神速

軍議より二日後の朝、渡河の準備を整えた連合軍の将兵は軍船に乗り込み対岸へと向かった。準備を整えたとは言っても、初めに送ることが出来るのは全軍の半数である、まず先に出た沙平に向かう軍と長城の南側を攻める軍はそれぞれ五軍二万五千である。隴の鎮東鬼将軍華珀は参謀として司馬彩を伴い、隴国の亜世羅尉兵二万と隴山兵五千を率いて沙平より七十里ほど西南の岸に船を乗り付けた。対岸からでは分からなかったが、長きに渡って聳え立つ土壁は所々に仮櫓に簾をかけただけの箇所がある。珀の放った幾人かの斥候が手にして戻って来た情報は正しかったという事だ。船から降りた兵らは車輪のついた置き盾を並べその背後でみなで伏せ、後ろのものは板を頭上に掲げてじわりじわりと壁へと迫っていく。激しく降り注ぐ矢の雨が絶え間なく盾を叩く音にも兵らは物怖じしなかった。しかし岩が飛んでくるとなると別である、幾ら堅くその身を板で守ろうと所詮は木である、数尺の岩は盾の下に籠る兵を摧くに足る。飛び散る血や千切れた四肢や臓物に怖気づいて歩みをやめてしまう者が出るが周りのまだ心が折れていない者らがそれを引っ張り兎に角前へと進んでいく。ある程度兵らが前に進むと彩は珀に目配せをする、それに珀は頷き船に残っていた亜世羅尉のものに金鼓を叩かせた。亀の甲の様に盾で身を固めながら大声で歌いながら近づいてくる軍勢に城内の兵らは動揺した、彼らが歌っているのは亜世羅尉の軍歌であるからだ。城壁から弩を放つ敵兵は沙人であったが、発石器の石を用意したり矢を運んでいるのは亜人たちである。その者達が祖国の歌を耳にして動きを留めれば自然と城壁からの攻撃は疎らになる。「華将軍」と彩が珀に声をかけると、珀は馬を駆り矢の雨を縫って城壁の兵士の顔が見える距離まで近づく。降り注ぐ流矢を真新しい矛を振り回して凌ぎながら華珀は亜国の言葉で大声を揚げる、「吾は亜瑠和、亜世羅尉の王女だ。韓軍を連れて沙羅尼を追い払いに来た!」と。金と翡翠の首飾を戴き、その腕には綴った真珠と金環を約むり、腰からは琅玕を提げ、美しい刺繍が施された羅衣を被るその姿は貴く姫牆からこれを覗き込んだ亜世羅尉人らをして彼女を祖国の王女であると信じさせるに足りた。忽として城壁からの攻撃が止む、苦役を課せられていた亜人らが手にした工具で沙兵に襲い掛かり始めたのだ。好機を逃さぬよう彩は兵らに仮櫓に突撃させこれを突き崩すとその破れた処から隴山兵を突入させた。「亜世羅尉人を間違えて殺すな!」と龐琳は山で暮らす荒くれ者達に命じ、自らも大刀を手にして内から城壁を駆けあがっていく。鍾陰を囲む険しい山々で暮らす屈強な者らからさらに選抜された隴山兵にとって階段など平地のようなもので嵐の様に城壁に殺到し怒涛の様に沙兵を食い破る、その先頭を行く琳が得物を振るえば幾人もの沙兵が空を舞った。その苛烈さには先程意気軒高に叛旗を翻したばかりの亜人らですらも恐れおののき、隴山兵の隙間を縫って地へと駆け降りて行った、ただその先に待つ者は死ではなく同胞たちの兵であった。珀も速やかに長城の奥に入り込み馬を降りて戦おうとしたが彩はこれを制止した、曰く「華将軍は将であるのです、今は危険に身を晒すべきではないかと」と。「勇気を持たぬ将には兵はついてこないだろう」と珀は反駁したが直ぐに彩に「先程、将軍は矢の雨の中を恐れず進み沙人に虐げられる亜世羅尉の民に檄を飛ばしました、その勇敢さがこの優勢を作り出しているのです」と窘められたため馬を降りず、亜人兵らに城の内側の陣営で混乱に陥っている沙兵を狩る様に指示し、自らは弓を手に後方へと下がった。敵兵はおおよそ反撃などできずに逃げ惑うだけであったが、その混乱の中で俄かに一部が集い始め弩を構えていた。しかしそれを指揮する将は次の瞬間その頭を矢で貫かれた―――彩が矢を番えて彼らをじっと見ていた、半里先から弓を手にして冷たい目でその一団をじっと見る彩に恐れをなしたのか彼らは散り散りになり戦場から逃げ出していった。数刻の後に最早刃向かう敵もいなくなり諸兵は喊声を揚げる、その中で珀は彩に「追うべきだろうか?」と問いかける。彩は「いえ、糧秣と馬を待たねばなりませぬ。馬が無ければ追えませぬし、兵糧が無いのに徒歩で追えば飢えます」と答えたため、珀は陣の設営を兵らに命じた。

