聖戦

正子を過ぎてから十刻余が過ぎると、瑠瑠と亜李珠の二人は冷え切った夜の闇の中で配下の刺客たちを引き連れて動き始めた。黒衣を纏った女たちは城壁を歩く歩哨の間を縫って鉤縄を壁に投げてそれを登る。兵らは油断していた訳ではない、油は足りていて火は灯され続けているし、彼らは眠らず歩き回っている。しかし、漆黒の闇と同じ衣を纏った刺客ら百人余は歩哨の目を掻い潜り不流苦の街の城壁を越えて朱麗月が休む邸に向かって駆け始めた。もしも自分ら二人が討ち損じた時のことを考えて大量に女人の刺客を送り込んでいるのだ。城の隅にある邸、隴軍が接収したそこで麗月は寝ていた、そしてそれを刺客らは知っていた。不流苦の街から沙国は兵を退かせてはいるものの間者を残しているのである、何せ亜国の東部に住むものと沙国の西に住むものは容姿は余り変わらず、また両国の言葉を用いることが出来る者も多い、そのため沙国の西の端に住む者たちは即ち郷間となり得るのだ。夜の闇に紛れて麗月が眠る邸へと迫っていく刺客たち、瑠瑠と亜李珠はその邸の周りに衛兵がおらずまた火も灯されていない事に気づく。之を不審にも思ったが既に敵地に在りては退く事はできない―――尤も、麗月はここ最近いつも誰かと寝台を共にしているため人払いをしているだけに過ぎないのだが。二人は手下の刺客たちを街中に散らさせ闇夜に潜ませてから邸の中へと忍び込む。夜目の利く彼女たちが目にするのは何らかの豪奢な調度品も飾られることはなくただ晒された土壁で囲まれた室内であった。幾ら戦地であるとは言え、高貴なものは仮初の居所を飾りたがるものである、そのため本当にこの邸に麗月が居るのか疑いたくもなったが、ただ足音を消して寝房に向かうのみであった。寝台の目の前に迫った二人は俄かにその動きを止めた、その寝台にいるのは一人では無いからだ。亜李珠が姉の瑠瑠に目配せをすると、姉は静かに頷き二本の短い曲刀を鞘から抜く、その双方の手に力が籠る―――これまで鬼籍に送って来た者たちの中の誰よりも優れた武勇を持つとされる麗月の前にして僅かに震えていたのだ。素早く寝台に駆け寄った瑠瑠。麗月の寝首を今当に掻かんとした瑠瑠の腹に俄かに音も無く何者かの掌が添えられる―――忽として彼女は土壁に吹き飛ばされた、彼女は壁に叩きつけられ衝撃で手にしていた曲刀を離してしまい、室内に甲高い音が響いた。新月の夜、天窓の光が届かぬ冥室に在っても赤い双眸が妖しく輝き二人を射抜いていた。暗闇の中に在りても僅かに分かるその玉姿は伝え聞くほど短小ではない、その光で微かに明らかになる目許、憂いを帯びているように思わせるそれはすぐに二人に彼女があの荀令であると分からせた―――そう、沙国に敵う者無しと言われた示武劉を討った女傑であると。それと共に令の傍らで麗月が起き上がったのを目にした刺客の二人はすぐさま邸から逃げ去っていった。

「あれほど気を昂らせれば寝ている虎も起きてしまうだろう。それにしても館昌公ではなく孤の許にやってくるとはな」と麗月が寝台の側にあった鉞戟を手にしながらそう言うと「瓏華、胸甲は何処に在る?」と令に問いかける。それに対して「いえ、あの者らが不意の反撃で素直に退いて行くところを見ると妾たちは囲まれていることでしょうね。妾は直ぐに黒龍衛が詰めている処まで駆けるわ、そうすれば刺客の気を引けるでしょうし、たどり着いた後に黒龍衛と城内にいる白龍騎士と祓憂兵を刺客狩りにけしかければ事はすぐに収まるでしょう」と令は言うと何も持たず、そして何も纏わず邸から飛び出していった。

