服従

不流苦の街に入った麗月は、飛の驃騎将軍衛信を見るや「孤は長きに渡って戦場に在ったが、衛将軍のように長駆して勝ちを得るという者は稀にしか見たことが無い。卿はその先祖である軍神衛晃を超える将才と武があるようだ」と褒めたたえた。三国の時代に知将かつ勇将として名を馳せた朱麗月に褒められたとあれば、幾ら祖先に因縁があろうとそう悪い気にはならないのだが、信には何らかの返す言葉が思い浮かばなかった。というのも、信は敢えて攻めようとはしていなかったからだ。麗月が彼を褒めることはつまり、信の知は足らず、司馬彩が正しかったと言われ続けているのに近かった。しかし、ただ褒められることを良しとしないだけの誇りが信にはあり「いえ朱公、長駆すべしと提案したのは司馬君です。信は、沙軍の馬利苦の陣を見て退くべきと考えておりました」と言った。ただ、これに麗月は「誰しも、多くの事に思い至ることはできない、人でも、仙女でも、例え瓏華であってもそうだろう。だからこそ、将らの言を聞き、思惟し、決することが出来た卿はその才を誇っていい。衛将軍よ、下の将から多くの策が挙げられる中で、その中で正しいものを選ぶことができたのは当に将軍としての才だ、それは誇るべきものだ」と諭した。これに対して信はただ頷く事しかできなかった。どうも難しい、麗月は才についてしか褒めないからだ、人、それ自体を褒めていないのだ。

不流苦の街に入った麗月は暫しの間、兵を休めることに専念することにした。韓軍の三つの軍勢は全て羅水まで進んでいる、亜世羅尉の都である羅地の沙軍は南に周嫣率いる瑜軍、西を韓軍に抑えられてはいるものの川を挟んでいるため素直に引き下がるなどはしなかった。羅地に攻撃を仕掛けるにあたり、太史徳は北の亜軍に使者を出しその南進を待つ事ととした。亜軍の前進にどれほどの日がかかるかは分からないがとりあえずは十日ほどは休むことが出来るだろう。兵らは不流苦の城の郊外に張られた陣で英気を養っていた、こうしたとき気の弛みから狼藉を働き統率が乱れるという事はよくある。しかし飛、隴、そして紅の兵らは軍法を守る事を良く教え込まれているからか、それとも、乱れた行いをする気力もないのか、粛々と陣で休んでいた。麗月は接収した一人で書を読み耽っていた。沙漠の日差しの強さは嫌にはなるが、耐えられない暑さではない、何しろ山に囲まれた鍾陰の熱がたまり易く夏は暑いからだ、そしてまた冬は寒い。日差しさえ遮ることが出来れば良く休むことが出来る。寝台に転がり雑記を読んでいた麗月の許に、司馬彩がやってきた。曰く、先の戦での自身のとった作戦について論議したいと。麗月はこれを受け容れ、夜が更けるまで論じ合った。彩がどのような事を考えてそれを選んだかを述べ、それに対して麗月が自分であるのならばこうした、であったり、自分でも同じことを考えるなどと評をする。沙漠の夜は寒く、これを繰り返しているうちに酷く冷え込んできた。麗月は戯れに「冷えてきたな。司馬君よ、孤と共に眠るか?」と笑った。彩がこれに対して素直に頷いたため麗月は面食らったが傍らに彩を置いて眠りについた。

暫くすると麗月は目を覚ます、何しろ彩が麗月の身体を強く抱きしめ、そしてその顔に頬摺りをし、更に唇を吸い始めたからだ。「嫌でしたか」と彩は申し訳なさそうに零す。麗月は「春光よ……、君は美しい。孤は寧ろ嬉しい」と笑った。衣を脱ぎ去り露わになる彩の肢体。瑳瑳とした肌、ほの昏くも妖しく閑たる貌、荀令ほどでは無いが豊かで形のいい胸、これらは強く麗月を惑わせた―――この麗しい骨像、彩はまだ若いがそれにしても少女の朝霞の如き婉やかさを失っていない。黒龍衛、かつて龍士と呼ばれた鬼相を持つ女人のうち戦場に赴く者らは鬼術を用いて天地の理と身体を同じくし、月のものを止めている。そのため、少女の肌を保つことが出来るが、長くそれが続けば子を為すことが出来なくなる。華底関尉の王放の妻のように戦の無い平穏なうちに黒龍衛から退いた者であれば子を為すことができるだろうが、紅への遠征、そして東に長駆し亜世羅尉の地まで麗月に従い遠征に従事している黒龍衛の女たちはもう誰かに嫁ぎ子を為すことは叶わないだろう。尤も彼女たちはそれを望んでいるのかもしれない、朱紅龍や荀瓏華のように史書に名が残る烈女となることに憧れ、誰のもとにも嫁ぐつもりが無い者がすすんで黒龍衛となるからだ―――故に鬼相があると言い張って黒龍衛の籍に名を連ねようとする女たちもいる。黒龍衛から身を退いた後は、隴の各地に散らばり学問を教えるか、或いは商人の護衛になるか、或いは狩人になることが多いという。「ああ、朱公よ。彩は朱公と荀公のような烈女に憧れ、それだけでなくその麗しい容姿を見るたびに淫らな想いを抱くのです。こうして朱公の身体に触れることができている今は、彩の身に余る幸せに心が狂いそうです」と述懐しながらその柔らかい肌を只管麗月に押しつけている彩は、ふと「ただ、彩はどうも他の女に言い寄られても寝止を共にしようとは思わぬのです。何をしたら良いのかが分かりませぬ、書に記されている所をを見たことがありませぬ」と麗月から離れた。「ならば、孤が君に教えよう。案ずるな、春光よ、君は美しい。孤が惑うほどに。君は聡い、孤が重用しようと思うほどに」と、麗月は彩を抱き寄せ囁いた。

