太子
朱麗月らが刺客を退けてから一週ほどすると、亜世羅尉の軍は南下を始めた。それに伴い沙軍は羅地から退がり、それどころか尉夜の街も放棄して夜水沿いに陣を張った。南亜は沙漠が広がっているとはいえ、羅水と夜水の二つの川は水かさが多く、それに伴いその川沿いの街は潤っている。夜水の西岸に陣を張った韓軍は、対岸の沙軍に手を出せずにいたがそれは沙軍も同じであった。ある日の夜、沙軍本陣の幕舎で西征の総大将である沙国の太子、和進は葡萄酒を味わっていると、そこに一人の男が入って来た。「酒を飲んでいることが王にばれたらまずいことになるぞ」と彼は和進に対してそう言った。「区狼、吾は既に危うき立場にあるのだ」と和進は笑うのみであった。沙国の将軍の一人である区狼は沙国貴族の子息であり幼いころから和進と仲が良かった。酒の入った盃を和進から手渡されると彼はそれを飲み干し横に座った。沙教は酒を飲むことを強く禁じているが、貴族たちは構わず酒を嗜んでいた。ただ、王は沙教を国の礎として政を行っているため、近頃は飲酒を糾弾されて放免される高官も増えてきている。沙教の強い異教のものへの侮蔑は積極的な外征へと国を導いていった。現王の外征によって二十年も経たないうちに沙羅尼の版図は韓に勝るほどまでに広がった。その外征の中で和進そして区狼の二人は頭角を現した、彼らは優れた将才を持ち、沙国の精鋭の騎兵を率いて東域を駆け回り十国余りを服従させるに至った。「儘ならぬものだな、勝ちを得続けることが君を不幸にしてしまうとは」と区狼が言うと、和進は哀し気に笑い「それは君も同じだろう」と言うだけであった―――彼らの率いる軍が破竹の勢いで多くの国を下していった事は、王に過大な自信を抱かせた。そして深まる沙教への傾倒がその智を曇らせた。歳を重ねた事もあり傲慢になった王は家臣の反対を押し切り、韓への雪辱を果たすための西征を開始したのである。和進を始めとして多くの将がこれを諫めた、曰く、服従させた諸国の統治は未だ落ち着いていない、兵は東征したばかりで疲れきっている、或いは長らく続く外征と近頃の不作に依る財政の悪化で国内も乱れはじめている、と。和進も「亜世羅尉に攻め入った時点で、国乱が収まって久しい韓という眠れる虎を起こすことになる。韓がそうであったように南亜を陥としそして紅に入ることが出来たとしても山がちな北亜を攻め落とすことはできず、国を脅かされた韓と亜世羅尉は互いに助け合いこちらに立ち向かってくるだろう」と父である王を諫めたが、これが王の強い不興を買った。韓がそうであったように、との言が王の癪に障ったのである。結果として多くの歴戦の将が投獄され、和進は王に「勝ちを得るまで国に帰って来てはならぬ」と言われ今に至った。和進は将才と華々しい戦功によって多くの将兵そして民から慕われていたがそれが王の嫉妬を買っていたし、彼は服従させた国の統治に於いて厳しい沙教の法を緩めていたこともあって太子としての王からの愛も薄れていた。「しかし、どのようにすればこの身に迫る禍を避けることが出来たのだろうか……」と和進が問うと、区狼は「董を通り北亜を挟撃するというのはこの苦しい戦いで勝ちを得るための唯一の道であったことは間違いない。ただ歴戦の将を王によって失い、示武劉を用いざるを得なくなっていたことがまずかったな、君は羅地を離れるわけにはいかないのだから。軽率で粗暴なあの男では諍いを起こさず内通した紅の地を通る事などできぬだろう、とは言え奴以外に大軍を動かせる立場の者がいない。君が才のある若い将を新たに見出して、これが成し遂げたのならば、更に君の立場は危うくなるだろう」と返し、お互いに溜息をついた。示武劉は妾の子であったが、その母は近頃王から大いに寵愛されており、それに伴い、彼に王の寵愛も移ろい和進の身は危うくなる一方であった、彼の戦死は大いに父を怒らせたことだろう。「もうすぐ本国からの父自ら率いる援軍が来ると言うが、それでも負けは変わらぬだろうな」と和進が酒を呷ると、区狼は何かを閃いたのか目を見開いた。すぐにその意図に気づいた和進は「君が吾の身を慮ってくれるのは嬉しい、ただ、これ以上不名誉を背負わせないでくれ」とこれを諫めて盃に酒を満たした。和進の諫言に区狼は素直に頷いたものの、その心の内は変わらなかった。あの狂王を除かなければ沙羅尼は滅びる、積み重なった民の不満、諸国の叛意、諸臣の猜疑心、友である和進の身を護るだけでなく、自らの身を護るためにも狂王を除かねばならないのだ。
