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『――レスタ、離れろ!』


 切迫した、常ならざるアーキェルの声が、レスタの耳朶を打つ。

 反射的に退こうとした瞬間、周囲一帯に立ち込めたのは、凶悪なまでの魔力の気配だった。


(……なんで? 今の今まで、さっき倒した龍の魔力反応しかなかったはず――)


 脳裡に浮かんだ疑問を形にするだけの暇も与えず、大気が爆発した。同時に嵐のような突風がレスタの全身を打ちつけ、衝撃で身体が後ろに引き倒される。


 咄嗟に顔をかばったまま、なすすべなく暴風に吹き飛ばされてゆく。まずいな、このまま崖まで飛ばされたら、あの重力結界に捕まって奈落の底だ、と刹那の間に思考しつつ、素早く魔法を紡ぐ。


(……ローブの加護がなかったら、ずたずたになってたわね)


 吹き荒れる突風によって礫と化した、無数の小石や木の枝が、木の葉のように飛ばされていくレスタを襲う。風の刃からレスタの身体を護る盾となるのは、守護結界を幾重にもかけた、ローブ一枚きりだ。


 耳元の風鳴りと、悲鳴のように響き渡る破砕音に肝を冷やしながら、風魔法で自分の周囲を飛び交う砂礫の軌道をわずかに変える。たったそれだけの、あまりにもささやかな干渉を維持するだけで、精一杯だった。


、余波でこれ? いったい、どんな化け物――)


 と、不意に全身が硬い何かに打ちつけられ、かは、とレスタの口から苦悶の声が漏れる。自分の周囲に発動していた風魔法がかろうじて緩衝材代わりになってくれたものの、完全に衝撃を相殺するにはほど遠かった。

 地面に蹲り、身体を折って激しく咳き込む。反射的に滲んだ涙を拭い、レスタは砂煙の中の、アーキェルの気配を探った。


 ――無事でないわけがない。彼が、これくらいで倒れるはずがない。


 全幅の信頼を寄せているがゆえに、アーキェルの無事は端から疑っていない。問題は、レスタがどれほどの距離を飛ばされたのか、ということだった。

 いくらレスタに才があるとはいえ、魔法の効力範囲には限度がある。これほどの術を使う相手ならば、せめてアーキェルを支援できる距離に自分もいなければ、とレスタがおおよその距離を測り始めた瞬間。



 ぞわり、と全身の皮膚が、粟立った。



(……なに、これ)


 みるみるうちに、口の中が乾いていく。周囲の温度が急速に下がったかのように、身体が勝手にかたかたと震え出す。


 それは、圧倒的な。――あまりにも、強大な気配だった。


 レスタは当然、龍は恐ろしい強敵だと知っている。自分一人ならば、到底戦いを挑もうなどとは思わないだろう。

 しかし、アーキェルがいるなら話は別だ。彼は、どんな相手だろうと、決して負けない。彼の隣にいれば、何も怖くない。

 その自分を以てして、アーキェルに、逃げろ、と叫びたくなるような――



 強大無比な気配の持ち主が、優雅に、姿を現した。



 青空に鮮やかに映える、星辰を散らしたような白銀の髪が、陽光を弾いて淡く瞬く。

 長い髪を天衣さながら風になびかせ、遠く岩棚の上に舞い降りたのは、花のように華奢な少女だった。


 無論面立ちなど、いくら目がいいレスタでもこの距離では見て取れない。しかし少女の神秘的な雰囲気と、はっとするような可憐さは、どれほど遠くにいても、悟ることができただろう。


 同時に、――――隠す気もない、敵意と冷ややかさも。


 少女とこれほどの距離があってさえ、本能的な恐怖に身が竦む。あまりの重圧に、呼吸も、瞬きすらできない。

 息を詰め、石像のように固まっていたレスタを打ったのは、力強い、アーキェルの声だった。



「――あなたと話がしたくて、ここまで来ました。おれの話を、聞いてもらえませんか!」



(……そうだ、アーキェルは変わらない。たとえ誰が相手でも、どんな相手であっても)


 は、と息を吐くと、こわばっていた身体から、少しだけ力が抜けた。

 彼は負けない。守りたいものを背負っている彼が、相手に背を向けることはない。


 それならば――彼の相棒たる自分が、こんな所で倒れていられるわけがない!


 強い、意志の滲んだ。決意のこもった、アーキェルの声に応えるように。

 レスタはゆっくりと、震える足に力を込めて、立ち上がった。その拍子に背中が痛んだが、それにも構わない。

 願うことは、ただ一つ。


 ――どうか、少しでも。少しでも近く、少しでも早く、彼のもとへ。



 * * *


 アーキェルと相対する竜族の長は、無言だった。

 まるでアーキェルの言葉など届かなかったかのように、地に臥したままの門番の龍に視線を向け。


 ――次の瞬間、倒れていたはずの龍が、忽然と姿を消した。


 思わず上げかけた声を、アーキェルはすんでのところで呑み込んだ。動揺を相手に見せるのは、得策ではない。それにしても――


(……風魔法と、光魔法の同時発動、か?)


 龍の巨体を移動させる風魔法と、光を操って姿を視界から消す光魔法。

 アーキェルには、魔法の心得はない。しかし、相棒レスタが魔法士であるがゆえに、その苦労や制約は、ある程度耳にしている。


 呪文や道具もなしに、魔法を発動させることは、熟練の魔法士しかできないこと。

 二属性以上の魔法を同時に用いることは、通常不可能なのだということも。


 しかし、相対する竜族の長は、同じ竜族相手に、易々と二属性の魔法を同時に使って見せた。――魔法を跳ね返す皮膚を持つ、竜族に対してだ。


(二属性以上を使えるのは確定、と)


 確信したアーキェルの背を、冷たいものが伝う。

 そもそも、通常は人間も竜も、一属性しか魔法を使うことはできない。レスタは風・炎・土・雷の四属性を操れる稀有な存在だが、彼女ですら四属性を全て同じ練度で使いこなせるわけではない。あくまで主に極めている属性は一つだ。

 それが複数属性を使いこなすとなれば、対応は至難。その上、


(……なお、あの威力か)


 手を腰元の鞘に掛けたまま、アーキェルが思考を巡らせていると、おもむろに竜族の長が、口を開いた。


「――なぜ、お前たちはまだ、立っている?」


 凛とした、澄んだ声音が、鼓膜を震わせる。

 人の発声と全く変わらぬどころか、なお美しい、妙なる楽のように清かな響きに、アーキェルは驚きを隠せなかった。


 ――今まで耳にした中で、最も流暢な人語だった。


 そもそも、竜族は戦いの時以外、人間の前に姿を現すことはまずない。ゆえに人間の言葉を聞く機会もほとんどないため、正確に人語を操ることができる龍は、極めて稀だった。


(……まして、竜族の長だろ? 人間に会うことなんて、まずないはずなのに――)


 

 アーキェルが抱いた疑念を断ち切るように、竜族の長は言葉を続けた。


「まあいい、次でわかることだ。――ひれ伏せ、人間」


 表情一つ変えず、竜族の長が呟いた次の瞬間、ざわり、と大気がうごめき――白銀色の髪と黄金の瞳が、淡い鋼色の光に束の間染まった、ように見えた。

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