斉陵

朱麗月が朝に沙陽県を出て太陵の城に向かって東に進軍を始めて夕方に差し掛かる頃、斉陵と呼ばれる丘陵に広く沙羅尼の軍勢が布陣しているのを目にした。太陵の南東の山地から湧き出た水がこの斉陵をぐるりと回り海に流れていく、その様を指して人はこの川を迂水と呼んでいた。斉陵に南から登れば急であり、しかし北側はなだらかである。麗月は斥候を放つと斉陵から迂水を挟んで西の坂に布陣を始めさせた。翌日、斥候が戻ってくると諸将を幕舎に集めた。斥候の集めた情報が書き込まれた地図を見た衛信は「斉陵の北、迂水の畔の范の村まで広く布陣している様だな、まるで水を盾にするようにして。瑜軍が北から真っすぐ太陵に攻めてこれを陥落させれば孤立、これを救援に行けば背を我が軍に突かれる危ない布陣のように見える。だが瑜軍は臥湖の東から延江を渡って夏郡に向かっているところなのだろう。その報せを受けているか、それとも大軍であればできる限り平坦な道を進軍するだろうと読んだか、だからこそ、その地に布陣が出来していると」と布陣図を見て言った。「大胆だな、孤は迂水の北岸の丘にでも布陣してくるかと思っていたが……」と麗月が言うと「瑜軍の動きを読めているのならこの位置が正解です、水に不安の無い丘陵地で守りに適していますし、何より太陵城の周りと違い戦場を縦横に使うことができます」と司馬宮がそう述べた。「その通りだ、だからこそ退いてもらおうじゃないか」と麗月は迂水に沿って指を動かした。「太陵との道を断つ、かのように見える偽の陣を敷いていこう」と麗月が言うと「勿論、それで太陵の城まで退かせられれば良いですが、そううまくいくものでもないでしょう。相手は十五軍から二十軍、我が方より少し多い。いずれにせよ大軍でありその動きは鈍重、包囲や道の断絶を恐れても軽々とは動けず陣の様子を慎重に見てくるでしょう」と宮はそれに大筋では同意しつつもそう反駁した。「偽の陣で北に動かないのならば実際に陣にしてしまえばいいわ。陣を構築している間は夜襲や様子見の攻勢、船を流しているだけでも対岸の陣への牽制をしづらいでしょうね。二陣ほど作ってしまえば奴らは引くでしょう、もし川を挟んでいなかったのならば何処かを破って突破し裏から包囲されるかもしれないけれど」と荀令が言うと「そうですね、ただ無理矢理にでも押してくるかもしれませんから相手にもしかしたらと思わせるほどの勢いのある奇襲をかけていく必要があります、敵軍の兵力を削り士気を殺ぐような」と宮は言い、麗月は、然り、とそれに答えた。

この軍議の後、信はすぐに資材を積み込んだ車と工作兵たちを迂水を少し離れて進ませ自身もそれの護衛として麒麟騎と共に陣を出た。翌日になると斉陵から川を挟んで北に飛国の軍旗が翻るようになるが沙軍は如何なる動きも見せなかった。それから二日経っても尚、川を挟んで相対して敵軍の陣に動きは見えない。白日が正中に向かう頃に麗月は諸将を集めた。「頭と手足を引っ込めた亀のようだな、殴りかかればこちらの拳が痛むだけだ」と麗月は対岸の陣を見てそう独り言ちると「今から十軍を北の陣に移動させる。魯将軍、龐将軍、こちらへ来い」と諸将に対してそう言った。諸将が移動の準備のために其々の兵の許へと歩み去っていくと魯璿と龐琳は麗月に歩み寄りこれに傅いた。「良く聞け、卿らは日が沈むころに対岸に渡り敵陣に奇襲を掛けよ、そうだな、このように攻めかけてはどうだろうか……」と麗月が不敵な笑みを浮かべてその仔細を彼らに伝えると、二将軍は拱手し手勢の許へと向かっていった。黒龍衛や白龍騎士を含む十軍は信らが構築した偽の陣にたどり着くとすぐさま陣を張り始めた。天が赤く染まり日没が近づく、その赤い夕陽が兵たちを急かすものの其の作業は中々終わらない。丁度その頃、対岸から火の手が上がっていた。

