三顎

斉陵から迂水を挟んで北側には広大な水はけの良い台地が広がり、太陵の城もそこに位置している。この地は米を育てるには向かなかったため畑作が盛んであり、果樹や茶畑も多い。迂水の畔からは切り立った崖が百餘里続いており、これを越えるには大きく西から回るか三つの険しい隘路を登るほかない。古来より、人はこの三つの隘路を三顎と呼んでいた。飛隴連合軍はこの三顎のそれぞれの入口に陣を敷き沙軍と対峙することを選んだ。麗月は今、最も東の入口に向けて移動する途上にあり、斉陵の北、迂水の南岸にある范の村を通りがかっていた。態々二度の渡河が必要になる行軍を行っていたのには理由があり、台地の近い北岸で軍を動かすことによって三陣の陣容が沙軍に見られてしまう、ということを避けるためであった。村の家々は多くが焼け落ちており、所々にある男や子供たちの死骸が積まれた山を目にした。兵たちの背丈の何倍にも堆く積まれた屍の山には蠅が集っており近くを通る麗月たちの耳にもその羽音が届いた。焼け残った家には婦女たちの亡骸が多くあり、衣裳は暴かれたうえに両の手は縛られておりそれらが沙兵たちに侵され殺されたものだというのは明らかであった。中には簪を差す前の少女のものも散見された。こうした惨状に紅珠は強く心を痛め、車を止めて馬を降り、麗月に傅きながらこう進言した、「どうして彼らの亡骸を放って軍を進めることができるでしょうか。紅珠は彼らを葬ってから三顎に向かうべきだと思います」と。麗月は「この先、このような屍山を築かぬために孤の軍は戦っておるのだ。既に沙軍が三顎の奥に布陣を始めている今、ここで遅れる訳にはいかない」と冷たく言った。しかしながら「民の埋葬に千の兵を裂け」と近くの者に伝え、紅珠に車を進めるように促した。「遺火熏熏而穢天、黒雨淒淒而清世」と、ふと麗月は口にした。三百九十年、今より百三十三年前に起きた黒清衆の乱の叛徒たちが口にしていた句である。神代を土徳とすれば、涼が木徳、虞が金徳、韓が火徳となり、水徳である黒清衆がこれにとって代わるとしていたのである。「狂信者とは嫌なものね。賂は罷り通り、重税を課せられた民は苦しみそれを更に相次ぐ天災が襲った。これを救わんと立ち上がった道士の志から外れ賊徒と化したその教徒たちは、教えを信じる自らが天に選ばれしものと勘違いし、教えを信じない民から略奪して回るだけに成り果ててしまった」と令は静かにそう言った。令の生まれた寧原郡は中原から遠く離れた江東の地であったがそれでもその余波は届いていたからよくこれを記憶していた。麗月はこの乱があった頃には珠郡のあたりで義侠を気取っており、親を失ったとか鬼士だからと捨てられた娘たちを率いて人々をこの暴動から守っていた。この乱の後も、麗月は黒清衆に悩まされた。瑜の太祖はこの乱の後も淵丘郡のあたりでたむろしていた残党を吸収し、このなかで特に精悍なものを尖兵として戦で用いていた。彼らは強く多くの戦果も挙げたが素行は極めて悪く、麗月は周雲の配下の軍人として軍規を守るために淵丘の兵のうち略奪に走った者らを討伐して回っていた。そのため、麗月は彼ら、延いては狂信者の類を強く嫌悪しており令の言葉には何も返さずただ静かに車の行く先を見ているだけであった。韓において、兵は軍法により無辜の民を殺戮する、民から略奪を行う、婦女を凌辱するなどの狼藉を厳しく禁じている―――尤も、古代においては民を慈しむという徳に基づいた軍法であったが、現代では狼藉を許して兵の統率が弛むこと、更に戦後の統治を難しくするということを避けるためという、実利に基づいたものであるが。