一方、隴公朱麗月と舘昌公周嫣は隴国黒龍衛と白龍騎士、瑜国虎嘯騎士、そして飛国驃騎将軍衛信とのその手勢である麒麟騎士、輔紅将軍凌白率いる祓憂兵から更に選ばれた各国の精鋭兵数千と瑜国兵二万余を率いて船に乗り込み沙平の城に向かっていた。「さて、真偽は分からぬが、内通で開かれた城には孤が黒龍衛を率いて乗り込もう」と麗月が言うと嫣と信も同じく先登に名を連ねんと名乗り出た。これに令は溜息をつきこう言った、曰く「公らを失えば、瑜、飛両国の兵は誰が束ねるのというのかしら?」と。これに嫣は「それは朱公とて同じでありましょう」と反駁する。「孤が乗り込むことに理はある。沙人には誰が周公か、誰が衛将軍かなど分かりはせぬ、瓏華のことは分かるかもしれぬがな。しかし、孤はどう見て夷狄どもにも良く知れた朱麗月その人だ、沙人を坑して鏖殺した悪名高き翼鬼公だ」と麗月が笑うと「然り、朱公はその少容と地に垂れる美髪、そして曠世の奇服でその人だと分かるでしょう。紅珠も共に行きます。華将軍と臥起を共にしながら韓の言葉を教えていましたから、紅珠には亜世羅尉の言葉が分かります。朱公では内通を申し出た者と話ができぬでしょう」と紅珠は麗月に随伴する意思を見せた。「内通が偽であるとして、梯をかけて登る精鋭の敢死兵を指揮するのは周公に衛将軍、凌将軍でしょう、とはいえ黒龍衛の力を疑うのであれば、いえ、ぜひともその誇るところである精鋭兵を半数でも紅龍に分けてあげられるかしら」と令が言うと嫣と信の二人は頷いた。彼らは沙平の城の畔に船を乗り付けたが城からの攻撃は無かった、麗月は「分かりやす過ぎるな、いや他所の守りで手が空かぬふりでもしておるのだろうか」と笑いながら門へと近づいていく。各国の精鋭の半数を率いた麗月を迎えるかのように沙平の城の門は開かれた。中からは複数の亜人の男たちが出て来る。「臭うな」と麗月が独り言ちる、紅珠にはこの言葉が何に対して言ったものであるのかを解することができなかったが、取り敢えず目の前の男たちに亜国の言葉で問いかける、曰く「此度の戦で韓に与して頂けたことを感謝します。ところで守兵がおらぬようですが……」と。「只今城の南北に出払っています、長城の壁は未だに穴だらけですから。さぁ、中にお入りください」との返答を聞き紅珠は麗月を伺う、麗月はこれに頷いたため紅珠は手で合図をして兵らに前進を命じた。

