幕間 聖域にて


(……逃がしたか)


 侵入者の背中が遠ざかり、やがて後ろ姿の輪郭すら見えなくなった後も、白銀の少女はその場に佇んでいた。


 華奢な脚を地面に縫い留めるのは、ちり、と胸の中で火花のように焼き付いて離れぬ、刹那の光景。



 ――橋の袂に足を掛ける直前に、ほんの一瞬こちらを振り返った、黒髪の少年の姿。



 少女を恐れるでもなく、ただ何事かを見極めるかのように向けられた、不敵なまなざし。

 こちらの視線に小揺るぎもしない、わずかに青みがかった黒い双眸を思い返すと、握り締めたままの左拳がかすかに疼いた。


 そっと手を開き、まじまじと掌を見つめる。――素手で少女とやり合おうとした命知らずは、あの少年にんげんが初めてだった。


(しかも、わたしの掌を反らすとはな。……一体、何者だ?)


 無論、少女はあの少年の拳を、躊躇なく握り潰すつもりだった。

 そうして戦意を喪失させたところで捕らえ、尋問する予定だったが――らしくもなく、冷静さを欠いてしまったことに溜息を吐く。その拍子に、周囲にちらちらと白い炎が舞った。


 抑え切れぬ憤激と憎悪の、何よりも雄弁なあらわれに、唇をぎり、と噛み締める。


(……あの剣が、親の形見だと? そんなわけがあるか)



 ――――



「――姫さま?」



 木の実がはじけるような明るい声に、はっと現実に引き戻される。

 一つ息を吐き、ふつふつと滾る激情を胸の奥底に用心深く沈めてから、ゆっくりと少女は振り返った。


「……シュリカ? どうした、こんな所で」


 予想通り――背後にちょこんと佇んでいたのは、淡い白金の毛並みと、冬空のような薄青の瞳が特徴の、まだあどけない仔龍だった。


「だって姫さまが、ぼくと遊んでたのに、急にいなくなっちゃうから。いそいで追いかけてきたの」


(……そうだ、しまった。シュリカによく言い含めておくのを忘れていた)


 ちょうどシュリカに竜族の伝承むかしばなしを語り始めた時、橋の近くで複数の魔力が発動する気配を察した少女は、「少し出てくる」とだけ言い残し、この場に急行したのだった。


「わざわざ追いかけさせて、すまなかったな。……ついさっき、聖域ここに人間が侵入した気配があったから、様子を急いで見に来たんだ」

「えっ、にんげん? にんげんって、あのにんげん?」


 シュリカは、まるい冬空の瞳をさらに大きくして、興奮したように声を上ずらせた。くんくんと、しきりに小さな鼻を動かしている。


「そうだ。わたしたちの住処を荒らし、同胞たちを傷つけようとする、悪い生き物だ」

「ねえ姫さま、にんげんって、そんなにわるい生き物なの?」


 ――シュリカは、人間を見たことがない。それどころか、この聖域から一歩も外に出たことがない。


 気取られぬようそっと目を伏せ、しゃがみ込んでシュリカの頭を撫でる。


 ……同じ年頃の仔龍たちと比して、明らかに細い四肢と、色つやの鈍い、白に近い毛並み。冬の天頂の色をしたうつくしい双眸は、まさしく嵌め込まれた宝石シュリカのごとく、生来から瞳としての機能をほぼ失っている。


 その代償であるかのように、非常に優れた嗅覚を持っているものの――人間に万一出くわすようなことがあったとて、視界がほとんど閉ざされていれば、身を護る術などない。


(……だからこそ、この子はわたしが守らなければ)


「ああ、そうだ。シュリカも、〝炎の誓いジェ・ラ・トゥゾ〟は聞いたことがあるだろう?」


 ――〝炎の誓い〟。

 龍と人間が戦端を開くきっかけとなった、竜族にとって、決して忘れ得ぬ災禍。


「竜族のすみかの山を燃やして、こどもたちをさらっていったってお話のこと? あのお話に出てくるわるい生き物が、にんげんだったんだね」

「なら、わかるだろう? 人間は悪い生き物だから、絶対に近付いちゃいけないし、間違ってもこの橋の傍に近付かないこと。いつ人間がやってくるか、わからないんだから」


 ここぞとばかりに人間の危険性を説くと、シュリカは不思議そうに、大きな瞳を瞬かせた。


「じゃあ、どうして橋を壊さないの? そうすれば、にんげんは入ってこれないでしょう?」


 一瞬だけ、少女は息を呑んだ。――そうだ、この子は、とても聡いのだ。


「……シュリカの言うとおりだ。でも、わたしたちは、この橋を残しておく必要がある。――やってきた人間から、聞き出したいことがあるから」

「ききだしたいことって、なあに?」


「それは――……」


 無邪気な問い掛けに、いったいどう答えたものか、と口を噤んだ瞬間、突如として低い声が会話に割り入った。


『姫様。――お話し中申し訳ございません、お伝えしたいことが』

「少し待ってくれ。……シュリカ、大事な話だから、なるべく静かにな」


 風魔法による、遠距離からの声の転送に応答しつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 シュリカの質問を一旦保留にできたことに内心安堵しながら、素早く頭を切り替えた。


「なんだ? 門番アシュクールが目を覚ましたか?」

『ご明察です。つきましては、直ちにご報告に伺いたいと』


 相手の声が、一瞬だけ微かな震えを帯びたことを、少女は鋭敏に悟った。気付かれぬよう溜息を押し殺し、端的に告げる。


「……言い訳ならいらない。そんなことより、安静にして早く体調を整えろと伝えて」

『かしこまりました。……後任は、いかがいたしましょう?』


 アシュクールが療養する間、門番を誰に任せるか。

 問題は、人語を喋ることができる龍が、非常に少ないことだ。――おまけにその数少ない同胞には、他の任務を割り振っている。


 ゆえに少女は、淀みなく答えを返した。


「後任はいらない。……数日の間なら、わたしが務めるから」

『そんなっ!? 姫様御自らが、そのようなこと――……』


 取り乱した様子の相手に、少女はただ一言のみ、告げた。




「――わたしでは、不服とでも?」




 ざわり、と大気が蠢く。語尾にかすかに滲んだ怒気が伝わったのか、相手がはっと息を呑んだのがわかった。


「この件は以上だ。……まだ話はあるか?」

『姫様の仰せの通りに。――大変失礼いたしました』


 一陣の風とともに気配が立ち消え、少女は今度こそ深い溜息を吐いた。


(怖がらせたくは、ないんだがな……)


 掌をかざし、所在なげに手を開いては閉じる。――華奢な人間の姿を取ったとて、結局何も変わらなかった。


 ……人化することで力を抑えてもなお、同胞に怯えられる自分。


 龍の姿で行動している時も、遠巻きにされるばかりで、誰も自分に近付いては来なかった。


(だから、わたしは――……)



「姫さま、どうしたの?」



 まろい、愛らしい声が、物思いに沈む少女を掬い上げた。

 まばゆいばかりの無垢な瞳が、まっすぐにこちらを見上げている。光をほとんど映さない冬空の瞳は、その代わりに少女を恐れることもない。


 淡い微笑みを浮かべた少女は、わしわしと掻き混ぜるように、シュリカの頭を撫でた。


「……なんでもない。そうだシュリカ、〝姫様〟なんて堅苦しい呼び方はやめてくれ」

「でも、長老たちに怒られたの。姫様のお名前を、そんなにかるがるしくお呼びするんじゃないって」


「そんなこと、気にしなくていい。……でも、そうだな。それなら、わたしとシュリカが二人で遊んでいる時だけでもいいから、わたしのことを名前で呼んでほしい」


 ――〝姫様〟と呼ばれるのは、本当はあまり好きじゃないから、と。


 内緒話を打ち明けるようにこぼすと、シュリカは光のようにわらって、小さな翼をぱたぱたとはためかせた。



「うん、――シェリエさま!」


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