隋水
翌日、これまでと同じような精鋭弓騎兵麒麟騎による飛軍の攻勢が始まった。これに対して隴軍もこれまでと同じように盾を並べてしっかりと列を組んで守った。この日、麗月は令を連れて前線に出てこれを眺めていた。燦爛たる甲に身を包み、三国の争いが終わりを迎えるころに考案された鉄騎に跨った麒麟騎の姿は確かにこちらを威圧するには十分だった、只何度も同じ戦術による攻勢を受けているため前線で列を為す兵にの顔には余裕もあった。「見たところ、麒麟騎は二百程度か。飛の国の規模を考えれば五百はいると思うのだが」と麗月が令の方を見てそう言う。「交代で攻勢を仕掛けているのでしょう、馬にも疲れはありますから、寧ろ人よりも脆いのよ。何魏斗の民なんかは一人で三頭つれているとも言うわ」と令が言うと二人の間を割る様に矢が飛んでくる。風を切るそれを冷静にその手で掴んだ令は腰に提げた鬼彊を構えて先ほどの矢をそのまま番え弦を引く。爆ぜるような音をあげて飛んで行った矢は、走りながら当に弓を引かんとする麒麟騎の喉に突き刺さり、血が吹き上がるのが戦列の兵にもはっきりと見え、隴軍の中で歓声が上がる。「見事なものだな瓏華、孤も狩りを愉しむとするか」と麗月も令を褒め称え、そして軽口を言う。それに対して令はじっと彼女の顔を見て「矢は高いのよ、無駄に撃つものではないわ、使うべきところで吝嗇ってはならないけどね」と言ったため麗月は、然り、と言いこれまで通り機を見て斉射する姿勢を崩さないように周りに伝える。
暫くすると敵勢右後方に土煙が立ち上がる。それを見た麗月は「黒龍衛を戦列に並べよ」と副官の虞娥に命じる、黒龍衛は娥の指示に従い、盾、弩の順に並ぶ戦列の更に後ろに散開して並ぶ。「早速当ててくるか……」と麗月が漏らすと令は、いや、と鬼彊を構える。新たに現れたのは視界を埋め尽くす軽装の弓騎兵、こちらの軍勢の右手に楔を打ちこむ様に突っ込んでくるように見せてその直前で左手に逃れていく。そして統率の取れた斉射ではなく霖雨の様に絶え間なく馬上かこちらに矢を浴びせかけてくる。その雨を最前列の兵が盾で遮りながらその後方ではその鰹の群れの如き弓騎兵を一網打尽にせんと弩兵が構え始めていた。「雷發!」と戦列を指揮する伊将軍が叫ぶと、鐘を叩く音が鳴り響き切られた堰から水が暴れ出る様に大量の矢が太陽を覆い隠すように飛ぶ。それに合わせて黒龍衛も鬼彊を引き、あるものは槍を投げた。この斉射の威力は山を削り取る様に強烈なもので、隴軍の戦列の前に人馬の死体が積み重なる。落馬しつつも一命を取り留めた飛軍の兵も多かったが、次の斉射で地に伏す事となった。その直後またしても右後方からの攻勢の気配が見えた。「山でも築くつもりか!」と伊将軍はこれを侮り弩兵たちに次の射撃の準備をさせた。ふと土煙の中できらりと輝く光が見えるに令は気づき、麗月の肩を叩く。その意図を汲み取り頷き「次は突っ込んでくるぞ!」と彼女は叫んだ、それを受けて副官である虞娥が「戟を構えい!」と叫ぶ。土煙の中から現れたのは霖雨のあとに山が崩れ土と礫と岩が村を飲み込むその勢いにも似た鈍色の甲を着込んだ鉄騎兵であった。勢いをつけて突っ込んできた鉄騎兵が構えた戟は盾を容易に打ち砕き、そのまま帯甲を串刺しにした。鉄の塊というべき質量は凄まじく、またその疾さが合わさりその後ろの弩兵を難なく踏みつぶす。やっとその勢いが止まるのは黒龍衛の所まで来てからだ。それに付き従うかのように戟兵も集り鉄騎兵を足止めしている。「右翼が破られておるな、だがこれならまだ耐えられる」と麗月は言ったが敵勢の奥を土煙が覆いつくしているのを見てすぐに「陣まで引かせろ!伊将軍、撤退だ!」と叫んだ。
その頃、西岸の隴軍の陣は弩兵部隊を中心とした北の山からの軍に襲撃を受けていた。「ぬぅ、郭将軍の懸念が当たったな。しかしこの程度なら何とか耐えられる、軍楽を絶やすな!」と周将軍の指揮する陣の守備隊は奮戦しており、置き盾を密に並べ飛軍による猛烈な流矢を凌ぎつつ弩を射返していた。しかし、事態は急変する。前線から引いてきた軍と共に、飛の軽騎兵が陣に雪崩れ込んできたのだ。今、前線では殿軍として黒龍衛が奮戦していた、奮戦していたのだが黒龍衛は数が少ない、網が疎であれば如何に鰹の群れとは言えそれを楽にすり抜ける。その上、黒龍衛たちは麒麟騎一に軽騎二の隊形で対する飛軍の騎兵隊に手一杯で、その脇を抜けていく軽騎兵に手を出すことが出来ないのだ。勢いをつけて疾駆する飛軍の軽騎兵は撤退する隴軍の弩兵や戟兵を踏みつぶしながら陣へと進んでいく、馬に踏まれれば人の骨など易々と砕け、馬上の彼らが構えた矛の勢いは凄まじく帯甲の胴体を貫いた―――逃げる軍が追撃されたときにこそ最も多くの被害が出るのだ。陣の周りの鹿角でその勢いは削がれているものの陣内に乱入してくる軽騎兵と逃げ惑う自軍の兵を見た周将軍はすぐに東岸への撤退を命じた。「昨日多く掛けて置いた浮橋がよもやこのように役に立つ局面が訪れるとは」と周将軍はその怪力を以て牙門を片手に岸へと向かい撤退を指揮する、幾人かでやっと立てられるそれを片手で立てて大声を張る周将軍を見て幾分か隴軍は落ち着きを取り戻していた。
陣内まで何とか引くことが出来た黒龍衛は尚も周りを取り囲む飛軍相手に退路をこじ開けんと奮戦する。辺りには隴兵の死体が積み重なっており後は自分たちが引くだけではあるが、騎兵の勢いに気圧され腰を抜かし逃げ遅れた友軍は未だ多く、また混み入った陣内であればまだ戦いやすいからだ。麗月はすでに陥落したといってもよい陣内での交戦でこれ以上の追撃を諦めさせるべく身の丈よりも大きい鉞戟を手に飛び回る、そして荀令も自らの周りに飛軍の死体の山を築いていた。涼しい顔はこのような状況であっても一切変わらず、血塗れの方錘戟を引き摺る様に敵兵に近付いていくその様は勝利を掴んだといっても過言ではない勢いに乗った飛軍の兵を威圧した。「貴様がかの悪名高き荀令か、この厲鬼め!ここで衛公に成り代わり成敗してくれるわ!」と、これらを奮い立たせるように、令の周りには麒麟騎が集って来ていた。彼女は周りを見た後に一直線に一人の麒麟騎に向かって目にも留まらぬ速さで駆け寄る、これに相対した彼はすぐさま戟を構え、方錘戟を振り被った令の一撃を耐えようとした。しかしその唸りを挙げる彼女の一撃は当に山を抜くが如き力であり、如何に膂力に優れた武芸を極めた者を集めた麒麟騎であってもそれを受け止める事能わず鉄騎もろとも打ち砕かれその血と破片が辺りに散乱した。これを見た周りの者達も雄叫びを挙げて令に向けて突進したが、その場で馬の背よりも高く跳びあがった令は天を裂くかの如き猛き一閃でこれらを打ち伏せた。この頃、麗月は石林を縫う飛燕の様に立ち並ぶ幕舎の間を駆け回り敵を撃ち友軍に撤退を促していた、その中で返り血で顔も服も赤黒く染まっていた令を見かけると「瓏華もそろそろ退け、精鋭ばかりと打ち合って来たのか顔に疲れが滲んできているぞ」と、撤退を促した。令は素直に岸へと向かった、相変わらず涼しく振舞っているが肩で息をしているような状況でこれ以上奮戦を続けていればいくら万夫不当の鬼士である令とは言え命を落としかねないことは自身もよく理解していたから。黒龍衛も岸へと向かい撤退を始める中、未だ引き下がらず気炎を上げて戟を振るい続ける者がいるのを麗月は見た。「退けと言っておるだろう!」と麗月が言うものの「吾は此処を死地と定めました」と引き下がろうとしない、見れば足元に一人の黒龍衛の亡骸があった、彼女らは相愛の仲であったのだろう、だからこそ愛する者を敵地に置いて退くことなど出来ないのだ。これを見た麗月は、豹の様に俊敏かつ変幻自在の動きで彼女の周りの敵兵を打ち払うと、亡骸を脇に抱える。「これで退くことが出来るだろう」と言うと先程まで鬼神の如き表情であった彼女は涙を流し「朱公……ッ!感謝します!」と隋水の岸へと走り出した。
亡骸を抱えた麗月はそれまでの俊敏さを失ったもののそれを捉えることは尚難しく、隋水にかかる浮橋にたどり着くころにはそこで幾重にも取り囲まれていた。「傲慢で偏狭と聞いていたが、近衛を見捨てられぬか……。朱公、ここで散るがいい!」と飛軍の将の一人が彼女に向けて馬を走らせた。彼の四肢には黒い気が蛇のように絡みついているのが麗月には確と感じられ、鬼士であるということがはっきりと分かった。麗月のやや左から入り矛を斜に構えて地上の彼女を撃たんと見せ、すれ違う刹那に突如振り被り、飛びあがるであろう麗月を叩き落そうとする、彼の読みは正しく麗月は飛び上がったが振り下ろされる矛の柄に、一度鉞戟を手から離し掌を添えて身体を僅かに反らしそれを掻い潜ると彼の肩に手を置き宙を舞う花弁のようにひらりと舞うと再び鉞戟を手にし短く持ったそれで彼の首を後ろから突きこれを絶命させた。血を噴き上げながら尚も馬の背に乗せられ突き進んだ彼の死体は、水を見て立ち止まった馬によって川に打ち捨てられた。飛国の麒麟騎の中でも特に腕に覚えがあるものたちは麗月を討って名を上げんと立ち向かっていった誰もがその首を取るに能わず、ただ彼女の左右に骸が積み重なった。取り囲んでいた兵たちは麗月のその様を見て怖気づき後ずさった、その背に炎が立ち上っているように見えたのだ、黒い雷のようなものを散らせながら立ち上るその炎は、陽が沈みつつあるのもあってか天を焦がすかのように見えた。「西岸の陣は抑えたのだ、行ってはならぬ!あれこそが萬人敵だ、それに立ち向かって無駄死にすることは許さぬ!」と、ついにこれを眺めていた衛信は兵を引かせたため、麗月も黒龍衛の亡骸を抱えて浮橋を渡り東岸へと歩み去っていった。
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