荀天女

冬も終わりが近づく十二月、朱麗月は総勢八軍を率いて鍾陰より出陣した。先の東征に比べて軍数が増えているのは亜世羅尉人の兵を連れているからである。隴人の兵は先の戦より二万ほど少ないという事になる。また、先の戦よりも騎兵の割合が増えており、鍾陰から旅立つ兵のうち凡そ半数が騎乗している。紅の地を侵略した沙軍を討ち破り凱旋した麗月は更なる東征を思い頭を悩ませていた、武帝による遠征に習えば沙漠を行くには騎兵を主力とせねばならないからだ。もとより隴国の軍には騎兵は少なく、軍馬の数も足りない。幸い、亜世羅尉人の捕虜には弓馬に親しんだ者が多く、また重騎兵を率いていた将らが熱心に兵らを訓練したため、二万に及ぶ騎士を用意することができ、魯将軍に至っては手勢の精鋭の弩兵から選抜し、騎馬弩兵の隊を作り上げた。軍馬は瑜国から輸入することになり、秣も隴国内では賄いきれないためこれも瑜国を頼ることになった。そのため、国の財政の事を想うと麗月の頭は痛んだ。だが、これについては隴国の官僚に任せるほかない。彼らが言うには遠征が一年であれば増税はあれど民の生活には差し障りが無いとのことであり、二年続けば五年民が苦しむとのことであった。この戦の出費がまだ隴国の民を苦しめていないのか、それとも官僚たちがうまくやりくりしているのか、多くの民がこの軍勢の出立を見送るために街道に集っていた。最も目を引くのは先頭を行く麗月とそれに付き従う黒龍騎であった、煌びやかな衣を纏い馬に跨る彼女らは当に壮観であり老若男女を問わず歓声を上げた。麗月が人垣に目を遣ると人だかりから少し離れたところに司馬嘉や司馬禁もその中にいるのを見つける、そして司馬宮の妻と思われる夫人の姿も、鈍色の鉄騎に跨り燦爛と輝く戦衣を纏い冷たい鉄で出来た戟を携えて進む娘の姿を見て何を思うのだろうか。之を見て麗月は隣にいた司馬彩に彼女の家族の居る方を見るように促す、彩は家族、特に母との蟠りを残したまま家を出てきた訳であるが麗月の言葉に素直に従い家族のほうを見る、目が合ったのか彩は確と頷いた、目を閉じもう一度頷くとそれ以降は前だけを見るようになった。白龍騎士や重騎兵、そして魯将軍の馬弩兵隊、それぞれの甲や器械は極めて精好で綺しく少年たちは之を一目見んとこぞって親に肩車をせがんだ。並び行く亜世羅尉人の隊列にも民衆からは温かい声がかけられた、隴国内では品行良く、隴人と諍いを起こさず暮らしていたからだ。その先頭を行く華珀を見た年若い女人らは甲高い歓声を上げた、初めのうちは珀が街を行けばその羅縠の衣や褐色の肌を好奇の目で見られたものだが、異国人である物珍しさと王女であるが故のその高貴な美しさ、凛々しい振舞いで街の女人の心を掴んでいたからだ。ただこうした亜人の兵を涙を流して見送る女人たちもいた、その中には腹を大きくした者もいた。彼らが来て以来、女閭は大いに賑わったが中には隴国の女と愛し合うようになった者もいた。このような者が多く現れることは隴国の臣らは先の戦の後から予め考えており、遠征の後に男が故郷に帰ってしまい一人残される寡婦のための金も既に用意されている。しかし、それを知っていても麗月は猶、之を憐れまずにはいられなかった。


遵彼隋墳、伐其條枚。

未見君子、叔如調飢。

遵彼隋墳、伐其條肄。

既見君子、不我遐棄。

舫魚赤尾、公室如燬。

雖則如燬、父母孔邇。


と、麗月は古い詩を静かに歌ったが愛し合った亜世羅尉人の男と隴国の女が再会する事は無いだろう。

一月程かけて隴の軍勢は紅国の東の果て、蘭京郡へと辿り着いた。飛と隴の軍勢がここに至ったのは同じ日の事であった。瑜と韓の軍はその軍勢の大きさ故か、使者によれば三日遅れるとの事であった。麗月は諸将に蘭京の城から東南に数里下ったところに陣を張るように命ずると、令を伴って城へと向かった。