城内の土造り家々には生気を感じなかった。恐らく後方の街や村に民は移住させられているのだろう。俄かに紅珠は「そういえば、先ほど朱公がおっしゃられたことは何を意図されていたのですか?」と麗月に問いかけた。「魚油の臭いだ」と麗月がこれに言葉を返した、麗月らは城の中央にある広場にたどり着いていた。馬を養うための秣が所狭しと並べられた広場はもはや民らが屋台を出す役割を失い兵糧を集めるための処となっていた、その奥には石造りの政庁の建物が鎮座する。ふと先導していた男が振り向き、紅珠に対して「申し訳ありません!お許しください!」と。その声色に悔いの色が含まれていることから麗月はすぐさま「散!」と叫ぶ、後続していた兵らはそれぞれの伍に分かれ城内で四散した。紅珠は、先導していた亜人の男を抱えると麗月の後を追った。天からは火の雨が降り注いだ、城壁には所狭しと弩兵が並んでいる、彼らが秣が積まれた広場とそこに向かって一列に進む韓軍の先方に火矢を射かけたのである。油が染み込まされた秣はすぐさま燃え盛り広場を炎の海と変えた。それと同時に城の門を閉ざされ、麗月が率いる先遣隊の退路が断たれていた。城壁の上から弩を射続ける沙兵から見れば火から逃げ惑う鼠のようであった、それぞれが狡捷たること当に鼠の如くあったが、城壁に所狭しと並んだ弩兵による矢の雨は如何なる武人であっても掻い潜れるものではない、そのうえ、城壁へと昇る階段はその上を分厚い甲を着込んだ精鋭の不死隊が詰めている。沙兵たちには一際目立つ煌びやかな羅衣を纏った麗月を乱戦の中で討ち取るのもそう遅くないと感じていた。全くもって恢恢でないその矢の雨は韓の精鋭兵を苦しめた、弾く、避けるとするにしてもその数が膨大でありどうしても幾らかはそれを受けてしまわざるを得ない。鬼士である彼らはその一つが胴に刺さる程度では死に至らないが、それでも四肢を掠る矢や脇腹を抉る矢は彼らの意気を確実に削いでいった。それでも四国の精鋭たちはそれぞれが四方の壁に向かって迫っていく、活路はそこにしかないのである。

沙軍の弩兵が四度目の斉射を終えて屈み弩の弦を張らんとしていた当にその時であった、天中の白日が一瞬隠れたのを彼らは不思議に思った、この日は快晴であったからだ、ただ白日を覆ったのが軍船に取り付けられた発石器から放たれた岩であると気付くまでに瞬きは必要なかった。轟音、幾つかは壁に当たり之を揺るがし激しい土煙をあげた、数個の岩は城壁の上から狩を愉しむかのように弩を放っている沙兵を粉々にした、そして多くのものは城内の家々を砕いた。沙軍の兵士たちは恐れ戦く、岩に潰されて四散する人体だけでもそうさせるに足りたが、歴戦の兵はこれを見慣れている、しかし城内に友軍が閉じ込められているというのに平気で石砲を放ってくる容赦の無さはそんな彼らでも恐怖させるのだ。そうしている間に正面、つまり西側の壁の階段に黒龍衛が取りついた。階段の上で守る不死隊の精鋭兵たちは麗月の姿を目にしてその身体に気を漲らせ、盾を硬く構える。地を縮めたがごとく階段を一瞬のうちに駆け上り、そして放たれた鉞戟の一薙ぎは初めの一人を盾ごと両断し、鉞の通るところに在った残りの兵を地へと吹き飛ばした。ただ不死隊は恐れず盾を構えて麗月の許と殺到し距離を詰めた、麗月の次の一撃の前に戟が振るえぬ間合いに入ることができるほどの精鋭である。ただ、麗月は考えもなく突出したわけではなかった、取り囲む兵らは麗月を討たんとするあまり之以外の事が頭に入らなくなっていた、いやそうしなければ瞬く間に麗月に屠られてしまうだろう。ただ、麗月だけでなく黒龍衛はそれぞれが武芸を極めた鬼士である、例え女人であっても。階段から少し離れた家の隙間に集っていた紅珠の伍は弓を手にしそこから矢を放ち続ける、そのそれぞれの矢が麗月を取り囲む兵らの甲の隙間を縫って射抜き地へと堕としていく、一度もその矢は外れることが無かった。之も武芸に自信がなければできぬ事である、手元が狂えば麗月を射抜くことになる、とはいえそれゆえに躊躇すれば麗月に面罵されることだろう。この射撃によって麗月の包囲が緩むと再び彼女は暴れまわる、龍が雲を掻き分けて空を翔るが如く階段を守っていた兵を蹴散らしていく。こうして城壁の上にたどり着いた麗月は姫牆の上に立ち城外の友軍に合図すると、階段を駆け上がってきた後続の黒龍衛と共に城壁の上の兵を排除せんと駆け始めた。残る三方の兵が耳にしたのは城を揺るがす喊声であった、見れば西側の壁では黒龍衛が暴れまわり、それと共に韓兵が西側の城壁に満たされそして西門の支配を失ってしまってる、梯子をかけて城外から次々と韓の兵が登ってきているのだ。その後も少しは沙兵は抵抗したものの、結局はあらゆる方向から韓兵に殺到されて降伏した。

