴国の防衛しか考えられていなかったため、馬に乗って戦うことは隊としてはできない。小少から弓馬に親しんでいた者がいないわけではない、例えば霍紅珠や華珀がそうであるように黒龍衛の凡そ三割が射御に通じていた。険に身を置く事を厭わない者たちが集まるため女人としてはその割合は多くも見えるが、麗月は亜南における戦を見越して皆に騎馬できるようになることを望んでいた。四百年前に徐将軍と甘将軍が亜世羅尉と沙羅尼を破ることが出来たのにはいくつかの理由がある。元々徐将軍は蘭京郡の生まれで亜水を渡って暮らしていた時期もあったという。そのため沙漠での暮らしや、亜南の地理、そして遊牧生活を送る亜世羅尉人の事情に明るかった。徐将軍は弓馬に優れていたが、それが勝利につながったわけではない―――戦が始まる前に韓に友好的な部族を調略し、戦が始まれば地理と遊牧生活の知識から敵の動きを読み、沙漠を行くことの困難が兵らに降りかかれば、それから身を守る術を彼らに伝えた。董国は九国時代では五覇に数えられる国力を誇っていたが、飛が延江以西を抑え統一を目前とした頃には失政が続き優れた臣の多くが国を離れ、異民族に領土を蝕まれていた。霍邦が韓を建てると、董の地の支配を取り戻すために三十万を超える兵を率いて遠征を行ったが徹底的に敗北した。これに対して徐甘両将軍の時代では一人の将が率いるのは精々一万程度、全軍で五万の小規模なものであったが連戦連勝であった。この違いは偏に精鋭騎兵で軍を固めていたからである、戦に於いて遊牧民族と対等に渡り合えるうえに、水に乏しい沙漠においては行軍速度は死活に繋がる。もし亜南への遠征を韓帝が決断するような事態があれば麗月は親征を行うつもりであり、そのためには近衛である黒龍衛にも騎馬に親しんでいてもらいたいのである。

令を伴って練兵場に向かった麗月は、紅珠と珀をはじめ馬を御すことを得意とするものが残りの黒龍衛に教えているのを眺めていた。ふと麗月は「そういえば気にしたこともなかったが瓏華は馬に乗れるのか?」と横にいる令に尋ねた。「ええ、程会に力を貸していた頃や蘭京郡にいた頃に乗らなければならないことが多かったから人並みには乗れるわ、妾は畜生に触れるのは嫌いだとはいえ。ただ今日は乗れないわ、いま妾が纏っている香は馬が好まないものだから噛まれてしまうわ」と答えた令に麗月は「孤も畜生を好まないが、それ以上に騎乗するために褲を穿くのを好まぬ」と言い、紅珠の穿いているような短い褲を令に見せた。「あら、紅龍もあの子たちに馬に乗って見せるつもりなのかしら」と令が言うと麗月は髪を結び「まぁ見ていろ」と彊と矢筒を背負い一頭の馬に近づいた。「久々だな、孤が中原で戦っていた頃は鐙も鉄騎も無かった、しかしなかなか精悍な顔つきではないか」と幾分身体の小さい馬に話しかけてからそれに跨ると、腹を蹴り駆け出した。麗月が馬を駆りだしたのに気付いた黒龍衛の者たちは皆それに注目した、その中で麗月は彊を手にして矢を手にし弦を控える、そして發せば次々と月支を摧いていく。疾駆しながらも手にした彊は微動だにせず、弦の音が鳴り響けば必ず月支に矢が突き刺さった。或いは、背を向いても馬と意を同じくしているかのように思うがままに御し、そして次々と馬蹄を散らしていく。その様を見ていた黒龍衛達は皆歓声を上げた―――彼女らがこの隊に志願する理由はいくつかある、例えば女人であっても名を成したい、或いは武芸そのものを好んでいるなどがあるが、麗月のことを慕い傍仕えをしたいという者も多い。

この日の夜も紅珠と珀は寝台を共にしていた。なにも紅珠は珀に口を吸われそして思慕していることを打ち明けられた事を忘れていた訳ではない、ただ珀が無理に侵してくるような人物ではないという事をよく知っており彼女の事を信じているのだ。だからこそこのようにあたかも姉妹のごとく共に枕を並べているのだ。ふと紅珠は「亜瑠和は故郷が恋しくなることはありませんか?」と傍らで横たわる珀に尋ねた。「いや、ないな。ここでは食事もおいしければ街や山も綺麗で毎日が楽しい。それは亜世羅尉でも同じだ、吾は下の方とは言え王女であるから衣食に困ったことはないからな。ただここでは何より気ままに生きることが出来る、もし韓が亜世羅尉の南を攻めて沙人を追い払ったとしても帰りたいと思わないな。沙羅尼の野蛮な文化ほどではないとはいえ、あそこでは王女であると言っても結局は女は物として扱われる、あのまま沙人が攻めてこなかったら数年のうちによく知らない男のもとに嫁がされていただろう、それならばいっそ自らの手で生死が決まる戦場に在るほうがまだ良い。弓馬を愉しみ、書を読み、遊び、凡そ何をすることに対しても道が開かれている此処で暮らすのが最もいいさ」と珀は紅珠を見て笑顔を浮かべた。紅珠がこのことを珀に尋ねたのには訳があった。紅珠が隴に来てからすでに二年が経とうとしている、そして彼女はすでに故郷を恋しいと思う気持ちを失っていた。遠く離れた地から故郷を想う詩というものはこれまで多く詠まれて来た、それなのに自らはもはや生まれ育った飛の地の事などどうでもよいと思うようになってしまっていたことに気づき、己の薄情さを申し訳なく思っていたのだ。珀のこの言葉を聞いた紅珠は、それならばこれからは自らの故郷は隴の鍾陰とすればよいのだと思うようになった。しかし素直に頷いてそれを認めることはせず「それならば、朱公や荀公を敬うべきです。そのような風土がこの地に根付いたのは両公の力によるものなのですから」と珀に言うと、彼女はこれを鼻で笑った。珀は「もちろんあの女たちの才は人の枠にある吾等では決してたどりつけぬ境地にあることぐらい分かっているさ。ただあの性が気に食わないだけさ」と言う、それを聞いた紅珠はくすりと笑うのであった。

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