例えば隴の軍法ではこれらの行為を行った場合、それを行った者だけでなく属する伍の員までも死罪となる。ただ、伍の他の者がこれを上官に報告した場合は罪を免れる。隴は他の三国よりも刑罰が軽い事で知られている、他国では伍が連座するだけでなく故郷の両親と妻子まで死罪となる。瑜の国の軍法では戦地にある田畑の麦の穂を踏むだけでも罰されたくらいである。九国の早い時代に生まれた兵書では賞罰を用いて兵を動かすのは徳が失われたからである、としているものもあるが今日では賞罰を徹底することが将の資質の一つとされている。軍法に厳しい麗月は殊更こういった狼藉を嫌い蔑むのは当然の事であった。

三顎の内、最も東の路の入口に麗月が五軍を率いてたどり着くと陣の設営を始める。それから何日かの間、司馬宮は斥候を送り敵陣の様子を探っていたがそれが纏まると他の二陣に中央の陣で軍議を行うとの使者をだした。得られた情報を元に敵味方の軍を表す駒が並べられた地図の周りに諸将は集まった。「三顎全てを堅く守っている様ですね、そしてこれまでどの陣にも攻撃を仕掛けて来ていない、山の如く微動だにしませんね」と璿は言った。「しかし、三顎を越えた先の台地に広く敷かれた陣は西からの攻勢に備えていない様子。騎兵を長駆させればこれが打開できるやもしれませんな」と昭は地図をなぞりながらそう言う、その道程は百餘里で、例えば神速の行軍を持て囃された太史洪が「三日五百、六日千」と謳われたように一日で駆けて敵を討てる距離である。韓の地図はこの時代には既にその距離が正確であった、三角測量の概念が三国の争いが膠着し始めた頃の瑜の国で既に生まれていたからである、その成立には麗月も大きく関わっていた。令が百年ほど前に左遷された先の蘭京で記した書物である函数論という書の一節でこれの精密な議論を展開した、その中で大地が球である事に令が気づいたため、三国の和が成り立った後に多くの精密な地図が作られた。「上策です。これに合わせて三路からも駆け上がれば打ち破れるかもしれません、何の策も持たずに単純に包囲を作り上げても勝ちを得ることはできるでしょう。これまでの戦から、恐らく今相対している沙軍は亜兵と沙兵の混合軍で練度も一部を除いて高くは無いでしょう、将も判断が遅く紅軍を苦しめた主力の軍団ではないかもしれません。ただ勝ちは得られても遠征を長く続けられる体力を保てるとは思いません、多くの兵が失われるでしょう、長駆して包囲するためこちらの騎兵の勢いも鈍るでしょう、だからこそ相手を崩す何かが欲しいところです」と宮は口早にそう言って陣形図を眺めていた。「河潰蟻孔端、山壊由猿穴」と麗月はふと笑い、更に続けて「孤が山猿になって見せようか?」と大語した。「最も太陵の城に近い東の陣にいる不死軍を朱公が引き摺り出し穴を開けるということですか?」と宮は麗月に尋ねる。「なに、これまで衛将軍の麒麟騎や飛国弓騎をこき使ってばかりで孤がのんびりと過ごしているのも立つ瀬がないと思ってな。孤も古の飛将たちのように騎射に興じてみたいと思っていたところだ」とそれに笑いながら答え、それから続けて「折角沙軍は川に囲まれた地から退いてくれたんだ、戦場を縦横に使おうじゃないか。誰か霍君に鉄馬を貸してやってくれ、孤はその背に乗り麒麟騎と飛国弓騎を従えて主力を台地の下まで引き摺り出し、その先に伏兵を置きこれで殲滅する」と言って筆を取った。令はそれを見て共に筆を取り自軍の駒を並び替えながら二人で地図に書き込んでいく。二人のその姿を見た諸将は唯大いに感嘆するのみであった。

