沙南の庁舎で軍議を行うという事で、朱麗月は数人を伴って城内を歩いていた。その途上で麗月は霍紅珠に問いかけた、曰く「何故、沙平の城に入った時に亜世羅尉の男を守った?」と。紅珠は「あのままであれば焼け死んでいたでしょう。こちらを騙すために亜瑠和の放った間者と通じたとはいえ、余りに哀れです。はじめから沙軍はその命を捨てさせるつもりだったのですから」と返した。麗月はそれに対して諭すような声色で「翠蘭よ、君は孤と違い徳がある、それは人を慮る心から来るもので、皆から慕われるだろう。だが、その身は一つしかないのだ、その身を危うき処に進んで捨てるべきではない」と言った。これを紅珠は笑った、そして「朱公がそのような事を仰られますか、公でありながら先登するというのに」と言う、それから「そうですね、この生は一つしかないのです。故に自らを恥じるような事をしたくはないのです。紅珠は飛に在る時に、悪政に苦しむ民からの請願を聞かず門を閉ざしていました。母の後に継室となった費氏に憎まれていましたから密会すれば死を賜ったでしょう、それに民を救う力なども持っていませんでした。自らの身を守るために民を遠ざけた、そして民を救う力など無いと自らを弁護した、……その時は唯悔いて涙するしかありませんでした。あの時のような心持には、もうなりたくないのです」と空を見て言った。麗月はこれに対して「孤には真似できぬな」とだけ言った。ふと司馬彩が市を見渡しながら「民らに生気がありますね、沙軍に虐げられなかったのでしょうか」とその心に浮かんだ問いを呟いた。華珀は「沙平の城の南を破った時に得た降虜曰く、殺戮、凌辱、略奪と言った狼藉の類は少なく、沙教を基にした厳しい弾圧も無いという。これも探って置こうか?」と彩の呟きに応えた。「ええ、お願いします」と彩は珀の美しい顔をまじまじと見つめた。

政庁に集った諸将は軍議を始める。「未だ敵情は探れてはおれぬが、南の大都市である不流苦、それから亜国の都である羅地に沙軍は軍勢は集結しているであろう」と韓の太史徳が声を上げる、これに対して答えたのは瑜の臣らであった。「不微に籠る亜国との争いは膠着しておるという。それを例えるならば飛国と瑜国の争いに似ている。陶を攻めるも川と要塞で堅く阻まれ、開昌から行くもまた山が要塞となる。しかし飛国は貧しく北には出るほどの力はない。沙軍は不微へは亜水に沿った隘路でしか入ることが出来ずそれよりもまた堅いのです、しかしそれは亜国が南に出られぬことも意味している」と言った呂茂に続き陸然は「沙南の陥落を知った沙軍はこちらに軍を差し向けてくるでしょう。羅地、不流苦、そしてその間の三つを拠点としてこちらを取り囲むかのように」と言った。「然れば、こちらも韓、瑜、そして飛紅隴の軍に分けてそれぞれ三方に当てるべきでしょうな」と麗月は言うが、関厳はこれを制止する、曰く「未だ敵情が知れぬまま軍を動かすのは危ういかと思います。羅地、不流苦からのみの二方からの進軍であれば、数で劣る南北が其々破られ、その後に中央の軍が包囲されます。斥候を放ち相手の出方を探ってからの方が良いかと」と。凌白は麗月に賛意を示した、曰く「いえ、安全な所まで三路に分けて進んでおくべきです、それも早いうちに。沙南の守軍を破ったばかりであり、敵方はこの近くまでまだ軍勢を動かしていないでしょう。待っていると敵方が意のままに戦線を築き上げこの戦は膠着します。沙軍の本拠は近く、一年前に紅を荒らされた韓は長期の戦と為れば不利です」と。徳は暫しの間押し黙ると、口を開く。「それでは、東に百里の奈羅の邑に徳の率いる韓軍が、東南の彌邪に瑜軍が、南の瑜白に飛紅隴の軍がそれぞれ直ぐに向かうことにしよう。それ以降は各軍は敵軍の出方を伺いながら、そして伝令を各軍の間で密に行き来させながら各々が東を目指す。これでどうだろうか?」と徳が諸将に提案すると皆は素直に賛意を示し拱手した、それからは各々が地図に向き合い伝令のやり取りのための地点の指定や前進や後退があった際の指針を夜まで行った。

