5-4
4
領主が不穏な台詞を残し、身を翻したその時――ぞ、と背筋を貫いた悪寒に、アーキェルの全身が総毛立った。即座に縛られた身体を転がし、襲い来る猛烈な危機感の正体を確めん、と視線を上げる。
――瞬間、鼓動が凍り付いた。
(……見られて、いる?)
床に這いつくばっている体勢からでは、相手がこちらを
痛みさえ覚える視線の鋭さに、ぶわり、と冷や汗が吹き出る。粟立つ皮膚の、震えが止まらない。
過去に対峙した、どんな相手よりも――ややもすると、あの竜姫すら凌駕するほどの凶悪な気配が、周囲を瞬くうちに圧していく。呼吸すら忘れ、神経を張り巡らせるようにして、相手の動向を見極めようとしていると。
「……おい、無事か?」
囁き声とともに、何者かがアーキェルの背後にしゃがみ込んだ。不意をつかれ、びくりと身体を揺らして後方を振り仰ぐ。驚くべきことに、忽然と姿を現したロルムが刃を突き立てたのは、アーキェルの手首を締め上げている、縄の結び目だった。
「――何をしている、ロルム?」
視界の外から、領主の厳しい叱責が飛ぶ。しかしロルムは縄を切る手を休めず、あろうことか自らの主君に対して、声を荒らげて言い返した。
「騎士として、このような真似を見過ごすわけには参りません! いかにこの者とて、手足の自由が利かぬ状態では、龍と渡り合うことなど敵わぬでしょう。正々堂々と戦うことすらできず、一方的になぶり殺しにされる様など、私は見たくありませぬ!」
「構わん。――今の世に、英雄など不要だ」
にべもない領主の
「ありがとうございます、ロルムさん」
ロルムが無言で、黒剣の鞘を差し出してくる。促されるよりも先に、素早く剣を抜き放ち、両足の縄を断ち斬った。
アーキェルが立ち上がったその瞬間、ぼっ、と大気が燃え上がり、広間の周囲が炎の壁に包まれる。十中八九、領主の仕業だろうが――魔法を斬れる白剣がない以上、この空間から脱出する術はない。
ともに炎の結界の中に取り残されたロルムと、束の間視線を交わした直後、押し寄せる強大な殺気に、ばっと頭上を振り仰ぐ。
さながら鮮血のごとき、真紅の双眸。
ひときわ異彩を放つ、禍々しい漆黒の角と、半ばから折れた痛々しい両翼。
巨躯に絡み付く、膨大な数の鎖と――全身からぼたぼたと滴り続ける、黒い液体。
「…………っ!」
立ち込める生臭い匂いと、床に広がる
(……なんて、ことを)
龍は本来、神々しいほどにうつくしい生き物だ。しかし目の前の黒き龍は、領主の非道な仕打ちによって、もはや異形の怪物と成り果てていた。
不思議なことに、亡者のごときその姿に、嫌悪感は感じなかった。ただ、死を踏み躙られた龍に対する憐憫と、解き放ってやらなければ、という使命感が、アーキェルを強く、突き動かした。
すう、と息を吸い、一歩を踏み出した、その瞬間。
『ォオオオォォォオォオオオォッォオオォオオォオオォォオオ――――!!』
びりびりと大気を貫く咆哮とともに、大木のごとき脚を、黒き龍が振り下ろした。
「下がって!」
ロルムに警告を発しつつ、アーキェルは飛来する石礫を黒剣で弾き、紙一重のところで身を躱した。息を吐く間もなく、次々と床の破片を薙ぎ払いながらさらに前へと進み、一気に黒き龍との距離を縮める。
「何をやっている、退け!」
背後から、ロルムの怒号が轟いた。しかしアーキェルは疾駆する足を止めることなく、荒ぶる龍に近付いてゆく。
(……還りたい、よな)
おそらくこの龍は、苦痛をもたらす鎖から逃れようとして、もがいているだけだ。
そして何より――己を無理矢理引き留め、望まぬ形で蘇らせた、この世界を憎悪しているに違いない。
(どうにかして、解き放ってやりたい。……待ってろ)
鎖に囚われ、全身から黒い血液を滴らせる黒き龍の、足枷を目掛けて黒剣を振るい――歯噛みとともに、顔を顰める。
(くそ、硬い……!)
龍の剛力でも引き千切れない鎖が、たかだか一撃で断ち斬れようはずもない。痺れる両手で黒剣を構え直し、再び斬撃を繰り出そうとした、その時。
――緋い瞳が、アーキェルの姿を捉えた。
ざぁっ、と。全身の血潮が引いていく音が、耳の奥で低く、こだまする。
光の灯らぬ虚ろな双眸に、自我の色はなく。
ただ、命じられたままに、目の前の敵をすべからく殺戮するだけの、あまりに哀しい、その在り様に。
(……ああ、だめだ)
この黒き龍に、意志はない。こちらがいくら言葉をかけようと、けして通じることはないのだと、アーキェルは本能で悟った。
瞬くうちに、轟、と鞭のごとくしなる尾が迫り――死を覚悟したその刹那、眼前で翠色の閃光が弾けた。
「――何をしている! 死ぬ気か!」
ロルムの叫びが耳朶を打つと同時に、アーキェルは反射的に大きく跳び下がった。のけぞった鼻先をぶぉん、と尾が掠め、風圧で床に叩きつけられる。間一髪で受け身を取った次の瞬間、ロルムが紡いだ雷魔法が、黒き龍の頭上に降り注いだ。
「……え?」
「馬鹿、なっ!?」
まるで示し合わせたかのように、二人の驚愕の声が、重なる。
ロルムの雷撃は、確かに黒き龍を捕らえていたはずだ。しかし、雷魔法は発動した途端に、黒い光に呑み込まれ――跳ね返された。それも、ただ弾かれただけではない。
黒く焼き焦げた天井の残骸が、ぱらぱらと落下してくる光景を睨みつけながら、アーキェルはロルムに鋭く告げた。
「魔法は使えない! ――打ったら、増幅してこっちに返ってくる!」
「何だと!? 魔法なしで、この化け物にどうやって対抗しろと言うのだ!」
視線を送らずとも、ロルムの表情が焦燥と絶望に染まる様が、手に取るようにわかった。つぅ、とアーキェルの背を、冷や汗が伝ってゆく。
(……どうする? 防御しようにも、魔法を使えばこっちの首が締まるぞ)
黒き龍を解き放つどころか、今やこちらの命が危うい状況だ。
進退窮まり、逡巡するアーキェルを嘲笑うかのように、漆黒の角が、禍々しい輝きを放ち――覗いた牙の隙間から、闇色の光芒が零れ出る。
噂に、聞いたことがある。
おそらく、これは。すべてを燃やし尽くすと謳われる――龍の、息吹、だ。
為す術もないまま、黒い閃光がみるみるうちに膨れ上がる。そしてついに、黒き龍が、ゆっくりと口蓋を開かんとした、まさにその瞬間。
――天井が、溶けるように消え去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます