宴
公兮朅兮、世之桀兮。
公也執戟、為隴前驅。
自公之南、首如飛蓬。
当無膏沐、誰適為容。
其雨其雨、杲杲出日。
願言思公、甘心首疾。
焉得諼草、言樹之背。
願言思公、使我心病。
霍紅珠は戦場に行った麗月を思えば心が苦しく、また隴に流れて来た自分を家においてくれた朱麗月への恩を思うと、とにかく麗月の事が恋しかった。麗月が戦に言っている間、官職も生業もない紅珠は麗月の付き人と鍛錬をしたり、書物を読むだけの日を送っており、麗月の財で呼ぶ料理人の作る飯を食べるたびに彼女のことが恋しくなっていた。この日の午後、紅珠は書を読みながらその内容が頭に入る訳もなくただ眸に涙を滲ませながらそう掠れた声で歌っていた。戦役に就いた夫の帰りを待つ古き詩を所々変えながら紅珠は口遊んでいた、詩にあるように身なりを整えることが疎かになっていたというわけでもないが麗月の事を想えば何度もこれを繰り返した。そのとき、ふと門を叩く音がしたから彼女はすぐさまこれを迎えに行くとそこに麗月がいた。思わず彼女は麗月に縋った、ただ六尺に僅かに満たない麗月にこれより一尺ほどは背が高い彼女がこれを抱けば縋るというより母が子を抱きしめると形容するほうが近いだろうか。ただこの時、麗月の傍らに荀令の姿があり、紅珠はなんとも嫌な思いをした。麗月は「霍君よ、寂しい思いをさせて申し訳なく思う。ただ孤はまだこれからやらねばならぬことがある故……」と、紅珠の頬を撫でて謝った。紅珠はそう言って去る麗月を恭しく見送ったが、そんな彼女を見る令の瞳は氷の様に冷たかった。
麗月は、この日一度紅珠の様子を見に自宅に帰った訳だが、夕方には政庁である宴会に参加することになっていたためそれに向かった。麗月は酒を好むためこの集いを厭わなかったし、また戦勝に貢献した将を労うために自身が出席しなければならない事を知っていた。これを断って、気の置ける者だけを集めて酒を飲むような真似をするほど彼女は愚かではなかった、と言うよりは自らの位に相応しい姿になろうとしてそうなったのか。麗月が政庁につくと、普段は使者を受け容れたりなど公的な仕事に用いるための堂に諸将が集っていた。何しろ飛との争いはほぼ片付いていた、華底関で飛軍を大いに打ち破り、隋津でも大勝を収め虜首は数万に及び軍を直接率いる将としては最も格が高い驃騎将軍の衛信を捕虜としたからだ、これで飛軍は隴に攻めることはできない、それは麗月も令も確信していた。麗月が堂に入って焼褐酒の樽からそれを掬って杯を掲げると、諸将はこれを見て大いに声を挙げた。「諸君は先の飛との戦に於いてよく戦い隴の難を除いてくれた、孤はこれを嬉しく思う、今宵は良く酒を飲んでくれ。賞は兵にも及ぶのでそれを心病むことは無い、存分にこの宴を楽しんでくれ」と、彼女は焼き締められた酒を一気に飲むと諸将はこれを歓び声をあげた。尤も、焼褐酒は甘く香り高くまた希少な品ではあるものの非常に濃いため、諸将は水の如く飲める濁った事酒やそれよりは手を掛けて作られた澄んだ清酒を好んで飲んだ。隴国の宴は礼を気にせず、堂に乱雑に並べられたいくつかの大きな円卓の上に料理が並び、樽から酒を汲む様になっていた。このような闊達な宴であっても戦において思うことがある者達が麗月の許に集っていた。特に郭昭は隋水の西岸に飛軍を引き入れてこれを討ったことに未だに納得いっておらず、麗月にこれを問うた、曰く「公、百を救うために十を見捨てて良いものなのか」と。これには麗月は多少怒りの表情を浮かべ「孤もそうしたい訳ではなかったのだ。黒龍衛十七があの撤退で死に、その後、戦の傷がもとで死んだのが十二、それぞれの名を覚えているが故、孤はこれを悲しくも思い、ただこれによって隋西の農地を早急に取り戻すことが出来て民を飢えさせる事にならなかったことを嬉しくも思うため、彼女たちの死を孤は甘んじて受け入れる。国是がそうあるのだ、国士が民のために戦い、民が国士を支える。肥沃な隋水の西が飛の賊軍に踏み荒らし続けられれば、民が死ぬ訳だ。民が在りて平たる国を為す、これに仕えし吏はこの平を守り、此が為身を砕く。孤はこの隴国憲章を認めたゆえ、この戦いに於いて常に最前線で矛を振り続けた。郭子穆よ、卿が兵の死を惜しむ気持ちは大いに分かる、そして将は決して兵を無駄に死なせてはならぬ、それは真理だ。ただ十の死によって千の民を救わなければならないという苦しき選択を迫られる時が来る、孤はこのようなときにいつも苦しむが、将たれば必ず選ぶべきその時が来る。孤は今でもあの戦を思いて心が病んでおる故、孤であっても素直に喜べぬのだ。……済まぬな、孤から言えることはこれだけだ。令ならば、明快に答えてくれるだろうが、ただ卿が喜ぶ答えにはならぬ。ここは孤が卿の武功を称えよう。この後、また卿がこの戦について思い返すことがあるのならば幾らでも共に論ぜよう」と応えた。昭は葛藤しつつも麗月の言には納得したので引き下がった。「兵の生を疎かに扱えば兵往かず、しかし死地は眼前にありこれを脱すために捨てねばならぬ時がまま来る、儘ならぬものだ」と麗月がまた杯を乾かすとそれを見て令は「思ったより紅龍は感傷的なのね、兵を哀憫せしは愚と言えど兵を損なえば兵往かず、真に難しいものだわ。……妾や紅龍は将に向かぬな」と言った、これに麗月は然りと応えた。「紅龍、妾たちのようなものは人の世で将になることは適わず、王なるも適わず、それは単に人の行を知らぬが故に……、心病むことはないわ」と令が言うと司馬禁と息子二人、宮と嘉が彼女たちの下にやってきた。「司馬司間がわざわざ孤と酌み交わそうなどとは、面白い話ではないな」と麗月は更に盃を乾かした。「東方の事を知っておろうか、昨年の夏頃に亞世羅尉は沙羅尼に滅ぼされた、そして董までもが沙族の手に落ちているとか」と司馬禁は言った、麗月は「司馬玄則よ……、それはいつ頃知ったのだ」と驚いた。ただ麗月はどこか常の内であったが、令はこれを憂慮し「紅軍はどうしているんだ」と問うた。「趙丘までもが失陥して安都に迫る勢いだとか……、間者からの情報によれば、紅水を挟んで激しく抗戦しているため、戦況は膠着しているようですが……。これは朝廷に伝わっており、韓帝も憂慮していらっしゃるようだが、紅の王が救援を求めておらず、……今このような場で伝えるべき事柄ではありませんな」と禁は言った。この後五人で暫くの間歓談すると司馬親子は麗月の許を離れようとした、その去り際に麗月は「司馬伯台よ、卿はいつから気づいておった?」と問うた、これに対して宮は「何のことでしょうか」と言うだけであった。
三人が去った後、令は「惚けられたわね」と麗月の事を見た。「司馬伯台には陸公耀の風があるな……」陸曄字公耀は瑜の武王に仕えた兵法と謀略に通じた士である、その同族の陸粛も同じく王佐の才を以て武王を支えたため二陸と並び称されることがある。曄は落ち着きがあるというよりむしろ愚鈍なように映る立ち居振る舞いで更に双眸の光は暗く気弱そうにも見えた、粛が美男子であったためよりそれが際立っていた、しかしながらその内側は智に溢れ剛毅果断であった。危機を避ける慎重さを持ちつつも、機を見れば大胆かつ迅速に軍を動かし、その軍略を以てして群雄が割拠し三国鼎立の世に繋がる時代に於いて幾人もの武人を屠った。また荀令が従事した程会の汝州侵攻においては程会軍の急襲によって失陥した杜丘郡を素早く取り戻し、令も彼の才を認めていた。三国春秋の編者である顧盛は深い思慮に基づく緻密な計略を用いて一度の失策もなく武王の軍事を支えた天下の奇士と最大限の賛辞を送っている。そんな曄は口数が少なく、また自身の策の全容を人に漏らすことが無かった。麗月は彼と仲が良かったが、終ぞそれを教えてもらうことができなかった。「外愚内智、外怯内勇よのう」と遠くに行った宮に麗月は目を遣り、そして暫くしてからふと令の方を見て「もしかして瓏華は陸公耀の名を聞きたくなかったか?」と問うた。「いえ、妾はもともと程会の汝州進軍を諫めていたわ、董にはまだ服従していない地域が残り、また周雲はこの時韓と霍の平定を済ませていたから一度奪うことが出来てもまた失うと。ただそれでも攻める任を受けてしまったから、ただ粛々と自身の才を以てして杜丘を陥とした。妾の予期通り取り返されると程会が怒ったものだからこれに厭味を言ったら辺境に流されただけ、左遷の理由は陸曄に敗れたからではないわ」と令は淡々とこれに応え「選ぶことは難しく、誤ることもある。ただ……」と僅かながら笑みを浮かべた。
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