それから数日が経った。三つの軍勢はそれぞれ指定された邑に向かい陣を張って斥候を出し敵勢の動きを探っていた。沙軍はこれを妨害するように頻りに少数の騎兵でごく短い攻撃を仕掛けては退く事を繰り返していた。韓軍の兵は僅かに損なわれるのみであったが、沙軍の騎兵もすぐに去っていくためただ日だけが過ぎ去っていく。被害はごく僅かであるが、どこからともなく表れては陣に矢を射かけてくる弓騎兵を前にして韓の兵らの貌に疲れが見え始めている。幾度かの襲撃を凌いだ瑜軍の将らは幕舎に集い地図を眺めていた、敵軍を表す駒は未だ地図の上に置かれておらず脇に転がされていた。「斥候を出すも、何かを見る前に敵方の斥候と出くわし何も得られぬまま帰って来る。それに対して沙軍はこちらの陣の位置を良く把握している、まるで天に目があるかのように」と厳は独り言ちる。「こちらは分かりやすい配置ですからね、開けていて民が多く水の不安もない川沿いの邑ですから。古い地図を頼りにしている我ら、それに対して沙軍はごく最近に作られた灌漑、それに伴う集落も実際に見て知っているため自在に兵を置くことが出来る」と陸然は言うと、すらすらと地図に何かを書き込んでいく。まず初めに敵が自陣に攻めてきた方角を、それから書き込まれたのは地図にはない水路や集落であった、ただその位置は大まかであった。「ふむ、民らに聞いていたのか?」と呂茂が言うと「紅で雇った韓人で亜国の言葉を多少解す者と、亜人で韓の言葉を多少解するものを使って集めた情報ですから余り精確な情報を得ることはできておりません。華将軍を臣下に加えた隴が羨ましい限りですね」と然は笑った。「しかし、これでも算することは幾らかできるだろう。関将軍、其方であればこれまでにあった三方からの襲撃はどの経路で攻める?」と周嫣は厳の方を見た。「沙兵らの襲撃は俊敏、それを見るに、水場を幾つか経由し馬を休めながらこちらに来ているのでしょう。厳であればこうですな」と地図に駒を置いていく、しかしそれらが繋がって行きつく先は幾つも在った。茂はこれを見て眉間に皴を寄せ、それを指で幾度もなぞりながら目を閉じた。茂は幾度も思惟していた、どこに陣があれば毎日凡そ決まった時刻に三方のいずれかからも現われる事ができるのかを。そして忽として目を見開くと、駒を手にして東北東の丘に囲まれた、川から少し離れた邑、馬和に置いた、それはこの陣から凡そ五十里先であった。「幾つかの水場を経てこちらに向かえば凡そ七から八十里。かの太史洪将軍は一日に百六十里余りを踏破したと言いますから、あり得る位置かと思います」と然は同意し、それから馬和の奥は東に更に五十里、不微より始まり羅地そして不流苦を経て海へ至る羅水から水路を引かれた開けた街、亜不顔の地に駒を置いた。「今対している敵勢は此の地を本拠とし、先程呂公が示された邑に出張ってきているのでしょう」と然が言うと嫣は「あり得るな……」と言うと、身を落ち着けるように一度大きく息を吸い「呂元秀の言った地、馬和を明日攻めよう」と拳を握った。「太史将軍も朱公も未だ動かれていない様子。中央が突出することになりますが、よろしいのですか?」と厳が言うと「敵を撃ち破ることが出来れば中央の突出は問題ありません。沙南での軍議通り伝令を送れば、朱公はまず間違いなく前進します。恐らく北の韓軍が相対している敵が最も大きい勢力かと、しかしながら太史将軍は前に進むことは出来なくとも大きく敗れる事は無いでしょう」と然がこれに返す。それを受けて「それならば厳にお任せください。この厳に虎嘯騎以外の騎兵をお預けください」と厳は嫣に対して拱手した。「良かろう!」と嫣は威勢よく声を上げた。

