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 漆黒の光が、シェリエの胴体を、槍のごとく貫き――噴き出した血飛沫が、辺り一面を銀色に染め上げる。


 自分の体温よりも遥かに熱い鮮血を、頬に、腕に、脚に浴びてもなお、アーキェルは目の前の光景が、現実だとは信じられなかった。ゆっくりとシェリエが崩れ落ちてゆき、鼻先に、熟れた果実のような香りがツンと漂う。


「――――シェリエっっ!!」


 これは、彼女の血の匂いだ、と認識した途端に喉から絶叫が迸り、待ち構えていた現実が、急速に四方から押し寄せてくる。

 銀色に濡れた華奢な腕を掴んだ瞬間、黒い爆風が、周囲で爆ぜた。為す術もなく、木の葉のように吹き飛ばされたアーキェルが片手で白剣を振るったその時、かすかな翠色の光が、二人の身体を薄く覆った。

 風が緩衝材となり、背の高い草地の中に、転がりながらも無事に着地する。息を吐く間もなく、アーキェルは抱え込んだ少女を一心に見つめた。……呼吸はある。だが、血の気が失せた白い瞼は、力なく閉じたままだった。


「シェリエ? ……シェリエ、頼むから、目を開けてくれ!」

「…………うるさい。わたしがこれしきで倒れるか」


 柳眉を顰め、ようやく黄金の瞳を覗かせたシェリエが、アーキェルの支えを振り払うようにして、起き上がろうとする。しかし、わずかにその身体がふらついたのを見逃さなかったアーキェルは、先んじて動きを制した。


「もう問題ない。傷はひとまず塞いだ」


 眦を吊り上げたシェリエが、不満げに呟く。半信半疑ながらも、どうやら言葉の通り、新たな出血はないらしいと確認したアーキェルは、気取られぬよう、深々と息を吐いた。


「それでも、まだ立ち上がらない方がいい。……あの龍に見つかる前に、一度作戦を練り直そう」


 いくらぼろぼろに打ちのめされようと、相手は決して待ってはくれない。今もなお、膨れ上がった凶悪な気配が、血眼になって、自分たちを探している。

 ……決して認めることはないだろうが、シェリエはかなりの深手を負っているはずだ。そしてアーキェルもまた、限界を超えた可動を続けているせいで、全身の関節が、軋んで悲鳴を上げている。

 おそらく、まともに攻撃ができるのは、次が最後になるだろうということを、二人とも暗黙のうちに理解していた。


 闇色の火の粉が、絶望そのものを具象化したかのように降り注ぐ、只中にあって。

 ――銀色の血に塗れた彼女は、それでも不敵な笑みを浮かべて、告げた。


「アーキェル。いいことを思いついたぞ」


 黒い煤と血に全身を汚し、肩を上下させながらも、その神々しいまでの気高さとうつくしさは、わずかも損なわれていなかった。

 それどころか、ひときわ強い輝きを放つ黄金色の双眸が、アーキェルを、まっすぐに射抜いて。


「……奇遇だな。俺も、名案を閃いたところだ」


 彼女のきらめくまなざしの、表情の鮮やかさに、胸の奥から、とめどなく熱いものが溢れ出してくる。気付けばアーキェルも笑みを湛えて、彼女の手を、力強く握っていた。


「やってみよう。――二人で」

「ああ」


 それから二言三言交わした後、ふいにシェリエは口を噤み、はっとするほど真剣な瞳で、アーキェルを見つめた。


 まるで、時が止まったかのように。

 星が瞬いているような、ひとときごとに色彩が移り変わるうつくしい双眸から、目が、離せない。


 厳粛な面持ちで、透きとおる声音で、彼女は祝詞のごときうたを、口ずさんだ。



『――大いなる星の輝きと、我が名にかけて誓わん。〝希望の誓い〟の名を持ちし約束の少年よ、汝、我が双星なり』



 玉のごとくなめらかな瞼を閉じたシェリエの顔が、眼前に近付いて――額と額が、触れあった。同時に、つくり、と鈍い痛みが額を走る。


「これで、お前もわたしの力の一部を行使できる。……頼んだぞ」

「わかった」


 一つ頷き、ふ、と息を吐いた後、アーキェルはシェリエとともに、勢いよく草陰から躍り出た。たちまち黒き龍の視線がこちらを捉え、その口内に禍々しい黒い光が灯る。

 龍の息吹だ、と悟るや否や、二人はばっと左右に分かれて駆け出した。はたして、黒き龍は、少年の方に首を向け――――滅びの光を、躊躇なく解き放った。


「……だ」


 無造作に剣を一閃した少年と、禍々しい輝きの中間で、白銀の光芒が明滅する。

 束の間、漆黒の光と、真白き光が拮抗して――やがて白銀の閃光が、衝撃波とともに、世界を白く塗り潰した。

 白く染まった大地の上を一息に駆け抜けた少年が、黒き龍に刃を突き立てんとした刹那、しなる闇色の尾が、鞭のごとくその身体に巻き付く。


『ォオオオオォオォオオォォォオオォオオオッ――!!!』


 ついに捕らえた、とばかりに、黒き龍が快哉のごとき雄叫びを上げた。脆い人間の身体を、跡形もなく壊そうと、力を籠めた尾がぐっと膨らみ――


『……ッツ??』


 。たかが人間の力で、耐えられるはずがない。それなのに、なぜ?