夜水に臨んでいた麗月は対岸の見事な陣を見て「これは長引くだろうな」と独り言ちた。傍らにいた荀令は筆と紙を持ち数学の問題に挑んでいた―――三国の乱が終わってから数学というものは大いに発展した、韓の権威が弱まり多くの思想が許容されるようになり数学が思想から分かたれたからである。この時代に入り円周率の精密な値が求められたり幾何学や求積法が発展していく中で令が数学を大いに飛躍させることが出来たのは、彼女が建築に携わるものや商人たちが用いている算術記号から着想を得てこれを形式化し函数論の中に記して広めたことによる。そのどちらも卑しい身分とされ古い士大夫はその風習など取り入れようとはしなかったが、今日の自由な風がその受容を許したのだ。また、微積分には高い実用性が認められ、例えば関数の展開を用いた開平方の高精度化は高く評価された―――令は麗月の言を聞いて「亜国の地に入ってからと言うもの、沙の軍略に誤りはない。ただ、前線の将の才が乏しく、それに対する韓の将の才が勝ったことによってここまで押し込めることが出来た。妾が思うに、沙国の内で何か諍いがあったのではないかしら」と筆を止めた。「そうかもしれぬな」と麗月は笑ったが、続けて「とは言え、遂に沙軍の優れた将と戦うことになる。この戦で勝ちを得ればこの東征は終わるが……」と暗い面持ちになった。異国で長駆を続けた兵らは疲れ切っており、川を越えて敵陣を討ち破る大胆な策をとることは難しいからだ、それに対して沙国はもう目の前である。俄かに二人の許に伝令が現れた、曰く「亜世羅尉の王がお見えです」と。二人は幕舎に向かった。
「隴公の朱麗月です、お会いできて光栄に思います」と麗月が言うと、それを訳した令が王に伝える。「韓が我が国の要請に応えてくれたことに、亜世羅尉は強い感謝を抱いている。時に、我が娘の亜瑠和がお世話になっていると聞いたのだが……」と王が麗月に問うと、彼女は人を遣わし華珀を幕舎に呼び出した。この場に現れた珀は父の姿を見るや「父上!」と声を挙げて王に駆け寄った。「おお、亜瑠和!お前が無事であることは何たる幸運か!」と王は涙を浮かべ甲を帯び腰に剣を提げた娘を抱き寄せた。暫くの間、幕舎の中は静まり返っていたが、王が口を開いた、曰く「吾が無力であるがゆえに、君に苦しい思いをさせた。甲を帯びて、民を率いて戦わせてしまうなど王として恥じる事しかできぬ」と。これに対して珀は「父上、過ぎた事です。父上は沙国の侵掠に対して決して諦めなかった、だからこそこうして再び会うことができ、そして失った地を取り返しつつあるのです」と言った。王は娘の姿をまじまじと見た、数年前は頑童であった彼女であるが、今は凛々しい顔つきになり、名将の風すらもある。「亜瑠和の噂はよく耳にする、民を率いて韓人と共に沙軍に立ち向かい勇敢に戦い勝ちを得続けてきたと。皆が口をそろえて国の英傑と言っている。戦が終わり亜世羅尉に戻ってきたら皆大いに喜ぶだろう」と王が言うと、珀は静かに首を振った。そして凛とした声で「父上、吾は隴公に救われ、韓に降った亜世羅尉の兵を率いる将の位を拝しました。戦が終わっても、恩を返すために韓の地で将軍であり続けるつもりです」と言った。これを聞いた王は暫しの間悲し気な顔を浮かべたが、確と頷き麗月の顔を見た。「娘をよろしく頼む」と王が言うと麗月は恭しく拱手した。王が去り、そして珀も去って行った幕舎の中で麗月は「心にもないことを良く言うものだな」と笑いながら独り言ちると令は「意外にも恩を感じているのではないかしら」と麗月の方を見た。「どうせ誰の許にも嫁がず、武芸と学問に打ち込みたいだけだろう。まぁ孤はそれを止めはしないが」と言った麗月に令は歩み寄り「そうできる地を作ったのは紛れもなく紅龍よ、捻くれてばかりいるのも良くないわ」とその頭に手を置き、そして撫でた。「瓏華がらしくもない事を言う」と麗月はそう言って彼女に抱き着き笑った。
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