璿はこの時、自ら精鋭弩兵千を率いて密かに渡河し火矢を浴びせかけていた。星漢の如き流矢が天を彩ると多くの幕舎が燃え上がり、混乱に陥った沙軍の兵が陣内を右往左往していた。燃え死ぬものが多々現れるも、陣内では金鼓の音が鳴り響き璿の兵らに射返さんと弩や弓を手にした沙兵が集まらんとしていた。その様子を見た璿は手にした鬼彊を引き絞り、厚い鎧を着込んだ隊や部曲の長を正確に撃ち抜いていった。その必中たること、引き絞った弓から雷霆の如き矢が飛び弦の音が鳴り響くたびに沙兵の死体が積み重なっていくほどであった。しかしそれでも沙軍は数が多く次から次へと新手が現れ、次第に置き盾が密に並べられて兵を射抜くことが難しくなってくる。弓や弩を抱えた者のみが集まった一部が現れると璿は「頃合いですね」と副将に言い全軍を退かせた。これを沙軍の兵が追いかけんと走り出すと、その奥で攻勢を他に任せ燃え盛る幕舎の火を消そうと必死になっている兵たちが吹き飛び、辺り一面が鮮血に染まった。琳が軽装の隴山兵を引き連れて薄暮の中、陣に突入してきていたのだ。琳は得物の巨大な斬馬刀を頭上で振り回し虎が吠えるかのような勇ましい声を上げ左右の敵兵を威圧した。そして漆黒の気を全身に纏いながら敵兵の群れを穿つように突進しその斬馬刀を一薙ぎすると十の肉体が二つに引き裂かれた。この後方の騒ぎに気付いた沙軍の弓弩兵たちは璿らを追うのをやめ曲刀を鞘から抜いて踵を返す、それに素早く気が付いた琳は左右の隴山兵に「散!」と声をかけると彼らは散り散りになり四方八方へと退いていった。日は沈み天の遺り火と陣営を焼く火だけがこの場を照らす中、沙兵はどれを追ったら良いかの見当も付かず唯途方に暮れて燃え盛る陣を眺めていた。

夜になると麗月率いる十軍は、信が後に幕舎を立てやすいよう地均しをしていた事もあって易々と陣を敷き終えて兵たちは幕舎で休んでいた。麗月は荀令、霍紅珠と共に川の畔へと向かい沙軍の巨大な陣の一角から上がる火が天を焼く様を見ていた。「二将軍の奇襲はうまくいったようだな」と麗月は白酒で満たされた杯を乾かすと、令は彼女に歩み寄り酒瓶を受け取り自らの杯に注いだ。「連携が取れねばどちらもうまく退けない奇襲にあの不睦の二将軍を使うとは、紅龍は人が悪いわね」と令が麗月を揶揄って言うと「優れた将というものは国家の大事に於いてはそのような些事を顧みぬものだ、三国の時代にいがみ合っていた李遼、魏進、劉通が力を合わせて寡兵で紅の大軍を追い返したように。そもそも、この奇襲はあの二人が適任だ、両将軍の仲が悪かろうが孤の知ったことではない」と麗月はそう言い返して令の身体を撫でた。

