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 ――誰かが、泣いているような気がした。


 ぴちょん、ぴちゃん、と滴る水音が、か細い悲鳴のごとき風鳴りが、ひそやかに鼓膜を震わせる。どこか嗚咽にも似た響きに、うっすらと意識が呼び覚まされたその時、アーキェルの頬で、ぽたり、と冷たい雫が弾けた。

 半ば夢うつつのまま、濡れた顔を拭おうとして――両の手足が、縄のようなものでいましめられていることに、はたと気付く。


 ……鼻腔を侵す、えたような刺激臭。鈍い痛みを訴えてくる後頭部。自由を奪われ、床に転がされた身体。


 まんまと捕らえられたのだ、と状況を把握した瞬間、昏倒する直前の記憶が、奔流のごとく脳裡に蘇った。


 ――領主の執務室に隠された扉。長い階段を下った果てに辿り着いた、広大な空間。秘密が眠る最奥部に足を踏み入れた直後に、まばゆい光芒が、目を灼いて。

 ……そうだ。


「――ようやくお目覚めかね、アーキェル=クロム」


 聞き覚えのある声音とともに、赤みがかった閃光が全身に降り注ぐ。たまらず瞼を閉ざしかけるも、眇めた目を無理矢理こじ開け、アーキェルは声の主を睨みつけた。――予想通り、冷ややかにこちらを見下ろしていたのは、領主その人だった。


「あの落石をほぼ無傷で掻い潜り、あまつさえこの場所まで辿り着くとはな。そなたはよほど、悪運が強いと見える」


 カツ、コツ、と鋭い足音を従えて近付いてきた領主は、アーキェルの数歩手前で立ち止まった。赤い光が揺らめくその顔をまっすぐに見据えて、アーキェルは糾弾の言葉を口にした。


「――なぜ、この城の地下に、龍がいるんですか?」


 うっすらと笑みを湛えた領主の、背後に聳え立つ――

 床に転がされている今だからこそ、その全貌を見ることはかなわないが、アーキェルは意識を失う寸前に、確かにの姿を目撃したのだ。


「答えは明白だろう? 戦を終わらせるためだよ」

「どういう、意味ですか」


 驚くべきことに、領主はあっさりと首肯した。 

 ……他ならぬ軍の本拠地に、龍がいるとなれば大問題のはずだ。だが、決定的な秘密を握られたにもかかわらず、なぜ領主はこれほど落ち着き払っている? 

 得体の知れない不安がじわりと忍び寄ってくる気配を感じつつ、アーキェルは問いを重ねた。


「言葉通りの意味だよ、アーキェル=クロム。そなたはどうやら、思い違いをしているらしいな。……私とそなたの願いは同じなのだよ。私も、竜族との戦を終わらせたいと思っている。――人間の、完全なる勝利をもって」


 ……人間側の勝利で、戦を、終わらせる。

 あまりにも甘美な響きに、束の間自分の心が揺らいだことを、アーキェルははっきりと自覚した。しかしながら、淡い期待を押し流すように湧き上がってきたのは、強い疑念と戸惑いだった。


「失礼ですが、どうやって竜族に勝つつもりなんですか? 竜族は、人間がやすやすと倒せるほど甘い相手じゃない」


 竜姫シェリエの魔法の、すさまじいまでの威力が頭を過ぎる。……数百もの龍を相手に、人間が完全な勝利をもぎ取るのは、不可能に近い。そのことは、他ならぬアーキェルが、誰よりも思い知っていた。

 だが、領主はいっそう笑みを深め、背後の黒き龍を示すように、両手を広げて振り返った。


「それは私も承知の上だ。だからこそ、てきを以っててきを征す。いい考えだろう?」

「……竜族が、人間の命令を聞いてくれるとは思えません」


 絞り出すようなアーキェルの反駁を、領主は一笑に付した。


「その懸念は不要だ。ここにいる怪物ばけものは、私の意のままに動く。そのように、身体をいじったからな。……どうせもう死にかけていた哀れな怪物だ、生き永らえたことに感謝してほしいくらいだな」

「――――――――っ!」


 閃くように脳裡に浮かんだのは、セナの、レスタの父の、最期の姿だった。

 ……死を待つばかりだった命を、自分の思い通りにするために、弄んだ?

 あまりの非道に、視界がかっと燃え上がる。ぎり、と奥歯を噛み締め、怒りに任せて殴りかかろうとしたものの、虚しく縄が食い込むばかりの手足は、まるで言うことを聞かなかった。


「なぜ怒る? ……ああ、そなたは龍に育てられたのだったか。まさか、獣の気紛れに恩義でも感じているのか? それとも、神をも恐れぬ所業に、義憤でも感じているのか? まあ、どちらでも構わぬが――私は領主だ。目的のためならば、どんな非情な手段でも用いる。……それが、上に立つ者の宿命だ」


 静かな口調に反して、領主のまなざしは触れれば切れるほどに峻烈だった。その瞳に挑むように、なおもアーキェルは言い募る。


「なぜ、それほど戦おうとするんですか? 話し合いをすれば、」

「話し合いをすれば、人間が負ける。そんなことすら理解できぬのか? 和平交渉に臨めば、竜族の武力の前に人間はひれ伏すほかない。待ち受けているのは、竜族による支配だ。……それに、そなたも痛感したのではないか? 人間と竜族の間に横たわる溝は、あまりにも深い」


