飛隴連合
五百二十三年、春は二月。朱麗月は鍾陰にて軍を興し、四軍を率いて鍾陽に向かい二軍と合流、呉章に向かい更に一軍と合流し総勢七軍四万余を率いて呉水を渡った。一月に太陵郡から攻め寄せた沙軍の内、先登となる精鋭兵を呉水の滸にて大いに打ち破っていた隴軍は大した抵抗も受けず渡水した。そのため麗月はすぐさま呉水を渡った先にある沙陽県の城を包囲する。包囲をはじめて一日もすれば、城壁から首を斬られた沙人の死体が投げ捨てられて門は開かれた。城内からは一人の男が現れ、麗月の許に歩み寄ると静かに傅きその名を名乗った、曰く、「沙陽県令、諸葛経と申します」と。それから続いて「長旅でお疲れでしょう、中へお入りください」と経が言ったため、麗月は軍に場外の攻城陣での待機を命じ、荀令、霍紅珠、それから司馬宮ら軍師職の者達だけを連れて県庁へと向かった。
「状況が掴めぬな。沙国の南方軍は太陵の城まで引いているのだろうが、それにしてもこうも簡単に県の城を督する沙人達を切り捨てて開城できるとは」と麗月が素直にそう言うと、経は顔を上げぬままこう答えた、「太陵公は賊の大軍が押し寄せると直ぐに降伏しました。そして、言われるがままに糧秣を差し出し、兵も差し出しました、それから女人たちも。ただ、言われればこちらで取りまとめてその分だけを差し出すので民を虐げないように、と懇願しながら……。そのため無辜の民が理由もなく賊徒に殺され家を焼かれ穀物を奪われ女が連れ去られるということは、他の郡から逃れてきた民の話から推し量るよりは少なくすんでいます」と。それを聞いた麗月は「易曰く、利を見るは大人なりと。太陵公には民に降りかかる害を少なくする英知があるようだ、それは公が持つべき徳だ。竹を割るかのように韓を犯す夷狄に抗い百の生民のうち一を遺すのみとなるよりは、その情けなさを誹謗されることになったとしても五十、いや七十を生かし、薪を枕として韓朝の軍の到来を待ち続けた方が良い。孤は勅命を受けてこの地に来た、韓朝は夷狄を討つために六十軍余を興した、渡江した瑜軍と官軍も孤の軍と同じように当に多くの県を救っている所だろう。汝王霍安曰く、目に秋毫の末を察すれば耳に雷霆の声を聞かず。太陵公は目の前を舞う木の葉に惑わされず華山を望むことができるようだ」と経を慰めるようにそう言った。それから「孤は之より、此の地に軍を屯し飛軍の到来を待つ、そして合流した後に太陵を奪還する。諸葛沙陽よ、君はこれまで通り県令としての任に励む様に。散り散りになった民の行方を調べ纏めあげ、司馬君らと論じ民らが飢えぬ程度の量の糧秣を供してくれ。また地理に明るい者がおれば隴軍でこれを雇う、これらについても諸君に任せる」と言うと麗月は陣へと戻った。
陣に戻った麗月は早速筆を取った、太陵公に内通を持ちかけるためだ。「夏侯註春秋曰く、君子刑人に近かづかず。しかし、史書を読めば分かる様に如何なる聖人や賢者であっても、その身に幾度かは禍が降りかかっています、これは当に天地の性に陽あれば陰もまたあるということであり、福あれば禍もあるということに他なりません。君子と雖も禍を避けることはできませんが、しかし被る害を減らすことはできます。陶の虞斉は太子でありましたが、自分の子を太子にしようと目論む父の寵姫から叛意ありとの讒言を受けて死を賜りました。斉は既に老齢であった父を思えば亡命する事などできず自殺しました。このように孝行な子であっても史書には、危うい立場にありながらもそれを弁えず逃れようとしなかったことを以て、自分の身を守るための思慮が足らなかったとの評が残されています。紅の桓王は兄である厲王が美しいと思えば妹であっても孕ませ、気に入らない者はすぐに殺すという涼抗王の徒であったため一度国を離れますが、厲王が弒されるとすぐに紅に戻り国をまとめ上げました。董の謀臣慶瑜はその類稀な才を以てして董王の復讐を成し遂げさせ、更に董を五覇の一つに押し上げました。