翌日、麗月はこの陣の更に西に新たな偽の陣を作るために信を使わせた、これで斉陵に陣を構える沙軍の西と北を抑えることになる。麗月は幕舎に宮を呼ぶと「孤は今宵、斉陵に散歩でもしようかと思っておるのだが……」と彼の意見を請うた。これに対して宮は「陣地の転換に合わせて攪乱するために奇襲をする、二度目は通用しないでしょう。しかし、次の陣が真のものとなれば沙軍は苦しいですから、奇襲を仕掛けた翌日に無理を通してでも陣の構築の最中を狙って軍を動かしで来るでしょう。ですので、朱公が今宵奇襲をかけようとするのは理に適っています、沙軍は混乱し、憔悴するでしょう。ただ、ご無理はなさらないように」と麗月の言を肯定した。「あいわかった、四隊二百を選抜して真夜中に奇襲をかける」と麗月は虞娥に仔細を任せると「瓏華は此処に残れ、孤が戻れぬかもしれんからな。霍君もだ」と笑って令に声をかけた。「ええ」と令は素っ気なく返事をするだけであったが紅珠はこれに異を唱えた。「天に朱公が無ければこの飛隴連合の軍は勝ちを得ることができますでしょうか。何故このような危ういことを公自らなさるのですか?」と紅珠が声を荒げると「霍君、妾にもしもの際の後事を託すなどというような物言いは紅龍の冗談に過ぎないわ。紅龍は必ず戻ってくる、あれほど多くの戦場を駆けて命を落としていないということは退くべき時に退く事が出来る聰慧さを持っているということ」と令はこれを制止した。「でしたら、紅珠が朱公について行っても良いということですか?もし朱公に危機が訪れたら身代わりになるくらいのことならできます」と紅珠は麗月に向かって言い張った。「孤のために戦うことだけが恩を返す方法でもないだろう」と麗月は言いはするがその口ぶりは弱く、無理にでも止めようとはしていなかった。何せ、自ら髪を切り落としたように紅珠は剛毅な所がある、止めるのも労力の無駄であると考えたからだ。ただ令はそんな彼女に対して「戦場は子供が遊ぶところではないわ、恩を返したいだけならば紅龍の馬車をずっと御しているだけでいいでしょう。妾や紅龍の武は人とは異なる、そして黒龍衛の者たちは霍君と異なり何年も鍛錬を積んできている。霍君が紅龍と共に行けばその足手纏いとなるだけだわ、だから紅龍を困らせるような事を言わないで」と続けて諫めたがこれを見た麗月は少し思案したのち不敵な笑みを浮かべた。「まぁよい、霍君もついてくると良いだろう。だが孤からは十歩以上は離れるな」と紅珠の同行を認めると、彼女たちは夜を待った。