髪も結わず、胸甲もつけなければ空拳で戦う事も難しく、また街路に沿わず真っ直ぐに黒龍衛が屯するところに向かうために飛び跳ね駆けたりすればかなりの痛みを伴うだろう。しかし決してこれは勇に逸ったものでもなく、ましてや麗月への情に乱されているわけではない、令には正算があるのだ。自分が夜の街を駆ければ増援を嫌がりあの二人は手下たちを差し向けるだろう、しかしながら、あの二人は自分が出た後に戦う備えを整えた麗月が邸から出てくるのを待ち構えている事だろう。あの二人の武、不用意さを思えば麗月が狭い路地を選ばなければ軽くいなせるものであるだろうし、その手下たちは更に劣るだろう。例え全く戦いに備えていない自分であっても途上で襲い来るこれらを躱して黒龍衛を呼びに行くことは十分にできることだろうと。その算は正しく、裸で家々の屋上を駆ける令を数多の匕首が襲う。黒衣に身を包んだ刺客らもまた屋上に駆け上り、その姿を捉えると匕首を令に向けて投げつけてきているのだ。それは流矢の如く令の道を遮るが、片方の腕で揺れる長四尺の乳を抑えながらも巧みに冥き闇夜を舞いて光も無く襲い来るそれらを避ける、その様は輕雲に蔽された月のように髣髴でありながらも刺客たちの眼に確と灼きついた。その身に至らんとする刃は微かな手の動きだけで其の道を変え、或いはそれを掴み投げ返すと精確に刺客の喉に刺さった。遂に、胸甲で乳を抑えねば鈍重と為らざるを得ない令に追いつく事が出来た三人の刺客が彼女を取り囲む。街の所々で炊かれる炬で微かに照らされる玉姿、俄かに一人が短刀を腰に構えて令に襲い掛かる、猛る猪の如く疾きそれを僅かな所作で躱し、すれ違いざまにその首に拳を叩き下ろし其の頚を折ったがその女は死してなお、令の脚にしがみつきその動きを封じる。好機と見た余りの二人は曲刀を手に時を同じくして令に襲い掛かる。令はその切先がその身体に至る時、ふと瞼を閉じた―――再び目を開いた時、襲い掛かって来た二人の胸には刀が深々と刺さりその切先を背から晒していた。令は足に纏わりついた骸を蹴り払うと再びかけ始めた。

「荀公!?」と黒龍衛が屯する舎に辿り着いた令を見た夜番が、髪も結わず血の衣だけを纏ったその姿見て大声を上げた。躯は矍鑠としているものの、肩で息をし、いつもの情を感じさせない愁眉ではなく明らかに疲れを含んだ顔をしていたことが起きていた黒龍衛の者らをより強く驚愕させたのだ。起こされて集って来た黒龍衛の女たちは皆顔を赤くした、羅衣すら纏わぬ荀瓏華、その容華は朝陽彩雲の様であり皆はその任を忘れかけてしまった。令が俄かにその皓手で彼女らを指差し、顧みれば彩光が遺る。朱脣が動き辞が吐かれると司馬彩はそれを見て思わず衣を整える手を止めて見入ってしまった。「刺客が街に入り込んでいる。妾がそのうちの多くの者を引き付けたが、紅龍は未だ刺客の将と戦っているでしょう。皆よ、其々伍を組み奴らを打ち払え」と令が号すると、黒龍衛の者達は気を発して未明の街へと駆け始めた。「春光、妾の胸甲の余りがあるでしょう。持ってきて妾に付けてくれ」と令が彩の方を見ると、これに対して彩は「荀公、気が枯れている御様子。あとはお任せください」とこれを諫めた。令はこれを受け容れず「妾は無理をせぬ、早くしなさい。それから、春光は霍君と華将軍の三人で動く様に」と言いつけた。