数日駆けて三陣に屯する兵たちを作戦に合わせてその配置を転換した麗月は、この日の昼過ぎに陣を出た。既にこの日の早朝に昭の率いる白龍騎士を先頭にした鉄騎の一軍が出立した後の事であった。信の率いる麒麟騎、それに弓騎を合わせて一軍にも満たない軍勢で三顎の内もっとも東の坂を登り始めた。この坂は曲がりくねってはいるものの他に比べて道幅は広く、また険しくもなかった。そのため残りの二つにも街道が作られてはいるものの、近隣の農民や行商はおおよそこの道を使って行き来した。飛国の馬はその山がちな国土に合わせて、武帝が東征から持ち帰って来た駿馬と韓の在来の馬を掛け合わて作られたものである。その疾さは他には及ばないが性格は穏やかで粗食に耐え、更に険しい道でも退かなかった。麗月が五里に渡るその坂道を紅珠が御す馬の背に乗り騎兵を率いて進む中、辺りを見渡した彼女は信に声をかける、曰く「茂みや木々が思ったより聚生しておるな、弓を手にするのは半数に留めよ」と。これに対して信は「御意。奇襲に備え気を疎かにせぬように全軍に伝えます」と応え副将に言伝した。数刻かけてこの坂を登りきると少し開けた平らな地がありその数里奥の広大な平地にはまるで壁の様に沙軍の陣が広がっていた。「様子見だ、一度孤と麒麟騎だけで肉薄し矢を射かけるぞ!」と号令すると三百騎ほどの集団で麗月は沙軍の陣に迫る。弩を構えた敵兵たちが矢を放たんとするのを目にすればすぐさま敵の眼前で右に流れる、流矢が空を埋め尽くす中疾駆する麒麟騎たち其々はこれを避け、或いは短戟を手にした騎兵が前に出てこれを打ち払う。一度この射撃を掻い潜れば弓を手にした者達が唸りを上げて敵兵に迫る矢を放つ。これを沙軍の兵たちが厚い盾で必死に凌ぐがある者はその盾すらを貫いて短兵の身体に矢を突き立てる。麗月と信は他の兵の何倍もの速さで次々と矢を番えてはそれを放った、一見すれば狙いをつけている様には全くもって見えないが、鬼士のみを集めた麒麟騎よりも遥かに力強い弦の音が響き渡る度に沙軍の列の者が必ず倒れた。霹靂が轟くような音を上げて飛ぶ信の矢は盾ごと沙兵を貫きその奥の弩兵二、三を貫いてからやっとその勢いを失った、一方でしなやかに飛ぶ麗月の矢は敷き詰められた盾の僅かな隙間を縫ってその奥の兵の身体を穿った。沙軍の弩兵が屈んで背の膂力を用いて矢を番え二度目を放つ準備ができると麗月は手で合図し麒麟騎を後方へ退かせた。流矢は去っていく騎兵の群れの右に降り注ぎ生い茂る芝を暴いた。それを見て騎兵たちは身体を捻り背を向きまた陣に矢を浴びせるのであった。しかし、この挑発には敵兵は易々とは乗らず陣に籠ったままであった。「朱公、次は軽騎を行かせますか?」と信が問うと「やめておけ。鬼士でなくても多勢を以てして盾の上を越して雨の様に降らせれば敵兵に被害を与えられると思ったのだろうが、敵があれほど固く守っていればこちらの被害の方が嵩む」と麗月はこれを止めた。

何刻にも渡って代わる代わる少数の麒麟騎のみの不規則な動きでの騎射を代わる代わる繰り返させていると突如麗月は「退かせろ!」と大声を上げた。その声に合わせて騎兵たちが退き始めると左右から多くの兵たちがこの地を挟む様に押し寄せてきた。緩やかなしかしながら龍が雲間を行くようにうねる坂道を駆けて下っていると「先頭の者は戟や矛を持て!」と信に言った、それから麗月は紅珠に、先頭まで駆けろ、そして剣を抜いておけ、と耳打ちし隊列の先頭へと向かった。