市を歩き民の様子を伺う二人が目にしたのは活気を取り戻した民衆と真新しい徳教や道教の廟であった。沙教では人の像を崇める事が厳しく禁じられており沙軍が通った地ではすべての廟が破壊された、蘭京でも多くの廟が壊されたが一年のうちに多くが建て直されたということになる。沙国の版図の拡大によって東域との交易が失われた現代であってもどこか中原とは異なる情緒のある品々が並ぶのを眺めながら二人は歩いていると、令の周りに赤子を抱えた夫人たちが集い始めた。そして赤子の手を掴み令の右か左の腕に触らせたらそっと帰っていく。有難がるように令の姿を拝むものもいた。これを見た麗月はこれを揶揄うように「瓏華、これはどういうことだ?」と笑いながらに尋ねる。令は「韓に広まっている道教の経典の一つである鬼雄位業図には妾の名はない。しかし、土地によって信仰の対象となる者は異なるわ。このような地方の変わった風俗を集めた雑記には妾が祀られている地方があると言う、死んでおらぬのに。ここ蘭京がその一つという訳ね」と答えてから、その書に記されていることを麗月に長々と喋り始めた。紅王程会の不興を買い蘭京郡に左遷された荀令は太守の属吏にまで位を落とされたが、気儘に学問に励む一方で民らの願いによく応えた。不作に悩む農民のために水路の設計を行い土地に向いた作物を教え、流行り病が起こればそれに効く薬や防ぐ方策などを調べて民らに広め、賊や異民族の侵攻があれば兵を率いてこれを速やかに鎮圧し、彼女を慕って集まった若者に学問を教えた。そのため蘭京は東の端にあるにも関わらず非常に栄えた郡となった。三国の戦が終わり、令が麗月のいる隴国に移り住む時には一万余の民が集いこれを見送ったと言う。三国の時代の講談では飛の先主霍治を善とするものが広まっているため、治に忠義を尽くした衛晃を討った令は狡猾な悪女として表現されることが多い。一方で蘭京郡においては程会が主役とされ、令は直言居士ではあるものの武勇に優れた美しい仙女として表現される。そのような事から現在では荀天女として信仰されている令であるが、彼女の図画や像が作られるときは右の手に戟を持ち、左の腕に木簡を抱えた姿で作られる。赤子が令の像の右の腕に触れれば壮健な子に育ち、左の腕に触れれば知に優れた子に育つようになるとされる。「紅龍も珠郡あたりの生地では案外信仰されていたりするんじゃないかしら」と令は最後にこう言って締めて微かに笑った。「孤は瓏華のように姓が明らかな家の学者の娘という訳ではなく卑しい身分の出であるから、そのようにはならぬだろう」と麗月はそれに答えて笑った、令はこれに対して、そう、と頷くだけであった。

「それにしても図画や像の荀天女と瓏華は似つかぬな、瓏華のほうが美しい」と麗月が言うもののそれに令は言葉を返さなかった。二人が他愛のない会話をしながら並んで歩いていると「朱公、それに荀公。探しましたぞ」と後ろから声を掛けられた。二人が振り向くと、そこには甲を着込んだ一人の美青年が立っていた、髭は剃られており、女人のごとく微かに白粉や紅が差されている。嗣韓までの時代においてはこのようなことは、国君の寵愛を得て富と権威を得ようとする者がすることであった。前韓代の史書にも、獨り女のみが色を以て媚びるに非ず、士と宦にもまた之有り、と書かれるほどである。しかし今日では、士大夫の間では未だ男が髭を剃り化粧をするような風習は見下されるときがあるものの貴族の間では広まっている、館昌公周嫣や隴国の将軍魯璿もそうした風習を好む者たちの一人である。三国の時代、瑜の武王そして文王は文学を奨励し、その下に多くの文人が集った。その者たちの幾人かが麗しい青年が髭を剃り化粧をした姿を雅としたため、これが貴族の間で広まり始めたのである。「紅の輔紅将軍、凌白と申します」と彼は拱手した。凌家は嗣韓代から続く名家である。白の先祖である凌瑛は程会の友人で、早くに父を失った会が江東にて挙兵するとその下で軍事に携わり、江東の平定、杜丘への侵攻、延江における周雲との会戦、隴の諸郡奪取においてその将才と知を以て赫赫たる戦功を挙げたが病を得て四十に満たずに斃れた。優れた将才と智謀だけでなく、容姿は壮麗で詩歌に親しみ音楽を好んだ瑛は美凌君と綽名されていた。白はその血をよく引き継いだのか、先の東夷の侵攻に対して、三国の頃より始まる紅国の精鋭兵である祓憂兵を率いて安都の近郊の諸県で連戦しては優れた采配と奇策を以て沙軍を追い返し続け、ついに連合軍の到着まで紅の都を守り続けた。令と麗月はそろって彼を見上げた、背丈は八尺には満たないがそれでも偉丈夫と呼ぶに相応しく、共に六尺ほどしかない二人は見上げざるを得ないのだ。「凌公景の俤があるな。宴で倡家の者たちが演奏を間違えるたびにそちらを見たものだからよく覚えているわ、口に出さぬゆえに程会と違って酒を不味くすることはなかったけど」とだけ令は言ってすぐに白の顔から眼を逸らした。白はこれに対して苦笑する、だがすぐに涼しい顔に戻りこう二人に言う。「こうして遊んでおられるのであれば暇があるのでしょう。見てもらいたいものがあります、そして両公の策を賜りたく思います」と。麗月は「戦のことか?それならば一度陣に戻りたい。連れていきたい者らがいる」と返す、これに白は頷いた。麗月は令と白を伴い隴軍の陣に戻ると、彩と珀、そして璿を呼んだ。そして白は麗月らを連れて亜水の畔へと向かうのであった。

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