令には不安があった、麗月の武は首魁の二人を容易く討ち破るものであるが、対して刺客というものは往々にして標的がその武を存分に振るえぬ場へと追い込むのが得意なものである。麗月が衣服を整え鉞戟を手にして邸の外に出ると、どこからか匕首が襲い掛かってくる。麗月はこれが自らの方に飛来するのを感じ取りて俊敏に避け、更にはそれが放たれた処へと駆け寄った。しかしそこには誰の姿も感じ取ることが出来ない、麗月は不敵な笑みを浮かべ「成程、隠れるのは巧いようだな」と独り言ちた。その麗月を更に四本の匕首が襲う、このうちの三本が土壁を叩くと僅かに火花を上げるが闇を照らすほどのものではなかった。一つを掴み取った麗月はそれを投げられた処に返してみるが、やはり微かな手応えすらない。彼女は通りに出ることを選んだ。開けたところに出ると、途端に激しい刃の雨に晒される、麗月はこれを翻りながら縦横無尽に避け少しずつ黒龍衛が屯している処へと進んでいく。「孤を掠らせることすら敵わぬようだが、隠れるのだけは巧いようだな」と麗月が大笑すると彼女に瞬然と二人が斬りかかる。気配を消し、そして且つ飛燕の如く襲い掛かって来た其の二撃を麗月は戟の柄で受け止めた。後ろを顧みる、その建物の中は随分と広いようだ、麗月は二人から飛び退いた。

沙教の廟だろうか、床には東域の絨毯が敷かれてはいるが椅子などは無く、ただの広い間であった。沙教では像を拝むことを禁じているためそこには何もないのだろう、そしてそれは長柄を手にする麗月にとって都合が良い。猴猿の如く室内を跳ねまわりながら四方八方から放たれる匕首、それに加えて鋭い斬撃が前後左右天地から前触れもなく襲い掛かってくる。麗月は廟の真中から敢えて動かず、あたかも令の様に僅かな動きでこれらを躱す事を選んだ。麗月に向けられる刃のうちその多くを巧みに避けるか受け流してはいるものの、やはり彼女は駆けまわり敵の動きを乱すことを得意としているため避けているばかりということには慣れておらず、その柔肌に幾本もの赤い線が引かれて行く。時折、機を見て襲い来る斬撃に合わせて戟を振るうがそれは空を切る、すんでのところでもう一人が背からこの攻撃に合わせてくるため避けざるを得ず、戟を振り切ることは叶わず寧ろ傷を増やしてしまってすらいた。寝ている所を起こされて気が乱れていることもあり、麗月が精彩を欠いていることは否めない。ただ、これが長引けば長引くほど麗月は有利である、これ程の神速の斬撃を繰り出していれば二人は疲弊するだろう、それにやがては令が呼びに行った黒龍衛がここに突入してくるだろう。そしてそれを二人も分かっていた―――瑠瑠は亜李珠に目配せをする、二人は共に麗月に向けて匕首を投げつける、しかしそれは空を切り甲高い音を上げる―――避けられた、否、初めから当てようとしていないのだ、寧ろ麗月の動きを封じるようにその輪郭を射抜いたのである。それと共に瑠瑠は天井を蹴り麗月に迫る、その時曲刀を手にしてはいるものの構えてはいなかった、それと共に亜李珠は地を這うように麗月に迫る。忽として瑠瑠は刀を腰に構えそれで麗月を貫かんとした、これまで一度も見せていない刺突である。瑠瑠の手に伝わる人体を貫いた時のその確かな感触―――目の前には愛しい妹の貌があった。瑠瑠の目の前が赤く染まった、自らの口から吐いた血である、背から戈で心の臓を貫かれているのだ。二人は膝を折った、そして武器から手を離すと確と抱き合いそれから地に伏した。

麗月は廟を立ち去ろうとしたが、一度だけ振り返った。「若し之が沙人の言う処の聖戦であれば汝らは誰ぞ」と零した麗月は僅かな間だけ二人に対する憐れみをその貌に浮かべたが、すぐに去って行った。聖戦、沙教の経典に依れば異教の徒との戦いで斃れたのであればその魂魄は天の国へと行くことが出来るのだとされていることを麗月はふと思い出した。