諸将は沙平の城壁の上に集っていた。秣が燃え尽きた広場には新たに韓の兵糧が積まれ、そして縛られた捕虜らが並んで座っていた。「北の方に土煙が見えるわね」と令はふと口にした。麗月は「これは都合がいいな」と言い、兵に迎撃の準備をさせた。果たして五万を超える沙軍の兵が沙平の城へと殺到したのは日が沈まんとする頃であったため、彼らは城外に陣を張った。政庁に集っていた韓の将らは灯の下で地図を眺めていた。既に伝令により華将軍も勝利を得ている事は伝わっており「早朝に彼らは沙南まで退こうとするでしょうな」と白は言った。信もこれに頷き「夜の間にも、この城の南に屯していた軍が破れていることを知るでしょうからな」と自らの髭を撫でた。「しかしどうされますか?こちらはまだ馬が届いていない、彼らが沙南に退いていくと同じく沙南に向かっている太史将軍と鉢合わせになり、退いて行った軍と門を開いて出てくる城の兵による挟撃に合うのではないのでしょうか」と白は麗月の方を見た。これに対して答えたのは地図の上の進軍経路を指でなぞっていた令で「馬が届き次第、次々と後を追えばいいわ、弓が得意なものから次々と馬に乗せてね。無論、唯追いかけては嫌がらせのように弓を放つのを繰り返して、数が揃うまでは付かず離れずで追うべきね。南の司馬春光も同じことを考えるだろうから二方から弓騎兵の攻撃を受けることになりより進軍が遅れる、そうしているうちにこちらの騎兵の数は揃うでしょう」と言った。「兵は神速を貴ぶ、ですか」と嫣がこれに対して独り言ちると、麗月は「懐かしいな」と返した。程武兵法には「兵の拙速は聞くも巧の久は未だ睹ず」という一文があるが、これから着想を得て三国瑜の軍師たちがよく言っていた言葉である。武王周雲は浮き沈みが激しい性格で、戦況が苦しくなると酷く落ち込み度々弱音を吐いた。陸粛をはじめとする瑜の軍師たちはよくこれを叱咤し、雲が何かを尻込みするときは「兵は神速を貴ぶ」と背を押したものである。

翌朝の早く、沙軍は陣を置き去りにし沙南へと向かっていくのを沙平の城にいる韓の兵らは目にした。しかしこれを追う馬が彼らの下に届くのは少なくとも十二刻は後である。正午まで四刻となった頃、対岸から船団がやってくるのが見えた。準備ができた者から馬に跨り沙軍を追いかけ始めた。対する沙軍は少数の弓騎兵による進軍の妨害を始めは反撃をすることを考えず、唯硬く守りながら兎に角早く沙南にたどり着かんと進軍を続けた。そうしているうちに数は増え続け、西だけでなく南からも亜世羅尉人の弓騎兵が進軍を妨害するよう纏わりついてくる。その様は当に兵の戦死を待ち空を回り続ける烏のようであり、沙兵らの心を蝕んだ。弓騎兵の攻撃で無視できない被害を受けるようになると、沙軍は置盾を並べ弩兵を並べて反撃を試みるものの、その準備を見た弓騎兵たちはどこかへと散っていった。しかしながら進軍を再開して数刻が経つと再びどこからともなく集ってくるのだ、しかも弓騎兵の量は増えてきている、心労からそう感じるのではなく実際にそうであるのだ。沙軍の将はこれを騎兵で追い払う事も考えたが、追いかけあいになることが目に見えていたため為す術が無かった。之を繰り返しているうちに彼らは沙南の城にたどり着く、五十里にも満たぬ進軍であったが日は暮れかけており、兵らの心身はともに疲れ果てていた。夕陽の中に黒く浮かぶ沙南の城、そしてそれを取り囲む黒々とした陣の数々。彼らを待っていたのは城を包囲する太史将軍の軍勢であった、後ろを見れば夕陽に照らされて眩く輝く騎兵たちが集っていた、その数は会戦を仕掛けるのに充分であるように見えた。沙軍の将は馬を降りて、膝を折って涙した、沙平の城の救援に向かったのが間違いであったと気付くのには時間は掛からなかった、しかし見捨てて沙南まで逃げることもできなかった、兎に角自らの思慮が足りなかったことを悔しく思うことしかできなかった。彼が左右のものに命ずると兵らは次々と武器を地に捨てた、それに伴い沙南の守兵も武器を捨てて門を開けた。こうして韓の連合軍は橋頭堡となる沙南を手にした。

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