王
両軍が夜水を挟んで対陣してから一月が経った。韓の地においては秋に差し掛かるころであるが、そこから遥か東方であるこの地に於いて暑さは已むことを知らない。敵情を探るための生間を送り続けてはいるものの開けた地である事から得られるものは少なく、ただ本土が近くなった沙軍の陣が厚くなっていくことを知るのみであった。幸い敵方からの大きな攻勢の様子は見られず、川を渡らんと浮橋の掛けようとしてくるのを牽制し続けているだけの日々が続いていることに頭を痛めた朱麗月は自陣の近くにある接収した屋敷の閨で一人ため息をついていた。陣形図を眺めながらああでもない、こうでもないと紙の上で指を動かしていた麗月の背を、ふらりと現れた荀令が優しく抱いた。「堅き盾を砕くにはどうしたらよいものか」との麗月の言に令は「妾が錘を振りおろせば砕けるわ」と答える、それを聞いた麗月は少しの間笑った。それから「しかしどうしたものか、対陣が長く続けば韓から遠く離れた異国の地に陣を張る我ら不利だ。まだ一月であるからこそ兵らの気は弛んではおらぬが、こうして陣から動けぬ日々が続けば次第に兵らは動くことを忘れ緩慢になり危うきことに気づかぬようになる」とため息をついた。「巧久を未だ見ないのは戦自体が民を疲弊させ国を傾けるだけでなく、単に戦に於いて弱い手であるということでもある、と」と令が言うとそれに対して麗月は「瓏華には何か策はないのか?孤に思いつくのは内通を持ちかけられそうなものを何とか探し出して沙王の位置を探りそれを討つことくらいしかない、あの立派な陣に大量の援軍、親征に間違いないだろう。考えていたよりも沙軍は良く粘る、孤にはこの戦の終わらせ方が分からぬ」と頼りない声で問いかける。令はこれに対して「妾も紅龍と同じことしか思い浮かばないわ」と同意を示すが、それから続けて「でも案外、そのための好機はすぐにこちらに転がって来るのではないかしら、一時期は韓をも脅かした沙羅尼の西征、あやつらは今や手にした地はほぼ全て失った、そして兵をあまりにも多く損なった。羅地を失ったこと、韓と亜世羅尉が合したこと、それらは迫りくる敗北を悟るには充分、こちらに決するための策がないにも拘らず。こちらに寝返る将が出始めるでしょうね」と辺りを歩きながら述べた後に壁に凭れ掛かった。ちょうどその瞬間、伝令の者が現れた、曰く「敵将が面会を求めている」と。麗月は「瓏華の眼は全てのものを見通すようだ」と笑うと令は「紅龍を励ますために言っただけ」とそっけなく返した。これは全くの事実で、そのような事も有り得る、程度に考えていた。しかしながら策を弄して敵将たちを相疑わせ軍を裂かせることを考えていた、ただそれを為すためにはまだまだ間者による情報が今は足りていないのだ。
それは舞い込んできた幸運であった、夜にこちらの陣に忍び込んできた敵将が求めたものは一族の亜世羅尉への亡命であり、そしてその見返りは沙軍の布陣図であった。この将の名は韓の字を当てると巴李台と書く事ができる、彼の言は以下のようであった、曰く「東征を始める前に、それを諫めた多くの将が誅された、これまでの戦で功のあった嫡子の和進も王に疎まれている。和進に従い勝ちを得ていた間は良かったが、負けが続き大いに怒りあの狂った王が戦場にまで来たのならば最早従っていられない、吾を含め多くの将が王の癇癪を恐れ逃げたがっている」と。彼は沙国の西の端の豪族の生まれであり、亜国の言葉を解した。そのため、自ら斥候を買って出た、という体で此処にやってきたのだ。