 ――やはり、人間おまえわたしは、どこまでいっても敵同士なのだな。


 憎悪と諦念と、かすかな哀しみが滲んだあの声が、耳の奥でしんとこだまする。ついに言葉を失ったアーキェルに、領主は畳みかけるように現実を突き付けた。


「よもや、竜族と人間が仲睦まじく過ごせるとでも思っているのか? それはそなたの故郷が、竜族の被害を受けていないからこそ抱ける幻想だ。……竜族に一晩で故郷を壊滅させられた者、親を戦で奪われた者は、枚挙にいとまがない。竜族への怨嗟の声が、止むことはない。それが、現実だ。――ゆえに、竜族を殲滅し、人間の勝利でこの戦を終わらせるよりほかに、道はない。……アーキェル=クロム。もう一度問おう、私の配下になるつもりはあるか?」


 領主に告げられた事実を噛み締め、そっと目を伏せる。そのまま口を噤み、しばし黙考して――――アーキェルは、ゆっくりと顔を上げた。


「おれの故郷の街は、たびたび盗賊に襲撃されていました。龍に襲われるほどの被害を受けていたとは、言えないかもしれません。だけど、理不尽に奪われるという点では、近いのではないかと思います。……でも、おれは盗賊を打ち負かしても、少しも嬉しくありませんでした。――本当は、戦いたくなんてなかったし、相手を傷つけたくもなかった。ただ、街の皆を護るためには、抗うほかなかった。盗賊も、自分たちの生活を守るためには、街を襲うしかなかった。……ただ、お互いに、大切なものを護りたいだけなんです。――おれは、そんな虚しい戦いを続けるのは、もう懲り懲りだった」


 言葉を続けるうちに、頭の中の霧が晴れるように、思考がどんどん冴え渡っていく。

 いつか、彼らが盗みに手を染めなくてもいい世が訪れればいいと、思っていた。

 けれど、いくら待っていても、きっとそんな都合のいい未来はやってこない。誰かがこの戦を終わらせてくれると願っているだけでは、何も変わらなかった。

 ……だから、アーキェルは、龍の渓谷を目指したのだ。



「おれは――龍と人が手を取り合う未来を、創りたい」



 氷の鈴を振るような、涼やかな少女の声音を、思い返す。


 ――わたしとしては、戦を止めるのはやぶさかではない。

 ――しかし、お前たち人間に、それができるか? 我ら竜族に、その誓いを信じさせるに足るだけの何かを、示すことができるか?

 ――お前たち人間こそ、竜族を赦すことができるか?


 あの言葉は、どうしようもない現実わだかまりを、竜族と人間の隔絶を突き付けているように思えるが、きっと、彼女の本心はそうではない。


 ……戦を止めたいと願っても、どうしようもない。

 ……人間を信じたくとも、信じるに足る根拠がない。

 ……もしも、互いを赦すことができたなら、どんなにいいか――。

 

 そっと目を伏せた白銀の少女の、瞳に過ぎった憂いを、想う。

 ――彼女はあの時、それは叶わぬ願いだと自らに言い聞かせるように、寂しげな微笑を浮かべていた。


(でも、本当は……シェリエも、争いを止めたいと想っているんじゃないのか?)


 そして、自分も、レスタも――この争いが終わることを、竜族と人間が共存できる未来を、心の底からこいねがっている。


 そうやって、同じ願いを抱くことが、できるのならば。

 いつか。――いつか、龍と人は、手を取り合うことが、できるのではないか?



「だから、あなたの臣下には、なれません」



 真っ向から告げると、領主は顔色一つ変えずに、淡々と呟いた。


「どうやら、私とそなたの考えは、相容れないらしい。残念だよ、アーキェル=クロム。……やはりそなたは危険だ。人間の結束を揺るがせかねない」


 カッ、コッ、と数歩の距離を縮めた領主は、不意にしゃがみ込み、アーキェルの髪をぐいと掴んだ。強制的に仰のかされ、半寸先にまで近付いた領主の瞳にぎらぎらと燃える憎悪と憤怒に、束の間目を瞠る。


「戦で疲弊しきった民の鬱憤は、今や頂点に達している。だが、民が反旗を翻さないのは、ひとえに我々が竜族から民を護っているからに他ならない。そこに、そなたが武名を領内に轟かせたことで、民は軍に変わる希望を見出した。ゆえに、叛意を抱く者にとっては、そなたは格好の旗頭となる可能性がある。……人間は必ずしも、一枚岩ではない。そなたを巡って、いつ領内で争いが起きてもおかしくない状況なのだよ。そなたが我が配下に加われば万事解決したものを、生憎その気はないそうだからな。……ならば、危険な芽は、早く摘んでおくべきだろう?」


 矢継ぎ早に告げるや否や、領主はアーキェルの髪からぱっと手を離し、高笑いとともに身を翻した。


「さあ――〝竜殺し〟の、お手並み拝見といこうか」

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