朧月の弱い光が仄かに闇夜を照らす中、麗月が率いる黒龍衛は密かに川を渡った。実の所、麗月には紅珠が頑なに同行せんとする心持ちが分からなくもなかった。飛の公主であった彼女が、公の愛妾だとか、車を御しているだけと揶揄されるような立場にあればそれを情けなくも思うだろう、と。かつて麗月が瑜の武王の軍に誘われて参入した当初は夫人たちの護衛でしかなかった。麗月はその当時、これを情けなく思い武侠であった頃を懐かしく思ったものだから。名を成す事など微塵も考えず、天下を憂うのは自らの欲の為。自分の事しか考えていない麗月でさえそう思ったのだ、況や紅珠をや。ただ、一度剣林を知れば心が懲りてこのような我儘を言わなくはなるのではないかとも麗月は目論んでいた。敵を殲滅するために戦う場ではないのだから、多少は紅珠を守るように動いても良いだろう、とこの時は考えた。茂みの中を這って進み、黒龍衛四隊は沙軍の陣の半里前まで近づいた。予め宮らに集めさせた地図から、すぐに逃れられるように少なくとも三方が林と茂みになっている場所を見て回っていた麗月たちの眼前には穀倉や輜重が並んでいた、兵糧庫である。兵が集ってはいるが本営があると思われる開けた地よりは離れている。「火をかけるぞ」と麗月は娥に声をかけると彼女は手で皆に合図した。黒龍衛は皆静かに合掌し身体の気を整える、一刻の間その場には遠くから微かに聞こえる兵たちの声と、風が木を揺らす音だけが漂っていた。そして時が経つと、俄かに輜重や穀倉から火の手が上がり始めた。「行くぞ!」と麗月が叫ぶと其々が伍を組み火の粉が舞い散る営へと駆け寄った、この場に沙兵が集い火を消されればその被害は小さくなる、この太陵の沙軍を速やかに破る為にも偶々見かけたこの兵糧庫はできる限り盛大に焼いておかなければならない。麗月は鉞戟を手に虎豹の様に敵兵の間を穿つ、それは騰蛇が暴れ狂うかのようでもあり、その堅き鱗に触れた万物が砕かれて行くように、麗月の振るう鉞戟は沙羅尼の優れた鍛冶の手によってつくられた鱗鎧を纏った兵を容易く両断した。他の伍らも見事に統率された動きで機敏に駆けて回り、連日の夜襲、それも陣の外郭ではなく奥まったところの兵糧庫への奇襲に完全に恐慌に陥っていた沙兵を狩って回っていた。しかしそれでも、たかが四隊に対して営に屯していたのは一軍に満たないまでも数部はある敵集団である。多くは怯えて逃げ出すか腰を抜かして戦えないままであったがこうしている間も次から次へと彼女たちの許に兵は殺到してくる。麗月の人を遥かに超えた狡捷な動きに紅珠は必死について回った、十歩以上離れるなと言われた通りに彼女の疾駆に食らいついていた、綴った金でその身を燦爛と輝かす天女に縋りつくように、ただ只管に追いかけた。麗月の前方の敵はその手に依って打ち砕かれて行くが、掻き分けた水がすぐ満ちるように兵は麗月の過ぎ去った後ろから彼女を追いかけまわす。頭を抑えられなければどうとでもなる、麗月はそう思っていたが紅珠はそうは思っておらず矢を番えて麗月を追う兵たちを次々と射抜いていった。その必中たること、麗月が空にあっても律儀に十歩以上離れぬように飛び跳ねて宙を舞っている間でも放たれたその矢は敵兵の喉や顔を射抜いた。例え走り回りながらであってもその弦を引く力は弱まることを知らず、紅珠の放つ矢は時折二人の兵を同時に貫いた。こうして一刻程暴れまわると、麗月は「退くぞ!」と叫び黒龍衛を退却させる、四隊はそれぞれの伯長にしたがって四方へと散り茂みや林に溶け込んでいったためそのあまりの勢いに統率を失い恐慌していた沙兵はこれを追う事はできなかった。自陣へと戻って来た麗月に、令は何も言わず水の入った杯を差し出す。それから紅珠に目を遣ると「生きて戻って来たのね」と、陣に着くなり疲労からかへたり込んでいた彼女に冷たくそう言った。「まぁそう冷たくするな」と麗月は自らの手にした杯にもう一度水を満たす様に令に促すとそれを紅珠に与えた。

翌日、沙軍は北岸に更に新たな陣が出来上がっているのを見ると軍を纏め東から遠回りをして太陵まで退く動きを見せた。これを見た宮は「追いますか?」と麗月に問う。しかし麗月はこれに対し「昨晩、孤が沙軍の兵糧庫を焼いてしまったから奴らの動きが早まった。少しの備えもなく横腹をただ単につけばこちらの被害が大きくなるだろう」とこれを止めた。宮はそれに肯定を示さず「いや、更に憔悴させるべきでしょう。飛軍弓騎を東の陣に送り麒麟騎と合させ撤退する沙軍に疎らに攻撃を仕掛けましょう」と言った。麗月は「宜しい、すぐに向かわせろ」とこの提案を認めた。こうして斉陵での睨み合いは終わり、兵を多く損なってはいないものの大いに疲弊した沙軍は退き、その途上でも執拗な弓騎兵の追撃を受けて困憊したまま太陵城のすぐ南の要害、三顎に陣を張った。

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