長城

朱麗月らが亜水の堤で目にしたものは対岸を埋め尽くす真新しい長城であった。「蘭京の民が言うには、一年のうちに築きあげられたとのこと」と凌白が言うとこれを聞いた華珀は鼻で笑った。「南の者たちがあのような城を一年のうちに建てられる訳ないだろう。沙羅尼の者たちが如何に厳しく亜世羅尉の民を使おうと、あの者たちは城壁を建てることに慣れて居らぬからな」との華珀の言は尤もで、南亜では多くの街が城壁を持たない、多くの者が草に随いて牧畜し転移しているからだ。物と人が集まり農業も行われている川沿いのいくつかの街だけが城壁を持っている、とはいえ、亜国の元々の都である羅地ですらその城壁は決して立派ではなく低い。「周霖を帰らせた潘統の偽城という訳か」と白は呟いた。三国紅の将軍であった潘統は、瑜の文王周霖の親征に対して数百里に渡る偽の城を延江に沿って建てることで戦わずして之を退ける計を提案した。諸将は無益と内心これを嘲笑ったが、周霖が杜丘に至りこれを望むと愕然とし軍勢を引き返した。「いえ、必ずしもそうであるとは言えません」と司馬彩は声をあげた。「優れた将は新兵を率いたとしても名将から勝ちを得ることができます、例えば瑜の関権が飛の衛晃を破ったように。人を巧く導き使う事に長けた者が沙羅尼の将にいるのならば、一年でそれなりの城壁を数百里に渡って建てる事も出来ましょう。まずは斥候を放ち、城と守兵について探るべきでしょう」と彩は珀の顔を見て言った。「成程、吾の所の兵を使えという事だな。良さそうな者を選び夜のうちに川を渡らせよう」と珀は早速陣へと馬を走らせた。走り去る珀の姿を見えなくなるまで目で追っていた白は「朱公、あのお方は?韓人では無いようですが」と麗月に問いかけた。「あの者は隴の鎮東鬼将軍華珀。元の名は亜瑠和といい、亜世羅尉の王女だ」と麗月が答え、それから事の経緯を白に伝えた。「国を追われ、兵の男たちに紛れていたと、それは誠にお痛ましい事で……。しかし隴軍の亜世羅尉人は良く統率されていると感じましたが、そのような事由に基づいておるのですね」と白が言うと「亜瑠和が貴人であるという事もあるが、あの者には確かな将才がある。それに加え武勇も確かで賢い、降虜を率いる将に亜瑠和を任じたのは何も孤があれを愛幸しているからという訳ではない」と麗月は笑った。「彩も戻ります。地図を見ながら思惟すべき事柄が幾つも在りますゆえ」と珀の後を追うように彩も去って行った。「朱公のような女傑のもとには烈女が集うものなのですな」と白は去っていく彩を見てそう零した。麗月は「司馬君はどの地に生まれたとしても名を揚げるだろう、何せ瓏華をして覚えが良いと言わせるほどだからな」と笑いながらに言った。麗月の傍らに立っていた令はその言を聞いて口は開かなかったものの頷いた。「司馬……、もしや鬼謀の士として知られる敬侯の息女ですか?」と白が驚きながらそう麗月に問いかけると、彼女は首肯した。