丁度、彼女らが先頭に着くと長く伸びた隊列の横腹から、そして退路を防ぐかたちでも沙軍の兵が崖を降りて殺到してくる。先頭を行く紅珠の左右の麒麟騎が戟を振るって道をこじ開け、崖から飛び掛かかり麗月を狙う兵を紅珠は剣で打ち払う。この襲撃を切り抜ける間、麗月は土砂が崩れるように溢れ出る沙兵たちを一つ一つ射抜いていく、絶え間なく揺れる、それも他人が御す馬の背にあってもその狙いは精密で全ての矢が正確に沙兵を貫いた。麒麟騎たちは各々が戟や矛で群がる敵兵を蹴散らし、左右を自軍の騎兵で挟まれた者は後続の敵兵に向けて矢を放った。刃や鏃が雪の様に白く輝き、それらがぶつかりあう音が激しく響き渡る中、鬼士の兵たちは何とか敵の攻勢を凌ぐが、弓騎兵の中には沙軍の襲撃で落馬し取り囲まれて命を落とすものが出始める。一度これを切り抜けると麗月は手で合図して全軍を止めさせ、背から迫る追っ手に矢を射かけさせた。殿の位置にあった信の甲を矢が掠めても何ら物怖じすることなく、左右に落命するものが居てもその心は懲りず、ただ精確に敵に矢を放っていた。麗月はまた何かを察知したのか軍を自陣に向けて進めさせた。こうして自軍に被害を出しながらも絶えずそれの倍以上の被害を敵軍に与えながら坂を下っていく。沙軍の兵はこれまでの挑発により溜まっていた怒りが遂に心頭に達したのか、それとも兵糧に不安があるのか多くの軍を裂いて逃げる麗月らを追った。坂を下りきった麗月はすぐさま自分の右手側に騎兵たちを進めさせる、すると付かず離れずで追いかけて来ていた沙軍の追っ手に千の矢が降り注いだ、その千の鏃は陽の沈まぬうちでありながらも星漢のごとく耀いた。突如、堰を切ったかのような反撃に晒された沙軍の先頭にいた兵の多くは為すすべもなく多くがその甲を物ともしない矢に穿たれ地に伏した。後続の者たちがこれに驚き我を失い立ち尽くしていると、左右の茂みから煌びやかな厚い甲を纏い、盾と錘を手にした伏兵たちに襲われる―――魯将軍の一軍がこの辺りに伏せていたのである。これまで退路を伏兵で塞ぎながら少しずつ相手を削っていると思っていたがその実、深追いさせられていたのだ。麗月ら騎兵は前を行く短兵たちの後ろについて弓でこれを援護しているうちに自陣からの後続が合流した為、今度は全軍で坂を登り始めた。

この頃、最も西に布陣していた沙軍は東の陣が攻勢を掛けた事を知らせる狼煙を見るとこれに兵を裂き残りの者は眼前の坂を駆け降りる時を待っていた。その時、馬の群れが地を蹴る音が耳に届く。そして振り向いた時には既に遅く、鉄の塊のような白龍騎士とそれに追随する鉄騎に陣が蹂躙された、ある者は馬に跳ね飛ばされ宙に舞い、ある者は矛や戟で串刺しにされ、ある者は先頭を駆ける昭の振る鍘刀によって首と身体が離れた。暴風が吹き荒れた後も耐えて残っていたものが目にしたのは坂を駆け上りながらも息一つ切らさない隴山兵の群れであった。一方、中央の陣は突出した東の陣に合わせて坂を下り、飛隴の軍と交戦していた。こちらにも東の陣と同じく練度の高い不死軍が充てられており、令に率いられた黒龍衛と南隙兵を主力とした軍でこれを凌いでいた。南隙族は飛国の海沿いの、山と海に挟まれた狭い地に住む異民族である。容貌は短小であるが強靭な心肺と足腰を持っており、短い得物で縦横無尽に闘う事を得意としていた。彼らは周中や周陰のあたりまで住んでいたが中原からの韓人の入植でその地を追われた者達であり幾度も反乱を起こしていた。そんな彼らが飛国に手を貸す様になったのはかつて先主および後主の下で丞相の任についていた公孫竺の力に依るところが大きい。令は不死軍を先頭とした沙軍の攻勢に対して無理に押さず、命を守り耐えることを優先させ干戈が交わる激しい音が響く中で機を伺っていた。何しろ、これだけ派手に前に出てくれば後方の陣に虚が生まれる、そこを直ぐに西から回った軍が陥落させるだろうと。この読みは正しく、令の軍勢と交戦していた沙軍は後方から現れた飛隴の軍勢を見ると直ぐに降伏した。