 そう問いたげにうろたえる黒き龍の姿を認めた少年の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。次の瞬間、黒鋼色だったはずの瞳が、髪が、ゆらりと溶けて――が、その奥から現れる。





 黒き龍の背後の地面が突如として盛り上がり、その頂から、白き少女が流星のごとく飛び下りた。勢いもそのままに、黒い結界を斬り裂いた少女の身体から、光魔法が剥がれ落ち――が、鮮やかな体捌きで、白剣の狙いを定める。


「残念だが、もう遅い」


 咄嗟に尾を振り上げようとした黒き龍を、全身全霊で押さえつけながら、アーキェルの姿を脱ぎ捨てたシェリエは宣告した。


「これで、終わりだ」


 アーキェルが、シェリエの魔力を宿した白剣を、黒き龍の捻じくれた角目掛けて振り下ろし――



 澄んだ音とともに、が、儚く砕け散る。



 遠く離れたアーキェルの顔に、驚愕の色が奔る。無数の星のごとく宙を舞い躍る角の欠片に、その背中が、小さく震えたように見えた。

 ……当然だ。唯一の親の形見を失って、平静でいられるはずがない。だが。


「アーキェル! ――――弔ってやれ!」


 長い尾に締め上げられた身体が、みしり、と鈍い音を立てる。口からごぷりと血が溢れ出ようと、そう呼び掛けずにはいられなかった。





 敵前にもかかわらず、自失していたアーキェルの耳朶を、シェリエの凄絶な声が、凛と打つ。


「アーキェル! ――――!」


 いつもの彼女の澄んだ声音にはほど遠い、文字通り血を吐くような声だった。

 しかし、だからこそ、その想いが、アーキェルの魂を揺り動かし――拳を、血が滲むほど強く、握らせた。


(……まだだ、)


 先の一撃で、漆黒の角には半ばまで罅が入っている。……だから、もう一度、自分がこの手で、やり遂げるしかない。

 中空から落下していく刹那、覚悟を固めたアーキェルの目には、すべてがゆっくりと映っていた。


 ――顎を開こうとする、黒き龍。口から血を溢れさせたシェリエ。焦土と化した草原。紅く暮れゆく空。きらきらと、瞬きながら落ちてゆく、白銀の欠片たち。


 ……黒い鬣に絡み付いた鎖が、空気を切り裂きながら、こちらに近付いてくる。掴む。揺れる反動で、再び宙に飛び上がる。


 その一連の動作が、はっきりと、視えた。


 捉えた光景のとおり、あやまたず黒き龍の鼻先に降り立ち、振り落とされるより先に、巨大な鼻面の上を疾駆する。防御は一切考えないまま、額の捻くれた角の根元まで走り抜け――拳を、全力で振り下ろした。

 拳の中に握り締めていたかたみの欠片が、まばゆい白銀の光を放ち、宿っていた竜姫の魔力が、奔流となって溢れ出す。


 瞬間、リィン、と高い音が響き渡り――半ばから罅割れていた漆黒の角が、千々に砕け散った。


 黒き龍の、この世のものとは思えぬ絶叫が上がり、同時に激しい揺れが全身を襲う。堪えきれずに両脚が宙に浮き、重力に従って、あえなく大地へと手繰り寄せられていく、その刹那。




『――――大きくなったわね、〝希望の仔クロム〟』




 かつて記憶の中に眠っていた、やさしい声が。

 白金の毛並みを持つ龍の、この上なく慈しみに満ちた微笑みが――ほんの一瞬だけ、アーキェルに、確かに向けられて。


 ふわりとやわらかな風に包まれ、アーキェルが大地に降り立ったその時には、まるで全てが幻であったかのように、白い骨が地面の上に横たわっていた。

 吹き抜ける風に、カラ、カラ……と乾いた音を立てる母親の遺骨を、声もなく見つめるアーキェルの横に、ゆっくりと歩み寄ってきたシェリエが、そっと寄り添う。


 静かに肩を震わせるアーキェルに、何も語りかけることなく。

 白銀の少女は、ただ、いつまでも、その傍らに佇んでいた。

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