2-6



「――ひれ伏せ、人間」


 竜族の、言霊。

 自然現象すら統べる、力ある言葉とともに、鋼色の光が周囲一帯に立ち込めた。


(……まずい)


 その輝きが示す術の効力範囲を悟るや否や、アーキェルは躊躇なく腰に提げた剣を抜き放った。


 ――鞘から姿を現したのは、淡い星辰の瞬きを宿した、


 ザカルハイド城で警備兵に見せた黒鋼の剣と、刀身の長さも形状も全く同じ。しかし両者を決定的に隔てているのは、その対照的な色彩だけではない。


 雪白の刀身の周囲を風花のごとく舞うのは、いかな名工の技を以てしても生まれ得ないであろう、儚く清廉な光。

 

 星の欠片が瞬くようなほのかな輝きは、紛れもなく、白剣の奥深くから零れ出ているものだ。

 なぜこの剣が、自ら淡い光を放つのかはわからない。けれども――幾度となく死線をともに潜り抜けてきた白剣あいぼうを信じ、アーキェルは一息に細い刀身を振り抜いた。



 瞬間、残像すらも置き去りにして、星を散らすがごとき一閃が、周囲に浮かぶ鋼色の光を断ち切った。



 しかしなおも、まばゆい鋼色の光彩は、輝きを増していく。――アーキェルがたった今斬ったばかりの、ごく一部を除いて。


(……嘘だろ、)


 動揺しながらも、アーキェルの脚は、平生の色を取り戻した大地の上を駆けていく。眉根を寄せたその横顔を、鋼色の光が煌々と照らし出した。


 ――アーキェルの持つ白剣は、魔法を斬ることができる。


 理由も原理も不明だが、これは確固たる事実だ。ゆえに、アーキェルは目の前で起きている事象について、戸惑いを隠せなかった。

 そもそも、精緻に編み上げられた魔法は、その一部を切り取られただけであっても、均衡が崩れて術全体が効力を失う。無論、それは竜族の術であっても例外ではない。現に、門番の龍の風魔法は、白剣で斬ることが可能だった。


(……それなのになぜ、この術は無効化されないんだ?)


 アーキェルが斬った範囲からは、鋼色の光が消えている。したがって、白剣が力を発揮できていないわけではないということだが――……。

 刹那の間に思考を巡らせつつ、アーキェルが竜族の長の術の効力範囲からかろうじて脱した、その瞬間。



 ――まばゆい鋼色の閃光が、瞼を灼いた。



 同時に、鼓膜を重々しい破砕音が突き刺した。横目に見れば、先の風魔法で根こそぎ吹き飛ばされた大樹が、見えざる巨大な手で上から押しつぶされているかのように、ミシ、バキ、と音を立てながら、形を変えていた。

 その光景が視界に入った瞬間、アーキェルは弾かれたように視線を後方に向けた。


「――――レスタ!」


 アーキェルの遥か後方、少し開けた場所で地に蹲っているレスタからの応えは、ない。

 それどころか、呼びかけにも指先一つ動かさない相棒レスタの姿に、アーキェルが爪先の方向を変えた、その時。



「――やはりあの娘ではなく、お前の方だったか」



 涼やかな、氷の鈴を振ったような澄んだ響きが、やけにはっきりと聴こえた。それが意味するところを瞬時に悟ったアーキェルの背に、ぞっと冷たいものが走る。


 足音はおろか、衣擦れの音ひとつ立てず。

 長髪を風になびかせる気配すらも、置き去りにして。


 泰然と、あたかもそこにいることが当然であるかのように佇む――白銀の少女。

 もはや彼我を隔てるものは、わずか数間の距離しかない。その恐ろしい事実に、知らず首筋を汗が伝った。


「答えろ、人間。お前が持っている、は何だ?」


 冷たい黄金の双眸が射るような視線を向けるのは、アーキェルの左腰。すなわち、白剣を提げている側に相違ない。


(そりゃ、見逃してくれるわけがないよな……)


 世に魔法を斬ることができる剣は稀にあれど、強大無比な竜族の術を断ち斬ることができるのは、おそらくこの剣をおいて他にない。竜族の長が警戒するのは、至極当然な話だろう。

 警戒されて当然なのだが――いったい、どう答えたものか。

 この上ない窮地に陥りながらも、アーキェルの脳の奥深くで、泡のような疑問が浮かぶ。


(……どうして、わざわざ話しかけてくるんだ? 力ずくで奪おうと思えば、すぐにでもできるはずなのに)


 かすかな疑念を追求できる余裕もないまま、アーキェルは、努めて静かな声で答えた。


「これは――おれの親の、形見です」


 瞬間、貴石さながらの硬質さを宿す竜族の長の瞳に、何らかの感情が閃いたことを、アーキェルは見逃さなかった。しかしその揺らぎが過ぎったのはほんの一瞬で、次いで黄金の瞳に浮かんだのは、かすかな苛立ちだった。


「……答えになっていないな。なぜ、その剣は、わたしの術を斬ることができる?」

「俺にも、理由はわかりません。ただ、そうなるということしか」


 アーキェルの応えに、ふ、と興味を失ったかのように、竜族の長の双眸から感情の色が消えた。そのまなざしの無機質さに、ぞくりと寒気が背骨を這い上がり、無意識に鞘に手が伸びる。

 白剣の柄をアーキェルが握るのと、完璧な形の唇が冷厳たる宣告を紡いだのは、ほぼ同時だった。


「まあいい。――ならば、奪うまでだ」


 ぶわり、と小柄な少女の身体が膨らんだような錯覚を覚え、アーキェルは息を呑んだ。風になびく白銀の髪がうつくしい黄金色を帯びると同時に、アーキェルは白剣を再び抜き放った。


「――――っ!」


 知覚するよりも先に、アーキェルは虚空を薙いだ。瞬間、耳元をジッ、と何かが掠め、鼻先に空気が焦げる匂いが漂った。

 雷魔法にこの距離で反応できたのは、奇跡に等しい。だが、これでまんまと白剣で術を断ち切れることを証明してしまった、とアーキェルが内心臍を噛んでいると。


「なるほど、やはりその剣にからくりが――――……っ!」


 常に悠然たる態度を崩さなかった竜族の長が、黄金の瞳を瞠った。紛れもない、驚愕の表情にアーキェルが戸惑っているうちに、その瞳に映る感情は全く別のものに姿を変える。


「……貴様、その剣が、形見だと抜かしたか」


 刃のごとく細められた双眸の奥で燃え盛るのは、煮え滾るような憤怒と憎悪。

 かすかに震える声と身体は、その胸の裡で猛り狂う劫火さながらの激情が、今まさに溢れ出んとしていることを、ありありと示していた。



「何が、理由などわからない、だ。――ふざけるなっ!!」



 激高した竜族の長の咆哮と同時に、白い炎が巨大な波のようにアーキェル目掛けて押し寄せ――すべてを、呑み込んだ。

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