こうして三顎の陣を破り太陵の城まで迫った飛隴の軍勢が目にしたのは城の前で立ち尽くしていた沙軍の敗残兵であった。門は固く閉ざされ彼らは行き場を失いただ茫然としていた。そんな彼らの前に飛隴の大軍が前に迫ると皆降伏した。この戦で飛隴の軍は首級と捕虜それぞれ四万超を得た。紅珠の馬を降りた麗月が城門に歩み寄ると、門は開き中から一人の男が出てきた。「太陵公、程静です」とただ名乗るのみであった彼は心労のためか、まだ齢三十かそこらの程桓の弟でありながら髪は白髪交じりで頬は痩せこけていた。流石の麗月もこれを哀れに思い暫くかける言葉が思い浮かばなかった。場外に陣を張り兵を休ませると麗月は幕舎の中で頭を悩ませた、捕虜の数が多すぎるのである、沙羅尼人と亜世羅尉人其々二万ほどであり、それは飛隴連合軍の半数よりも多い。兵糧を多く紅の難民に分け与えていたため暫くは軍を進めることができない状態であり、余りに多い捕虜を見張るのも難しい。ふと麗月は古の将軍、鍾抗の最期を思い浮かべた。鍾抗は飛に仕えた知勇に優れた希代の名将でその武勲は華々しく行く先々で多くの首級を挙げた。だが宰相の妬みを買い、讒言を受けて自刃させられた。彼は過去に数十万の捕虜を坑したことがあり、これを悔いて死ぬ間際に「我固当死」と言ったという。つまりは死ぬに値すべき罪だと認識していたという事だ。しかしながらこうした捕虜の鏖殺は何も珍しい事ではなく、高祖霍邦と覇を争った隴の岳覇も飛軍との戦で得た大量の捕虜を崖から突き落としていたし、瑜の太祖も沮圭から大勝を得た後に兵糧を賄いきれず捕虜を生き埋めにした、三国の飛も北伐で坑を行うことがあった。令は悩む麗月を見て「紅龍、何も悩むことはないわ。亜世羅尉の兵は残し、沙羅尼の兵を坑すればいいだけ。亜国の兵には後々の使い道があるし、何より韓に近かったからその言葉を知る者が多く、また妾も亜国の者と筆談ならできる。沙人は国力に余裕が無い隴では使い道が無い、その言葉を解する者も少なければ、風習も大きく異なる。そして遠征軍の兵糧でこれを賄えば暫く先に進めぬどころか飢えてしまうことすらあり得る、尤も亜国の兵を生かすだけでも難しくはあるのだけど。悩んでいるのならば太陵公や民を唆せばいいのよ、彼らは必ず沙人を恨んでいるから」と声をかけた。翌日、この話を太陵公に伝えると、彼は城内の民を飛隴の軍に貸し出した。そして飛隴の兵たちが沙軍の捕虜を掘に次々追い込み突き落としていくと、民がそれに土を被せていった、それどころか亜国の捕虜達もこれを積極的に手伝った。この光景を見ていた麗月は、そもそも隴では兵糧に憂いがある場合に捕虜を坑することを罰さないとしているし、自軍の兵は捕虜を堀に突き落としただけで土を被せたのは紅の民衆や亜世羅尉人の捕虜だ、と心の中で呟いた。こうして捕虜の問題を片づけた麗月は、太陵にて瑜軍や韓軍からの報告や後方からの糧秣の補給を待ちながら、太陵郡の復興に手を貸しつつ兵を休めることにした。

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