この日より三日が経ち、韓の遠征軍が蘭京の城の東の陣に集った。韓の本陣に集った諸将はみな無言で地図を見つめていた、その視線の先にあるのは沙南の街の北西の要所、亜水の畔の沙平の城とそこから川に沿って数百里に渡る長城。沈黙を切り裂いたのは巻物を手に幕舎に入って来た珀であった。手にした巻物を開き、それを眺めながら筆を手にし長城を表す長い線に色々と書き込んでいく。「長城に屯している兵は十万余。此の地の対岸である沙平より南は凡そ城壁が出来上がってはいるものの仮櫓のままの箇所が幾つかある。それから、沙兵に使われている亜世羅尉人から内通を取り付けてきた、こちらの軍が迫れば沙平の城門を開くという」と珀が言うと諸将は俄かに騒めいた。韓の大将軍太史徳が口を開く、曰く「韓軍は北から渡河し、瑜軍が沙平に渡りこれを制圧、飛隴そして紅は南の仮櫓から浸透。これでどうだろうか?」と。その威厳のある低い声に諸将は押し黙った。瑜の尚書令呂茂は自らの髭を撫でながら目を閉じていたが、暫くして口を開いた、曰く「上手く行き過ぎている気がしますな」と。茂の言を聞いた瑜の軍師祭酒陸然は頷き、茂に続いて「陛下の詔が出てから韓軍がこの地に集うまでの間、此の地では盛んに多くの軍船を組み立てていました。沙羅尼は春に韓が攻勢に出ることを悟っていたでしょう。長城の完成が、韓軍の渡河に間に合わぬことは必定、と為れば策を弄してくるはずです」と言う。「全軍で北から渡るべきという事か?」と徳が彼らに問うと茂は「仮櫓を破って突出したところを囲む様に兵を動かしてくるでしょうな、恐らく柔きと固きが混ぜられているでしょう。連合軍の兵は二十万、これを活かすにはやはり三路から攻め入るべきかと。しかし南も南で罠を仕掛けているでしょう」と答えた。俄かに彩は地図が広げられた机に近寄りその上に置かれた駒を動かす、そして「ええ、ですから敢えて沙羅尼の思惑に乗り動きます。太史将軍がはじめにおっしゃられた三路からの侵攻で良いかと」と言った。「ほう?」と茂は訝し気に小さな彩のことを見下ろした、その威圧するかのような振る舞いに彩は全く動じない。「先に動くのは沙平に向かう軍と、南の城のうち薄い部分を狙う軍の二つです。南の未だ組みあがらぬ壁の処では多くの亜世羅尉人が築城に従事していることでしょう、此処に隴の華将軍率いる亜世羅尉兵を先鋒にして軍を当てます」との彩の言に茂は頷き「卿の言は尤もに思う。華将軍は亜国の王女であるという、その姿、そして同胞の兵を見れば混乱が見込めるだろうな」とそれを認めた。しかし面持ちは厳しいままであり、こう彩に問いかけた、曰く「しかし沙平の開門は罠であろう。元より確かな城壁を持つ要所であり、そこに偽の内通を持ちかけて兵を城内に呼び込み伏兵を当てることでこちらの意気を挫こうとしておるのだろう。何故、兵を多く損なうであろう所を攻めるのだ?」と。「もし内通が真であれば、ここに兵を押し込めば沙平の城を奪うことができ、そうなれば沙軍は沙南まで兵を退かせることでしょう。内通が疑であってもやはり城を奪うべきなのです、例えば城内に引き込み伏兵と城壁からの弩でこちらの先鋒を挫くことを狙っていたとしたら、逆に正攻には弱いのです」と彩がこれに言葉を返すと然は頷き「然り。沙平に向かう瑜軍の船には発石器を載せ、船から石を浴びせればよいでしょうな、そして梯子をかけて精鋭を乗り込ませる」と言ったがそれから続けて「しかしまず初めに必ず罠にかかったように見せかける囮が必要でしょう」と彩に問いかけた。これに対して「黒龍衛が適任でしょう、門が開いたら油断した振りをして城内に入り、そこから四散し脱兎のごとく駆け回り沙軍を乱します」と彩は言い麗月の方を伺った。「孤に岩が降り注ぐ中で戦えと言うのか?」と麗月は大いに笑い、それから「良いだろう、司馬伯台と同じで卿も孤をこき使おうとする、面白いではないか」とこれを認めた。「となると、北から回る韓軍は長駆して沙南に向かい、退路を断つべきでしょうな。沙平とその南で混乱が起きれば北は虚となるでしょう」と茂が言うと徳は頷いた。「宜しい、神速を以てして亜世羅尉の地に入らん」と徳が声を揚げると諸将はみな拱手した、甲の擦れる冷たい音であっても幾つも重なればどこか熱を帯びていた。

皆が各々の陣に戻っていく中、茂は馬に跨り去っていく彩のことを見つめていた。そして「あれは間違いなく司馬伯台の娘だろうな」と独り言ちた。「でしょうな、敬侯の風が確かにあります。しかし簪を差す歳になったばかりだろうというのに胆力がありますな、あのように容貌は短小ながらも呂公の問いに一切物怖じをしないとは」と然は静かに茂の横に並ぶとそう言った。「敬侯の様に命数が短くなければよいが……」と茂は髭を触りながら目を閉じる。これに対して然は一度笑い「司馬君は朱公の様に羅衣を被っておりましたゆえ、鬼相を持っているのでしょう。鬼士は強健ですから案ずることはないでしょう」と言葉を返した。それもそうか、と茂が言うと彼らは二人して笑った。

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