翌日、厳は茂を伴い騎兵のみを率いて馬和の邑へと向かった。しかしそこで厳の軍勢が目にしたのは敵陣ではなく、ただ民が暮らしているだけの邑であった。兵らは茂の言が外れたかとため息をつく、その中で厳は驚きながらも周りを見回す。「いや、陣の痕跡がある。そして溜められた糧秣も」と厳が言うなか茂は周りの丘を見回していた。まず彼が気にしたのは伏兵である。糧秣を置いて前進することは考えづらい、それに民を残したままであるのは沙羅尼にとっては都合がよい。何しろ、韓軍の動きは亜世羅尉と結んだことによることは明らかであり、そのため韓の兵は亜世羅尉の民を無下にできず戦いづらい。ただ奇襲を仕掛けるにしても危険すぎるのだ、糧秣は置きっぱなしである、これに火を掛けられれば失う事になるし、瑜軍は通ってきた中央の道をそのまま引き返すだけで良い、道中で充分に罠の有無に気を払って来た、騎兵であるからここで包囲があってもすぐに逃げ去ることができる。瑜軍を引き込むために陣をより後方に動かすために退く、これは考えられうるがそうだとしたら糧秣を置いては行かないだろう。民を詰問するのが手っ取り早いがこの場には亜世羅尉の言葉を解す者はいなかった。忽として目を見開いた茂は大声をあげる、曰く「本陣が襲われておるぞ!」と。厳は「なぜそう言えるのだ?」と茂に問い返した。「説明は途上で致しましょう、将軍はすぐに軍を引き返すべきだ」と茂が言い張ると厳は判断を迷う。その彼に声をかけたのは海烏騎を束ねる将、金道であった。黄金のように輝く髪に、翡翠の如き瞳、その美しい貌、女人ながら八尺を越える容貌魁偉の道。彼女は父を先の戦で示武劉に討ち取られたあと、ひどく落ち込んでいたがこの戦には異民族である羑と海烏族を率いる将として名を連ねていた。曰く、「将軍、敵軍は南の道から全軍で向かっておるようですぞ。数人とともに陣の後を巡っておったが南に向かう足跡は新しくそれに大規模であった」と。「南の道から追いましょう、急ぐべきだ。未だに慎重を期すつもりであれば、将軍はこのあたりを長々と探っておればいい。茂が海烏騎と丘卑騎を率いて周公の救援に向かいます。もしこれが杞憂に過ぎなかったのであれば、後に法に基づき茂を斬ればよいでしょう」と茂が大いに笑うと、厳は軍勢に号令を出し南の経路から自陣に向けて出発した。その道すがら、馬を駆りながら厳が茂に問うたの一点であった。「どのようにこちらが騎兵を集めて出陣したのを沙軍が察知したのだ?荀公の書によれば、人の目から見渡せる地は十里余り先までという、土煙を見たとしても瑜軍の陣ほど離れたところのものは見れないだろう」との厳の問いに茂は「高いところから望めば、より遠くを。陣の周りは丘が多いですから。四半里の高さの丘から望めば百里余先を望めます」と答える。厳は「成程な。馬和の陣に残る物を見るに沙軍がこちらの本陣に急襲を掛けたのは明らかであったが、どのように厳の軍勢が出立したことを察知したのかが分からなかった」と得心した。

この頃、茂の読み通り瑜軍の本陣が沙軍によって強襲されていた。瑜軍は三万の騎兵を沙羅尼の中央軍の陣があると目される馬和の邑に送っていたがそれと入れ替わるようにやってきた沙軍は四万余の騎兵、三万が陣の南から、残りが陣の北から攻め寄せてきており、陣に残る一万余の瑜軍は挟まれた状態にあった。そのうえ、陣に残っていたのは千の虎嘯騎を除いては短兵と弩兵のみであった。南北に立ち登る土煙から敵軍の接近を察知した陣にはすぐに鐘の音が響き渡り皆が戦う姿勢を整えていた。「北の軍は周公自ら虎嘯騎を率いて攪乱していただけますか?その間然は歩兵を率いて陣を堅守いたします、幸い陣の周りの鹿角は十分、置き盾で隙間を埋めて弩を放っていれば暫くは持ちこたえられるでしょう」と然が言うと嫣は戟を背負い、鬼彊を挟み、木面を被りながら「あいわかった。しかし、勝機はあるのか?」と問い返す。「これだけ大規模です、呂公も関将軍もすぐにこれに気づき戻ってくるでしょう。そうなれば逆に挟撃の形になる、まるで金床に槌を叩きつけるかのように。それまで耐えきれば勝ちです」と然が笑顔を見せると嫣は「視死忽如歸」と鉄馬に跨り配下の騎兵を連れて北へと疾駆していった。死を視るは帰るが如し、という節は良く用いられる言葉であるが、嫣が意識したのは瑜の武王の子、文王の弟であり詩聖と謳われた周理によって作られた辺境を駆ける武勇の士を思い詠んだ詩であった。世事に及ばず、と嘲笑われることもある詩ではあるが、今当に国難に身を捨てる彼らにとっては余りにも真に迫る詩であるのだ。


棄身鋒刃端、性命安可懷?