華珀は彼の言葉を訳しその場にいた麗月をはじめとする将らに伝えると皆が目を見開いた、その短き藁に縋りたくなるほどうまくいきすぎているのだ。司馬彩は声を上げた、曰く「信じてよいのではないでしょうか。罠にはなり得ないでしょう、此の者が持ち込んだ陣図を見るに、王の陣を軍を率いて急襲しても得られるものなどありません、将兵の命を失うだけでしょう。となれば刺客を送り敵王を殺す、もしくは朱公が黒龍衛を率いて潜り込み王を捕らえる、という事になる。後者が良いでしょう、沙羅尼という国を破ることができるかもしれません。いずれにせよ、ごく少数による夜襲となればそれを識ることなどできませんし、機を選ぶことができるのはいつでも攻める側ですから敵は気を磨り減らすだけになります」と。麗月はこれを聞き珀の方を見る、そして「亜瑠和よ、卿の父にこの者の一族を受け容れさせることはできるか?」と問いかけた。珀は「できるだろう。一度この陣で父上に会ってからも何度か書簡のやり取りをしているが、韓への恩は大きく、韓からの頼みを無下には出来ぬだろう」と返す、これに対して麗月は頷いた。それから珀はそちらの寝返りを受け容れる、と巴李台に伝えるとそれから幾らか言葉を交わし最後は紙にそれぞれが約定を書く、そして彼は沙国の陣へと帰って行った。
新月の日の夕暮れ。この日まで両軍は目立った動きを見せず、両陣営はそれぞれどこか弛緩しているように感じられた。本陣には黒龍衛二百が集い盃を手にしていた、麗月は傍らの霍紅珠が抱えた樽から酒を汲みそれぞれの杯に注いでいく。彩の作戦はこうであった。新月の夜に麗月率いる黒龍衛二百が速やかに渡河し沙王の屯する地に向かいこれを襲い捕らえる、この際、周りの兵や建物を悉く摧き王の生死を沙国に悟らせぬようにする。黒龍衛が陣に戻るとき、異変に気付き麗月らのもとに殺到するであろう沙軍を牽制するために白龍騎士、隴山兵、弩馬兵、祓憂兵、麒麟騎といった精鋭を渡河させ、そして黒龍衛の道をこじ開ける。当に総力をぶつけるといったものであり、その尖兵となる黒龍衛の脚は竦みそうなものであったが彼女らの意気は軒高であった。当に陣を出るその時、麗月の陣に伝令が現れた、曰く「尉夜の街の周りに陣を張った北の韓、亜世羅尉軍が急襲を受けている」と。この場にいた諸将は伝令が広げた陣営図に目を遣った。彩は真っ先に口を開き「朱公、我が軍はこのまま作戦を続けるべきでしょう」と言う、それに麗月は頷いた。だがその後「法将軍。卿は騎兵を率いて瑜軍の陣へ向かい、半ばほどで引き返せ」と命令した。凌白は得心したかのように頷いた、曰く、「なるほど。秦将軍は岸の陣を亜世羅尉の兵を中心とし薄く組み、代わりに羅地に向かって幾重にも並べている。この布陣図を見るに、亜兵は北に逃れ、韓兵は西に逃げ引き込み、その後に瑜軍を含めた三方から叩くつもりだ。我らの兵は間に合わぬだろう、とは言えこの陣から馬が土煙を上げて北上せぬのは敵に疑われるだろう。理に適っている」と。麗月は大いに笑い「そうだな、その布陣、秦将軍、それに亜世羅尉の王は智謀に優れているようだな。ただ沙軍の和進と言う者は敬にして深慮がある、大きく打ち破ることは出来ないだろう」と言った。陣を駆けだしていった騎兵を見送った黒龍衛らは杯の酒を飲み干す、そして敵地に入ってからは歌うことができない故にこの場で大いにあの詩を揚々と歌い始めた。
天下飛将朱紅龍、美髪垂兮如天女、玉姿嬌兮容應図、飄颻舞兮如遊龍。
天下飛将朱紅龍、以戟摧兮如鬼神、操彊射兮如雷霆、萬人敵兮如天人。
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