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翌早朝、街を発ったアーキェルとレスタは、数刻ほど山道を歩き、やがて小峰の頂に至った。
眼下に広がる絶壁を眺め、レスタがぽつりと呟く。
「まあ、想像はしてたけどさ。……まさか、ここまでとはね」
朝靄がかすかに立ち込める中でも、はっきりとわかるその異様。
――遥かに聳え立つ霊峰の周囲は、深い奈落と化していた。
無論、自然に崩れ落ちたわけではない。その証拠に、霊峰を取り巻く千尋の断崖は、まるで鑿でも振るったかのように、どこを取っても空恐ろしいほど見事な垂直を描いている。
圧倒的な力を振るう竜族の爪痕が、ここまで桁外れな規模で残されている場所は、他にはまずないだろう。
「……レスタ、どうする?」
絶壁の傍らで立ち止まったアーキェルは、何事か思案に暮れているレスタに、半ば確認の意を込めて問いかけた。
堀のように巡らされた峡谷において、たった一筋だけ、削り取られていない場所。さながら霊峰へと至る橋のように残された、細い道を見遣りながら。
「……まあ、結果はわかりきってるけど、実験してみようか」
眉を顰めて言うや否や、レスタは足元の石を拾い、遥かな対岸に向かって勢いよく投擲した。
「――ほら、見て」
次の、瞬間。
まるで見えざる壁に阻まれたかのように、レスタが投げた石が、峡谷の中空で刹那の間静止する。その直後に淡い光が弾け、小石は奈落の底目掛けてすさまじい勢いで落下していった。
アーキェルが思わず言葉を失っていると、レスタが淡々とした声音で呟いた。
「見ての通り、強い重力魔法が結界代わりになってるってわけ。魔法でこの絶壁を飛び越えようとすれば、さっき投げた石の二の舞になるわね」
「……レスタの魔法でも、か?」
アーキェルが半ば信じられない心地で尋ねると、レスタは首を横に振った。
こと魔法に関することで、レスタが首を横に振る姿を、アーキェルはここ数年で一度も見たことがない。それほどの才覚を、レスタは持っている。
――その彼女が、こうもあっさりと?
「少なくとも、試す気にはなれないわ。……しかも、この重力魔法が霊峰の周囲をくまなく取り巻いてるから、抜け道もない。だけど唯一、効力が及ばない場所が――」
「……あの道ってわけか。わかりやすくていいな」
明らかに作為的に残されたであろう、龍の聖域へと至る道。
視界の端にかろうじて映るそれを見つめ、アーキェルは不敵な笑みを浮かべた。
「……嘘。何も反応がない?」
レスタの毒気を抜かれたような呟きに、アーキェルも思わず目を瞬かせた。
あれから半刻ほど歩き、龍の聖域へと至る細い道の前に辿り着いた二人は、まず途上に何がしかの罠が仕掛けられていることを疑った。
これ見よがしに残されている唯一の通行路に、策を仕掛けないはずがない。そのはずだったが――。
「俺も、特に気配は感じない」
魔法で罠が隠されている気配はない。それどころか、敵の気配すら感じない。
レスタが念のため、ともう一度魔力探知を行ったが、結果は同じ。
「……どういうことなんだ?」
戸惑いを隠せず、隣のレスタに声を掛けると、珍しくも歯切れの悪い答えが返ってきた。
「わたしにもわからない。……でも、反応がないなら、本当に何もないとしか考えられない」
もしかしたら、わたしじゃ探知できないような罠が潜んでるかもしれないけど、と前置きをしてレスタは続けた。
「行く? 一応風魔法の準備はしておいたから、万一橋を落とされても、まあ何とかなるとは思うよ」
――ここを越えたら、もう引き返せない。
レスタは暗に、そう告げている。そしてアーキェルも、言葉にはせずとも理解していた。ここから先は、龍の聖域だ。踏み込めば、何が起こるかわからない。
それでも。
「ああ。――行こう」
ここまで長い道程を共にしてくれた、誰よりも優しい彼女のために。
そして、何より大切な故郷の皆を、守るために。
アーキェルは、レスタとともに、細い道へと一歩を踏み出した。
* * *