父母且不顧、何言子與妻。

名在壯士籍、不得中顧私。

捐軀赴國難、視死忽如歸。


虎嘯騎を率いた嫣は僅か千騎で萬を超える胡騎とぶつかり合った。鋭き刃にその身を賭けるとき、彼らは命を惜しく感じない。もはや死を覚悟していた彼らは、それならばどれだけ長く生きて、どれだけ多くの者を屠れるかを考えるだけであった。彼らの気が狂ったかのようにも思えるが、壮士の中でも選ばれし武勇を持つ虎嘯騎の籍に名を連ねるということは、忽ちそういう事であった。父母を顧みず、妻子に何か言を残すこともないのだ。男子よ!我が雄姿を遠く離れた地でその心に刻め!娘よ、吾に憧れること勿れ!虎嘯騎は皆その名に相応しい雄叫びをあげて、戟を構えて群れる胡騎の真っ只中に突入した。嫣の心には皇太子の貌が浮かび上がっていた、宿昔寝止を共にした愛しい皇太子の貌が。幾度も見た優しいあの笑顔!それから戦に赴く自分をを思い涙したときの貌!そしてこの身体の全てが皇太子の事を忘れられていない、與に愛を歓んだことを確と覚えている。しかし何か言い残す事などあるのだろうか?この身は足下の寵愛を受けた身である、それならばただ足下を恥じ入らせるような戦いをしないのみだ、死ぬその時まで剛強たらん、鬼雄となっても韓に仇なす胡人を蹈み潰さん―――忽焉として嫣は時が止まったかのように感じていた、沙兵の振る矛の切っ先は煌いたまま留まり、沙兵は石像のように動かなかった。驚くことに左右の騎士たちも同じように感じていた。彼らの周りを囲むその動きを止めた沙兵の胸を素早く突いていく、驚くことに騎兵の群れを抜いた虎嘯騎は一兵たりとも欠けていなかった、それどころか先頭にいた嫣とそれに並ぶ者たちはこの一瞬に思える間に十余人を殺していた。この衝突で敵兵の意気を削いだことを悟った嫣は兵らに弓を構えさせ、胡騎の集団の周りを回りながら撃つように指示した。こうなると追いかけあいになる、次第に北より来た沙軍の騎兵の集団の統率は失われていく。一方で陣の歩兵たちも善戦していた、甲を着込んだ然は皆と同じように盾の後ろで屈みながらも隙間から鹿角越しに微かに伺うことができる敵軍の動きを見ては、機を見て後ろの者に鐘を叩かせた。こうすると、弩兵が勢いよく立ち上がり騎兵の群れに向けて矢を放つ。狙いをつけている暇などない矢の雨、その中で敵騎兵の一部が下馬して鹿角を壊しに来ている。わずかな隙を見て放たれた瑜軍弩兵の矢はほとんどまともに当たらなかったが、陣をこじ開けようとする敵兵を竦ませるには十分ではあった。しかしながら多勢に無勢、少しずつ騎兵から守る鹿角の壁は崩されて行き、歩兵の戟がその代わりになるまでのあと僅かであった。

その時であった、敵の最前列の兵らが流矢の餌食となった。これは誤射ではなく瑜の援軍であった。その時、厳は鉄騎兵を率い、自慢の大鉞を手にして自ら先頭に立ち敵騎兵の集団を後方から抉っていた。海烏、丘卑騎はその突撃からは逸れて陣に殺到していた沙騎の脇を走り矢を浴びせかけていた。海烏騎を率いる金道はそのまま周嫣が奮戦している北へと向かっていった。丘卑はそのままぐるりと一度遠くに離れ、散り散りになり辺りをうろつき始める、まるで兵の不幸を待つ烏の様に、然はこれを見て陣の短兵を突撃させた、するとこの動きに共同して丘卑騎も側面から敵集団に突入した。

この戦いは僅か四刻で終わり、瑜軍の斬虜は三萬を優に超えた。勝利の後に残るのは極めて強い疲労であった、しかし然は「周公、まだ日は真上にあります。今日は馬和の邑まで進み、明日は亜不顔まで軍を進めましょう」と提案した。「厳らが既に何里駆けたと思っている」とこれを諫めたが「百余里でしょう。身体を休めるのは夜にできます、それに亜不顔を取れば我らは暫く戦わずに休むことができますぞ。何より敵に衝撃を与えた今こそ、燃え広がる火の如く奥地まで侵攻しておきたいのです」と然は笑う。嫣は然のこの言に暫くの間呆れて口を開けたままであったが、その後、彼に続いて笑うのであった。「いいだろう、このまま馬和、そして亜不顔までいこうではないか。兵らには此度の戦の報酬は規の倍とすると伝えよ」と嫣は言うと「お心遣いありがとうございます、この長駆はこの戦の趨勢を決めるもの。足下も理解してくださるでしょう」と然は恭しく感謝した。翌日の遅く、亜不顔の邑にたどり着いた瑜軍が目にしたのは僅かな兵糧の見張りの兵しかおらぬ陣であった。その兵らはわずかな抵抗もせずに降った、ここまで敵軍が来たという事は前線が破られたという事に他ならないからだ。

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