翌朝、目を覚ました麗月はその傍に在る共に夜を過ごした彩の身体を優しく撫でていた。軍議においては令のように落ち着き払った涼しい貌を崩すことはない、ただ今眠りながら見せている姝貌はやはり妙年の少女のものであった。その夭夭たるは桃李の花、皓質は灼灼として輝光あり、この身に縋りて悦懌する其の貌は九春の如く、寝台に横になりて磬折するは秋霜に似たり。彩の躯を慈しんでいた麗月の許に令と数人の黒龍衛の女がやってきた。「紅龍、太史将軍が討たれたわ」と令が告げると麗月は、なんと、と驚いた。彩もその声に目を覚まし、身体を隠す様に麗月に抱き着きながらも首を令らの方に向け「次席の将軍は無事であるのですか?」と問いかける。「ええ、秦霊将軍が韓軍の兵を纏めているわ。刺客の手によるものだから軍には被害が無いものの、動揺は抑えられないでしょうね」と令は二人に近付いた。「あの時、凌将軍が言っておった沙国の刺客か……、聞けば鬼相を持つ女人らだという。太史将軍は先の遠征では粛々と北で勝ちを得続け、此度の戦でも堅実であった。将才のある人物であった」と麗月が漏らすと令は「ええ……。そうね」と呟いた。恐らくは本土からの援軍を待つために、刺客を以てして韓軍を揺さぶり、足止めをするつもりなのだろう。麗月らの気は重くなるばかりであった。

―――この夜、不流苦の街の近くで二人の女が肌を寄せ合っていた。一人は韓の字にあてるのならば名は瑠瑠と言い、もう一人は亜李珠と言った。この二人は沙人であり、鬼相を持つ女人として生まれた。沙人と言えど、東に近付くほどそれほど亜人との見た目は変わらず、彼女らは唯の旅人として見做されているが、実のところ二人は刺客であった。沙国に双子として生まれ二人はお互いに愛し合っていた。男子同士、女人同士で愛し合う事は沙教では大罪と見做され鞭で打たれるか、或いは石を投げられるかして殺される。そして死後は天界に行くことはできず、業火で焼き続けられ永遠に苦しみ続けるのだと言う。しかしながら、沙教の言う処の聖戦、異教徒を服従させるための戦いに従事し続け戦場で死んだのならば、生前の罪を許されるとされている―――尤も、高貴な者らの間では和龍が経典を纏めるまでの風習からか同性の間の情愛は広く愉しまれているのだが。彼女らは高貴な生まれではない、ただ、鬼相を持っていた。そのため彼女たちは刺客としてその任に在る時以外は自由に生きていた。奴婢闘士のうち、婢の刺客は奴から集められたあの黒々とした甲を帯びる精鋭の騎士のように将兵らの尊敬を集める事は無いが、喰うには困らず、寧ろ豪奢な暮らしができるくらいであった。また奴婢闘士であれば従者を持つことが許される、つまりつがいのうち一人が鬼相であれば、戦場に在り続けなければならないという点を除けば自由なのである。「姉上、次に討つべきは韓の国のうち一つ、隴国の公であるという。その公は女人だと聞くわ」と亜李珠は傍に在る姉の瑠瑠にそう言う。「だからなんだというのだ。彼女に降り沙国から逃れたところで、また別のものに服従することになるだけだ」と瑠瑠は妹の頭を撫でた。それに対して妹は、そうね、と返し微笑むのみであった。沙教の神を、彼女たちは信じている訳ではない。しかしながらその教えに表だけでも服従しておけば、このように二人で生きることが出来るのだ、わざわざこれまでの生き方を変える理由など彼女たちには無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る