意外なことに、龍の聖域へと至る細い道には、本当に一切罠が仕掛けられていなかった。
長い道程を踏破し、霊峰の深い緑を臨んだ二人が、思わず顔を見合わせてほっと息を吐いた瞬間。
――ざわ、と不可視の波動が森を揺らした。
背筋が粟立ち、全身が震え出すようなこの感覚を、アーキェルはすでに知っている。
「……門番のお出まし、か」
同じく敵の気配を感じ取ったレスタが、アーキェルから素早く距離を取り、後方に退いていく。
魔法士として後方支援に徹するレスタには、できる限り相手の攻撃の射程圏内に入らず、かつ自分の魔法がアーキェルに届くような、絶妙な位置取りが肝要となる。
ちょうどレスタが間合いを充分に取った頃合いで、それは森の奥から姿を現した。
悠然と。そう錯覚するほどゆったりとした動作で。
『――一度だけ、口を利いてやる』
淡い、ほのかに光を放つような、黄金色の巨躯。
自若とした動きとは裏腹に、冷たい敵意に燃える、濃い黄金の瞳。
聖域を侵した者への怒りと、紛れもない殺気が、アーキェルの全身に注がれる。
しかしアーキェルは状況も忘れて、龍の言葉に聴き入っていた。
『この地から疾く去れ。今すぐ背を向けるなら、慈悲をくれてやろう』
地響きのように大気を震わせる、やや聞き取りづらい唸り声。――しかし眼前の龍が発しているのは、紛れもない人語だ!
(嘘だろ。……人語を喋ることができる龍に、出逢えるなんて!)
アーキェルの背が、期待に震える。人語を話すことができる竜族は滅多にいない。少なくともアーキェルにとっては、これが初めての邂逅だ!
「あの、勝手に住処に立ち入ってしまってすみません。――あなたたちの長と、話をさせてくれませんか?」
『――――――…………』
龍が、束の間沈黙する。
まるで悩んでいるかのようなその素振りに、もしかしたら、耳を貸してくれるのかもしれないという希望が、アーキェルの胸の裡にかすかに芽生える。
対話することができるのならば。
戦いなんてしなくても、もしかして――
『……痴れ者が』
しかし、淡い期待は、一瞬で儚く打ち砕かれた。
怒りに震える、唸り声が。殺意に満ち満ちたまなざしが、決定的な拒絶を伝える。
『たかが人間風情が、姫様と話がしたいだと? 立場を弁えろ、この虫けらが!』
咆哮とともに、龍の頭頂部の角が、淡い翠に染まる。その光を目にした瞬間、アーキェルは反射的に声を上げていた。
「――レスタ!」
アーキェルの語尾をかき消すような勢いで、前方から嵐が迫る。突如巻き起こった旋風は、目の前の龍が膨大な魔力で発生させたものだ。
大木が軋み、中途から折れた枝が彼方へと吹き飛んでいく。地面からは砂礫が巻き上がり、瞬くうちに視界を塞ごうとしていた。
……このまま直撃すれば、まず大怪我は免れない。
風魔法の厄介な点は、風そのものではない。問題は突風によって弾丸と化す石礫や、視界を奪う砂煙の方だ。ゆえに――
アーキェルは、全力で前方へと駆けた。
『自ら死にに来たか、能のないことだ』
冷徹な声とともに、悲鳴のような風鳴りが近付いてくる。無数の礫が無慈悲に飛び交う嵐の中へ、勢いよくアーキェルは飛び込んだ。――そして。
半瞬後、風の刃を潜り抜けたアーキェルは、龍の眼前に躍り出た。
『――なっ!?』
驚愕に、龍の声がかすかに揺れる。無論、アーキェルはその一瞬の隙を見逃さなかった。
「レスタ!」
呼び声に呼応するように、アーキェルの足元で茶色の光が湧き上がり、大地が凄まじい勢いで隆起する。両脚に力を籠め、アーキェルは勢いよく盛り上がった地面を蹴った。
自分の眼前に、むざむざ飛び出してきた
『魔法を使う娘がいたのか。……だが、たかが人間風情が、どうしようというのだ?』
この距離ならば、わざわざ魔法を使うまでもない。頭を振った風圧だけで、人間など木の葉のように吹き飛ぶだろうに――と、龍が頭をもたげた瞬間。
「それを待っていた」
目の横を何かが直撃し、直後に龍の意識は闇に包まれた。
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