女人が自らの意のままに生きることは韓でも難しい、虞王朝が権威を失いやがて九国の時代に至る中で、公国において政を為す姫がしばしば見られるがこれらは虞王族から嫁いできた女がその威を借りていたに過ぎないし、韓の時代で権勢を振るった太后が幾人か見られるがそれも太后だからである。そのような事もあって、麗月や令が世に出た頃は女人が政に関わることは悪とされた。ただ、そうした太平の世における事は往々にして乱世においては崩れるものである。荀令はその超世の才もあるが、家柄も優れていた故に紅の壮王程会に重用された。寧原荀氏は嘗て今の汝国下爽郡の辺りに在った荀国の公の血を引いている。荀氏は虞の王族であり、その地の公に封せられた際に氏を荀とした、つまり荀令の姓は虞王族と同じ姫氏である―――尤も、寧原荀氏は荀国が汝国に攻め滅ぼされため江を渡り寧原に住むようになったのが起源であるが。ちなみに、兵書を記した程武も九国に収斂していくなかで滅びた程国の公族であり、韓皇族霍氏も元は霍国の公であった。韓の霍氏は丘卑の侵掠や内乱によって国を追われ河を渡った先の韓国の内乱に乗じて韓の地で再び公となるという数奇な運命を辿っている。対して麗月の生まれについては史書には書かれていない。―――麗月の母は女倡であった。父が誰であるか、母も麗月も知らなかった。ただ、母は少容の令人であるだけでなく詩歌を広く知り舞や楽器に精通していたため、麗月を産み春を売ることを止めてからも富貴の者らに大層寵愛され食うのには困らず、書を買えるほどには豊かであった。麗月が音楽や詩歌を好むのは母によるものである―――ただ、瑜文王の論文では「珠国朱紅龍の詩、閑にして麗たるを見れど其の性朴なり、志は小さく大人の風無し」と高く評価されていないのであるが。こうして少きときに音楽と詩に親しみ諸書を通読した麗月は成人すると鬼相を持ち膂力過人であったため、母と同じように色を売るよりは侠者となることを選んだ。彼女のもとには多くのならず者たちが集ったが、麗月がしたことは弱きを助け、強きを挫く事であった、賊や黒清衆の残党の襲撃から民を守り、商人たちの諍いを仲裁し、似た境遇の少女たちを集め学問と武芸を仕込んだ。ただ、名声が高くなり過ぎたため、郡の太守には恐れられるようになった。やがて、瑜武王となる周雲が旗揚げをし珠郡を手にすると麗月を登用した―――史書には友人であったとされているが、実のところ、珠郡における麗月の名声を鑑みてこれを登用しただけに過ぎない。そして亦、麗月は力を持ちながら誰にも与せぬ事の危うさを知っていたため、これを素直に受け入れた。はじめは雲をはじめとする周および太史一族の夫人の護衛に過ぎなかったが、董翊の反乱の際にこれらを良く守ったことから武人としても重用されるようになる。麗月が重用された理由はこれだけではない、史家の間で何故女人である麗月があれほど重用されて最後は隴の公になったかという議論になると、雲に容姿を以てして寵愛されていたと理由も無く言われることがあるが、実のところこれは半ば正しい。麗月が雲に仕え始めると、母を周一族の夫人たちの家の近くに住まわせた、母の事を良く慕っていたため、これを護れる処に置いておきたかったのである。麗月の母は、麗月が槍働きする年になってもその麗姿は全く衰えなかった。雲は寡婦や倡婦を大いに好んだため、これを一目見た時すぐに自らのものとした、つまり麗月は雲の假子にあたるのだ。豈に孤の者の如く假子を愛する人有らんや、との言が残っているように雲は連れ子の事も自分の子の様に扱った、そのため後に文王となる周霖は麗月を姉のように慕った―――尤も気難しい文王に嫌われている假子もいたのだが―――麗月は文王が韓帝から禅譲を受ける事を世が乱れる元となると諫めこれを遂に止めたが、あの気難しい事で知られる文王に最後まで疎まれなかったのはこうした理由に依るものである。麗月が公となったのはその自らの才に依るところが大きいが、母が瑜の太祖の寵愛を受けていなければ今は俗世から離れて隠れ住む仙女になっていたところだろう。それを麗月もこれを良く解っているため、時流に恵まれず没することになった沙羅尼の少女たちを憐れむほか無かったのだ。

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