しかし、高慢になり諫言を聞かなくなった王を見て国を去りました。曰く、狡兎死して良狗烹らる、と。この二人は国を捨てていますが、時流を読んで先を識る才があったと評されています。人は智を以てして禍を免れること貴びます、そして時流を読むに長けていることを以て人はこれを明と呼びます。三国の時代に於いて隴州牧の霍承の後を継いだ霍琮は太祖の軍を見てすぐさま降伏したため、隴北は戦で荒れることもなく、学を尊ぶ風土も残り、隴は今でも優れた才士で溢れています。飛州牧霍疑はその統治時代にいくつかの反乱があったものの無駄な戦はせず何とかこれを治めていました、そこに同族である霍立が攻め寄せきた際に幾戦かして自軍が不利であることを悟ると降伏しました。民を安らげて慈しむことを徳と言います。哀しいことに霍立は民を騙して盾にして太祖から逃げ周り、流れ着いた飛の地に於いて民を酷使しました。これを抗と呼び、君子はこれを卑しみます。公が夷狄の大軍に降伏したことは徳行です、利を見る事が出来る大人です。程武は算多きを尊びました、公が廟算し、哀しいことに七つの計の多くで勝ちを見ず戦わなかったことは、これは当に古人の言う智であり、万民が尊ぶ徳であります。天子の詔により興された義軍は百余軍であり、金鼓を以て天地を大いに震わせ三路から攻め入り東胡を踏みつぶさんとしているところです。隴と飛の義士が集う三十軍は今まさに呉水を越えて既にいくつかの県を奪還しました。公が民をよく慮られたため沙国による禍は少なく、公の慈愛に感謝する声が孤の耳にいくつも聞こえてきます。どうか、孤の軍を前にして城に籠るような事はしないでください、孤の軍に追われて逃げる沙軍を城の中に入れるような事をしないでください」と、筆を取った麗月は一度も字を違えることなくすぐさまこれを書き上げて近くの者に渡した。
飛軍の到着を待つあいだ、麗月は民を見て回りこれを慰撫した。当面の食に困っている者には糧秣を惜しみなく分け与えたため、民は隴軍に大いに感謝した。また難を逃れた民が集い県城の周りに家を建て始めると黒龍衛を連れてこれを手伝った、膂力に優れる鬼士の協力は当に天人が地に降り立ち人を助けるようなものであり民は隴軍を慕うようになった。麗月の性は高慢で他人の利を考える事など無い、太祖に従ったのも乱が収まれば酒、女、遊び、そして学問に浸れると思っただけに過ぎないし、隴公として善政を敷くのもその程度の理由しかない、尤も、人が難しいとする事を易々と為すことに楽しみを見出している部分も大きいが。しかしながら民の信頼を得るためにこうして恩を売ればこれから長く続く遠征において貴重な兵糧や軍器として帰ってくるだろう、そう思えば安いものだと考えて動いていただけに過ぎなかった。程武曰く、智将は務めて敵に食む、と。敵の兵糧を得て、そして敵地の糧秣を得る。麗月は、略奪のみが敵を食むということではないということを知っているというだけだった。麗月がこうしている間、宮は経を通じて敵や地形の情報を探っていた、地形を隅々まで知ることは兵を助け、流民たちの見たものを聞きそれを集めて行くことは数百里先を見るに等しいから。
麗月が沙陽県に入り十日が過ぎると、遂に飛軍が隴軍に合流した。久方ぶりに衛信と相見えた麗月は嘗て彼を散々に破った事を気にして自分からは声を掛けなかったが、信は馬を降りて「飛国驃騎将軍として申し上げます、飛国の八軍、これより隴公の指揮下に入ります」と麗月に拱手した。これに対して返す言葉が暫く思い浮かばなかった麗月であったが、これを見兼ねた信が「朱公ともあろう御人が何を躊躇っているのでしょうか、これは国事でありますぞ」と言ったため「将軍の働きに期待しているぞ」と麗月は信に近付き背伸びをしてその肩を叩いた。こうして飛隴連合の十五軍は二百余里先の太陵の城を目指して進軍を開始した。
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